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.国際  投稿日:2018/1/19

バスクを参考に解決の道探れ カタルーニャ独立問題(下)


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・カタルーニャと同じくバスク地方も独立運動が盛んだった。

・しかしバスク独立運動は反政府テロ化し多くの死者を出した。

・スペイン中央政府は過去に学び、カタルーニャ自治州と話し合うべき。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て表示されず、写真説明と出典のみ表示されることがあります。その場合はhttp://japan-indepth.jp/?p=38101でお読みください。】

 

カタルーニャ独立問題を扱った記事の冒頭で述べたが、2017年9月6日、州議会において、独立の是非を問う住民投票の実施が可決された当日、私はスペインのバスク地方にいた。読者もよくご存じのことと思うが、バスク地方もまた、かつては独立運動が盛んで、独立派の一部は反政府テロに走り、多くの犠牲者を出した。

カタルーニャでのこの決定が、なにか影響を及ぼすかと思ったのだが、街は平静そのもので、TVでも特に変わったことは報じられなかった。バスクというのは、スペインとフランスの国境を挟んだ地方であり、カタルーニャ以上に歴史と文化の独自性が際立っている。

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▲写真 バスクとカタルーニャの位置関係 出典:https://fx-works.jp/c5_20151016/

たとえば言語だが、我々が通常「スペイン語」と認識しているのは、マドリードをはじめとする中央部で用いられるカステーリャ語のことだ。これに対してカタルーニャ語は、地理的な関係から南フランスの言語の影響を強く受けており、カステーリャの人たちに言わせると「スペイン語とフランス語のミックス」だということになる。

それでも、カタルーニャ語とカステーリャ語では会話も可能だが、バスク語となると、周囲の言語とまったく共通性がない。ただ、カタルーニャとの共通点はあって、それは、第二次大戦前に成立したフランコ独裁政権によって、独自の言語の使用を禁じられるなど、弾圧を受けたという歴史である。

もっともバスクの場合、フランコ以前のことを言えば、13世紀以降カステーリャ王国の支配下にあったものの、フエロと呼ばれる、習慣法に基づく特別法が適用されていた。これにより、バスク人は兵役を免除されていたのである。

1876年に、このフエロが撤廃されたことを機に、徐々に独立を志向する人が増えていったと言われるが、組織的な反政府運動が始まったのは1959年のことだ。1952年には、英国からの独立を目指して戦っていたIRA(アイルランド共和国軍)を見習ってETA(バスク祖国と自由)が旗揚げされていたが、1959年以降、反フランコを旗印とした武装闘争へと、急激に傾斜して行く。

この背景には、同じスペイン語圏であるキューバにおける武力革命の成功が、独立を願う住民感情を大いに盛り上げ、かつ先鋭化させたことがあると言われている。

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▲写真 IRAの戦闘員 出典:CAIN (Conflict Archive on the INternet) – University of Ulster.

1975年にフランコが死去し、王政復古が行われたが、今度は1978年に制定された新憲法で、バスクを自治州と認める一方、バスク人をスペイン人として扱うことになったため、話がややこしくなった。

この、ETAによる反政府テロの被害だが、なかなかすごい。治安部隊だけでも、グアルディア・シビル(直訳すれば民間防衛隊だが、国防省に属する治安部隊で、他国の武装憲兵隊に相当する)の203名を筆頭に、スペイン・フランス両国にまたがって計486人が殺害された。民間人の死者も343人に達する。ETAの側も、治安部隊の攻撃によっておよそ400人が死亡。4000人以上の負傷者と3万人近い逮捕者を出した。

冷戦が終結し、もともと彼らが手本とした北アイルランド紛争が終息を見た後も、ETAはテロを継続したが、2006年までに「コマンド部隊」のほとんどが逮捕され、壊滅状態となった。かくして2011年、ETA側からの申し出により、停戦が成立する。

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▲写真 2011年停戦を発表するETAメンバー 出典 flickr:UKBERRI.NET

このように述べると、いかにも治安部隊の勝利のように思われるかも知れないが、実際はそこまで単純な話でもない。バスク地方は、前述のようにスペインとフランスにまたがり、かつ大西洋に面しているという地の利があって、19世紀以降、工業が発展し、実はスペイン国内においても、かなり豊かな地方なのだ。この点は、カタルーニャとよく似ている。

その分、近隣の地域から職を求めて移住してくる人が多く、現在スペイン国内に限っても、バスク地域の住民の過半数はバスク以外の出身者だという。それだけに、バスク独立が直接的に自分たちの利益にはならない、と考える人が多いわけで、テロリストの支持基盤がどんどん弱体化して行ったのである。

加えて、独立派も一枚岩ではなかった。これまたカタルーニャと似た状況だが、バスクの場合は、こうした党派間の争いにまで暴力が持ち込まれ、内ゲバまで起きていた。なおかつ、ETAのテロに対抗して、極右派のテロ組織も登場し、爆弾などで多数が巻き添えとなった一般市民からは、「独立の大義名分より、自分たちは命と生活が大切だ」という声がわき起こるに至った。もっともな話ではないか。

ひるがえってカタルーニャの問題を再び見てみると、独立派も現在のところ、暴力に訴える考えはなさそうだ。そうであれば、中央政府がもう少し柔軟な対応をして、独立派の要求のもっとも基本的な部分、具体的には独自徴税権の拡大について、誠実な話し合いのテーブルに着くべきであろう。地域住民の声を無視した強権の発動は、暴力と同列であると私は考えるが、どうだろうか。

(この記事は「弱い指導者」の弊害 カタルーニャ独立運動(上)のつづきです。全2回)

トップ画像:Euskadi Ta Askatasuna(略称ETA)バスク祖国と自由 バスク地方の分離独立を目指す民族組織 出典/flickr:Montecruz Foto  Eguneroko borroka


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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