逆効果だった「カエサル暗殺」 暗殺の世界史入門その2
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
ユリウス・カエサルの名は、今や日本でも知らぬ人がないほどである。
厳密には、かつてはジュリアス・シーザーという英語読みでもっぱら知られていたが(教科書にまでそう表記されていた)、塩野七生さんの『ローマ人の物語』(新潮社)など、良質な書籍が売れるようになったおかげで、ラテン語原音に近い表記が定着してきた。
歴史上の「超有名人」なので、多くを語る必要もないが、紀元前100年頃にローマの貴族の子として生まれたが、幼少期については信頼すべき資料がなく、生年月日も正確には分かっていない。
長じてローマの政界において頭角を表すようになるが、とりわけ顕著だったのは軍事面での功績で、現在のフランスを制圧したガリア戦争で挙げた武勲により、民衆の圧倒的な支持を集めたが、その一方では、独裁的な権力への野心を隠そうともしない彼を警戒した元老院との対立が深まっていった。
ついには元老院との間で内戦を引き起こすが(紀元前49~45年)、軍団を率いてルビコン川を押し渡り、ローマに向けての進撃を開始する際に、兵士に対して「賽は投げられた」と檄を飛ばした。成否はもはや神のみぞ知る、という意味で、今も人口に膾炙している。文筆家としても歴史に名をとどめている彼は、こうした印象的な言葉を数多く後世に残しているのだ。
この内戦に勝利を収めたことで、終身独裁官という地位を得るのだが、元老院派は収まらず、紀元前44年、暗殺されてしまう。その際も、刺客の中に腹心の部下であったブルータス(こちらは、原音はブルトに近いらしい)が含まれていたのを見るや、「ブルータス、お前もか」と言い残して絶命したと伝えられており、部下に裏切られた権力者の心境を象徴する言葉として、やはり人口に膾炙している。いずれにせよ、世界史をひもとけば数多く見られる政治的暗殺の中で、もっとも有名なもののひとつであろう。
余談ながら、カエサルはガリアでの戦功によって大衆的人気を得たと述べたが、その背景をもう少し説明しておきたい。実はこの時期、カエサルはローマ市内の随所に、元老院との論争の内容をリークする貼り紙をして、世論を味方につけることに成功した。この貼り紙こそが新聞の起源であるとされている。異説もあるようだが、横浜市の新聞博物館の展示でもこの説が採用されており、もっとも有力な説であることは間違いない。
さらに、暗殺の後日談を。ユリウス・カエサルにはアウグストゥスという養子がいた。暗殺の後、彼を中心として、カエサルを神格化して一段と強力な中央集権体制を作ろう、とする勢力が台頭し、元老院の権威を復活させようと考える一派との間で、再び内戦が勃発する。この内戦もまた、アウグストゥスらの勝利に終わり、ここに帝政が始まる。やがてカエサルという名は皇帝の称号そのものとなった。独裁者を除こうと決行した暗殺が、結果的には帝政ローマへの道を開いたとも言えるわけで、歴史は本当に皮肉に満ちている。
ただ、初代皇帝となったアウグストゥスは、カエサルの時代に頂点に達した対外膨脹政策をあらため、平穏な支配を意味する「パクス・ロマーナ=ローマに拠る平和」を実現させたわけだから、このあたりの評価も難しいところだ。
もうひとつ、余談を。このアウグストゥスだが、カエサルの時代までに膨脹したローマの版図、北はゲルマニア(現在のドイツ)からブリタニア(現在のイングランド)、南は中近東一帯までを守るために「常備軍」を編成し、かつ金銭で動く傭兵を多数採用した。
その財源を確保するため、すべての商人に対して「100分の1税」を課した。売り上げの100分の1を納税させるものであるが、これだと税率わずか1パーセントでも、全体では莫大な税収が得られる。
読者ご賢察の通り、これが現代日本の消費税に至る、大型間接税の起源なのだ。
「新聞も消費税もローマに通ず」という言葉は、教科書に載ることはないにしても、知っておいて損はない。
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。