だから「十字軍」は憎まれる イスラム脅威論の虚構 その6(上)
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・ブッシュ大統領「十字軍発言」でムスリムの怒りは米国に。
・十字軍は占領地で略奪や強姦などの蛮行をさかんに働いた。
・ローマ法王庁はキリスト教原理主義のルーツのごとき思想的傾向を持っていた。
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あの9.11(2001年9月11日に米国で起きた、同時多発テロ事件)の衝撃的な映像は、20年近く経った今でも記憶に新しい。
しかし、事件後ほどなく(16日)ジョージ・ブッシュJr.大統領の口から出た、史上最悪レベルの失言は今や忘れられようとしている。彼は、こう言ったのだ。
「この十字軍、このテロとの戦いは、すでに始まっている」
この発言、とりわけ十字軍という単語が、全イスラム社会を震撼させ、中東諸国はもとより、ヨーロッパ諸国からも非難の声が上がった。ホワイトハウス筋は、「全イスラムを敵視しているわけではない」 とコメントし、火消しに躍起となったが、時すでに遅し、だったのである。
事件直後、イスラム系の人々の怒りは、もっぱらテロリストたちに向けられていた。ごく一部の頭のおかしい連中のせいで、欧米諸国とイスラム諸国との関係が悪化したら、どうしてくれる、といった受け止め方をしていたわけで、いたって常識的な反応だった。
そのように、当初はテロリストたちに向けられていたイスラム系市民の厳しい目が、十字軍という言葉を聞いたとたんに、今度は米国に向けられるようになってきた。
現実問題として、その後ほどなくイラクやアフガニスタンが激しい空爆にさらされ、多くのイスラム系市民が犠牲となったわけだが、こうした行為は、中東の地で虐殺や略奪をほしいままにした十字軍と、まさしく二重写しだったのだろう。
▲写真 首都バグダード、アル・ドゥーラ地区で銃撃戦を行う米軍兵士 2007年3月7日 Photo by Staff Sgt. Sean A. Foley
1095年、セルジューク朝(トルコ人主体のイスラム王朝)との国境紛争で劣勢に立たされた、東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノスが、時のローマ法王ウルバヌス1世に、援軍を依頼した。その大義名分として、「異教徒に占領されている聖地エルサレムの奪還」を訴えたわけだが、皇帝の本音はせいぜい傭兵部隊を派遣してもらうことで、十字軍のごとき本格的な遠征軍ではなかったと衆目が一致している。
さらに問題だったのは、当時の法王庁が、キリスト教原理主義のルーツのごとき思想的傾向をもっていたことで、法王自身がフランスなどの騎士団に対し、イスラムとの戦いで犠牲を払ったならば、原罪の償いを免除されよう、と呼びかけた記録が残されている。
十字軍の思想的背景について、
「汝の敵を愛せよ。ただし異教徒は除く」
「汝、殺すなかれ。ただし異教徒は除く」
などと現在でも評されるゆえんである。
かくして1096年暮れ、各地から参集した諸侯の軍勢がコンスタンチノープル(現・イスタンブール)に集結し、イスラムの領域に対して侵攻を開始した。
ちなみに十字軍というのは後に広まった俗称で、十字架をあしらったデザインの旗や衣装を好んだからに過ぎないと言われる。
彼らはアナトリア半島(トルコのアジア領域)を経てシリアへと進撃したが、当地の人々からは単に「フランク人」と呼ばれた。
▲写真 アナトリア半島(赤く囲まれた部分) 出典 NASA image modified by en:User:Denizz
前述のように、第一回十字軍の主力をなしたのがヨーロッパ大陸中西部の騎士たちで、彼ら自身がフランクと名乗っていたことが第一の理由ではあろうが、中近東のイスラム諸侯にしてみれば、宗教戦争と言うよりも、北方の蛮族が攻めてきた、というに近い認識だったのである。
ただ、この時期イスラムは決して一枚岩ではなく、むしろ諸侯の勢力争いの結果、一部には寝返りも出たため、兵力的には劣勢のキリスト教軍団(以下、十字軍)に対し、連敗を重ねる有様であった。このことがまた、十字軍の側にとっては、「神のご加護で優勢な敵を打ち破った」などと、聖戦の意識を高める原因となったのである。
しかし、聖戦をとなえる彼らが、占領地で略奪や強姦などの蛮行をさかんに働いたことも事実で、十字軍どころか蛮族だ、というイスラム側の見方も、あながち悪意に基づく「歴史認識」とも決めつけられない。
とどのつまり、どこかの国の旧軍とよく似た話で、十字軍兵士の大部分は、聖戦という大義名分を信じており、それゆえ士気も高かったのだが、戦争指導部が無能かつ無責任で、史上稀に見る規模の軍事遠征でありながら、補給の問題を真面目に考えていなかった。
この結果、物資の補給を「現地調達」に頼らざるを得なくなり、なおかつ聖戦の美名に隠れて兵士のモラルには無頓着であったために、イスラムの目に映る十字軍とは残忍な侵略者に他ならない、ということになっていった。
▲写真 第1回十字軍のエルサレム侵略 出典 パブリックドメイン
こうした問題を抱えながらも、十字軍は1099年、ついにエルサレム占領を果たす。当初の、つまりコンスタンチノープルで交わされた約束では、エルサレムを占領したならば、その宗主権は東ローマ帝国に属することになっていたのだが、現実には軍団を率いてきた有力な諸侯が、エルサレム王国はじめ自らの王権を樹立した。いわゆる十字軍国家である。
▲写真 考古学を元に再現された1世紀のエルサレム 出典 パブリックドメイン
当時、エルサレムはじめシリアやパレスチナの各地方には、キリスト教徒も大勢暮らしていた。イスラムの支配下にあったことは事実だが、その支配は基本的に穏健なもので、非イスラムにのみ課せられる人頭税があったことと、役人になって出世する道が開かれていないこと(近代国家でも、公務員の採用には国籍条項を設けている国が大半である)さえ甘受すれば、信仰の自由は認められていた。
むしろ十字軍の支配下に入ってから、独自のコミュニティーが解体されてカトリックの教区に強制的に組み入れられ、喜捨の強要、早い話が財産を略奪されたりしたのである。
私が、当時のローマ法王庁はキリスト教原理主義のルーツのごとき思想的傾向を持っていたと述べたのは、具体的にはこのことを指している。
たとえ当時のエルサレムがキリスト教徒の都であったとしても、法王庁は、自分たちだけが真の聖書の民である、などといった大義名分を考え出し、結局は十字軍が攻めてきただろう、と考える人は(主にアラブ系の歴史家ではあるが)実際に多い。
……以上、第一回十字軍の経緯とその問題点について、概略のみ語らせていただいた。
ここで言う問題点とは、あくまでもイスラムはじめ侵攻を受けた側の視点でもって指摘したものである。十字軍を送り出した側には、もちろん別の論理がある。本稿の後半で、そのことを語らせていただこう。
(だから「十字軍」は憎まれる イスラム脅威論の虚構 その6(下)に続く)
トップ画像:ワシントンDCのイスラムセンター訪問中、ジョージ・ブッシュ大統領とホストの会談 2001年9月 出典 The White House
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。