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.国際  投稿日:2017/3/20

英国王室にささやかれる疑惑 暗殺の世界史入門その5


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・英国に過去暗殺された国王いない。

・王室が暗殺に関与の噂はある。

・19世紀の首相射殺事件とダイアナ妃事故死がそれ。

 

4年前に『女王とプリンセスの英国王室史』(ベスト新書)という本を出していただいたが、執筆のためにそのさらに1年近く前から、英国史をおさらいした。

そして、意外にも(などと書くと不敬の誹りを免れ得ないであろうが)英国王室の歴史上、暗殺された国王がいないことについて、あらためて考えさせられた。

と言うのは、同書の冒頭近くで、日本の皇室との対比に言及し、英国王室は「萬世一系を称していない」と述べたのだが、たしかに幾度も王権の交代を経験している。それも、フランス系であったりスコットランド系であったり、現在のウィンザー家はドイツ系だといった具合に、基本的に「征服王朝」の歴史なので、血生臭い王位争いもあったのでは、と考えられがちなのだ。

事実は、前述の通り国王の暗殺という事態を英国は経験していない。15世紀には、王位を巡る内戦(有名な薔薇戦争)があったが、これは暗殺とは問題の質が異なる。それを言うなら日本にも南北朝の時代があった。ただし、王室が下手人ではないかと疑われた事件が二つある。今回はその話を。

暗殺された英国王は存在しないが、暗殺された英国首相は一人だけいる。スペンサー・パーシバル(1762~1812)という人物だが、日本の歴史教科書などには、まず登場しない。アイルランド貴族の家系だが、ケンブリッジ大学で学び、弁護士を経て議員になった。

時の英国王はジョージ3世であったが、1811年に認知症を患い、嫡子のジョージ皇太子=後のジョージ4世が摂政に立った。このジョージ皇太子が、王室費の増額を内閣に再三要求したが、パーシバル首相は、その都度つっぱねていたのである。当時の英国は、アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争といった外患に見舞われ、財政的余裕などなかった。

ちなみに、ジョージ3世は認知症で隠遁したと述べたが、本当はそれ以前から、植民地への課税強化がアメリカ独立戦争を誘発し、新大陸の領土を失ったことを悔いて、鬱状態にあったと衆目が一致している。

いずれにせよ、摂政ジョージはパーシバル首相の罷免を画策したが、父王ジョージ3世の側近達に押しとどめられた。そして1812年5月11日、首相は議事堂のロビーにて至近距離から銃弾を浴び絶命する。犯人については、「首相の経済政策に不満を持つ、精神障害のある男性」と発表されたが、この発表自体、ケネディ元大統領の暗殺事件を連想させるではないか。

念のためお断りしておくが、この暗殺事件に王室が関与したのではないか、というのは、あくまでも噂の域を出ない話である。王室と対立関係にあったことや、後継の首相に王室に近い上級貴族(リヴァプール伯ジェンキンソン)が就任したことなどが、噂の根拠となった。

もうひとつは、日本の読者にも未だ記憶に新しいであろう、ダイアナ元皇太子妃の事故死である。1997年8月31日、当時すでに婚約していた(と死後に公表された)エジプト人の富豪ドディ・ファイド氏とともに、パリのリッツホテルを出たダイアナ元妃が、市内のトンネルで事故死した。

スキャンダル写真を狙って車を追尾してきた、パパラッチを振り切ろうとした運転手がハンドル操作を誤ったものと見られるが、これも当初から暗殺説が囁かれた。

当時すでにイスラム過激派が脅威となっており、ドディ・ファイドなる人物の子供をダイアナ元妃が産んだような場合、英国の王位継承権者である二人の王子に「ムスリムの血を引く異父兄弟姉妹」ができる。

そもそもドディとはムハンマドの愛称であるし、結婚する場合にはダイアナ元妃自身がムスリムに改宗することも充分に考えられた。

そんなことが認められるか、というのが「王室による暗殺説」の根拠だが、私は、それはあり得ない、と断じた。そもそも離婚して王室を去った女性を暗殺する動機など、王室にも英国政府にもない。詳しくは冒頭で紹介した拙著をご参照いただきたい。

ひとつだけ、ここで付け加えるとすれば、そういった噂が絶えない背景には、ダイアナ妃が悲劇的な最期を遂げたのは、チャールズ皇太子はじめ王室の責任だ、と考える英国人が、決して少なくない、という事実がある。

彼女の早すぎる死を悼む気持ちは、私も共有しているが、だからと言って無責任な噂を振りまくのはよくない。事故当日、現場に駆けつけた救急隊員の証言によれば、ダイアナ元妃の最期の言葉は、「Leave me alone (放っておいて)」だったそうである。


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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