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.国際  投稿日:2018/8/20

世界の良心 アナン元国連事務総長のレガシー


植木安弘(上智大学総合グローバル学部教授)

「植木安弘のグローバルイシュー考察」

【まとめ】

・紛争収束など功績多いアナン元国連事務総長が死去。

・ルワンダ、ボスニアでの後悔が氏の人道介入論につながった。

・アナン氏は国連と事務総長職を通じて「世界の良心」となった。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て見ることができません。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=41611でお読み下さい。】

 

国連職員から唯一国連事務局のトップである事務総長になったコフィ・アナン氏が逝去した。享年80歳だった。1976年末に、前任者ブトロス・ブロトス=ガリ事務総長が米国の拒否権で再任を阻止された直後に「ブラック・アフリカ」から初めて事務総長(第7代)に選ばれた人でもあった。

ガーナの部族長の家庭に生まれ、ガーナで経済学を学んだ後、米国ミネソタ州のマカレスター大学に学び、その後マサチューセッツ工科大学(MIT)で経営学の修士号を取得している。ミネソタ州は米国でも最も寒い地域であり、当初耳マフラーを着けずに寒さを甘く見ていたところ、凍傷になりかけ、厳冬の厳しさを学んだという有名な話がある。

▲写真 安全保障理事会でのアナン氏(2006年5月9日 国連本部)出典:UN Photo/Eskinder Debebe

アフリカ人でありながら西側の教養を身に着けていた人だが、若い頃に学んだアフリカの叡智が彼の神髄にあった。私が事務総長報道官室に勤務していた時、NBC放送局本部でのインタビューに付き添ったことがある。帰りに国連本部までどうやって帰るのか聞かれ、「タクシーで帰ります」と言ったら、「自分の車に乗りなさい」といって防弾の重い事務総長車で一緒に帰ったことがある。車中、「事務総長はよく格言を引用しますね」と話をすると、「アフリカにも格言は沢山ある」と言っていた。最後まで、自分はアフリカの子だと話していたらしい。そこには、アフリカ人としてのプライドがあったのだろう。

▲写真 第7代国連事務総長に選出された翌日、国連本部に入るアナン氏(1997年1月2日)出典:UN Photo/Evan Schneider

国連のキャリアは、最初ジュネーブの国際保健機関(WHO)から始まった。その後エチオピアのアジスアベバにあるアフリカ経済委員会(ECA)に勤務した後ジュネーブに戻り、国連事務局に務めることになる。人事局長をしていた時には、イラクのクウェート侵攻・併合という湾岸危機に直面し、イラクで人質となった人達の救出に現地に赴いている。

エジプト出身のブトロス=ガリが事務総長になり、冷戦後の新たな世界に対処するため事務局再編を行ったが、新たに創設されたPKO局のNo.2となり主にマネージメントの責任を与えられたが、PKO局長が政務局長に任命されるとPKO局のトップとなった。

旧ユーゴスラビアの分裂によるボスニアでの内戦の激化や、困難を強いられたソマリアでのPKO展開の中での任命であった。ソマリアでは、ガリ事務総長が提唱した「平和執行部隊」という、PKOにより強力な武力の行使権限を与えた新たな試みが行われたが、アイディード将軍派との武力衝突で国連PKOに多くの犠牲者が出て、さらに米国の精鋭部隊であるレンジャー部隊に大きな損失が出ると、時のクリントン米大統領はソマリアからの撤退を表明し、国連のソマリアPKOの失敗に繋がっていく。この時、アナンはPKO局長でありながら、米国レンジャー部隊の派遣を知らされていなかったと、後の回顧録で述懐している。

 

アナンにとっての最大の後悔は、1994年のルワンダでのジェノサイドを防げなかったことである。事前に現地のPKO司令官から多数派フツ族の過激派による武器備蓄の通報がありながら、当時のPKOのマンデート(任務)を超えるものだと判断して、武器押収の権限を与えなかった。実際に大量殺害が始まってもPKOの増派を認めなかったのは安全保障理事会であり、ソマリアで失敗した米国の新たなアフリカでの紛争に巻き込まれたくないといった態度や、現地のPKO要員に犠牲を出して撤退を促した元宗主国ベルギーなど加盟国だったが、国連PKOにとって大きな失態となった。さらに、翌年の1995年に起きたボスニアで安全地帯として国連PKOによって守られていたスレブレニツァでのジェノサイドも国連にとっての汚名となった。

 

しかし、この二つの教訓がアナンの後の人道介入論に繋がっていく。1999年のNATOによるコソボ空爆では、安全保障理事会の事前授権はなかったものの、人道的立場から例外的措置として間接的な支持を表明している。また、同年の東ティモールでの住民投票後の騒乱でも国際社会の介入を訴え、事態の鎮静に貢献した。このような介入論は、2001年にカナダの諮問委員会が提唱した「保護する責任」に対する全面的な支持となっていく。

 

イラクはアナンにとって外交的成果であるとともに、墓穴を掘ることにもなる。1998年のイラクの大量破壊兵器査察を巡るイラクと米国の緊迫した状況下でバグダッドを訪問し、懸案となっていたサダム・フセインの宮殿を含めた査察に関する合意を取り付けた。国連本部に戻ったアナンは英雄的歓迎を受けたが、同年末米国のイラク爆撃を受け、査察は一時打ち切りとなった。2003年のイラク戦争時には、米国の国連を無視した一方的武力行使を受けて、これは国際法に準じものではないとして批判したため、ブッシュ政権から批判され、イラクの人道的「石油と食料交換計画」での汚職問題では行政管理能力を問われて苦しい立場に置かれた。

アナンは、冷戦後唯一の超大国となった米国に対し、ガリ事務総長時代に険悪となった関係を修復し、グローバリゼーションが進む中、国家以外の様々なアクターとの協調を深め、2001年には国連とともにノーベル平和賞を受賞し、「非宗教的法王」と揶揄される世界の良心として尊重される存在となったが、米国との関係は最後まで苦労することになる。しかし、ナイジェリアとカメルーンの国境画定に寄与するなど、アナンの功績は多い。

▲写真 国連とアナン事務総長へのノーベル平和賞授与式(2001年12月10日ノルウェー・オスロ)出典:UN Photo/Sergey Bermeniev

1997年から2006年まで事務総長を2期務めた後、アナンはスイスに本部を置くアナン財団を設立し、アフリカの発展、特に農業の発展に精力をつぎ込むことになる。しかし、国際的感覚に優れ、叡智を内包するアナンを世界は放ってはおかなかった。ネルソン・マンデーラが設立した「エルダーズ(長老会)」の一員として国際問題の解決に寄与することになり、マンデーラの死後はその会長として活躍する。2008年のケニアの大統領選をめぐる内紛を終息させその後の政治的安定に寄与したのはその一例だ。

2012年には、「アラブの春」で内戦に突入したシリア紛争解決のために国連とアラブ連盟の特使として6項目からなる「アナン・プラン」と呼ばれる和平案を提唱したが、激化する内戦を収束させるための関係国の協力を得られず、挫折する。2017年には、ミャンマーにおけるロヒンギャ危機打開のために諮問委員会を率いてその解決策を提示するが、これもまだ解決には至っていない。シリア紛争でもロヒンギャ危機でも、世界の良心的立場から紛争解決への道標を提供したが、紛争解決は当事者の政治的意思と妥協の精神がないと困難なことを浮き彫りにしている。

▲写真 Stanley Meisler著『Kofi Annan: A Man of Peace in a World of War』(2006年12月27日 国連本部での出版サイン会)出典:UN Photo/Paulo Filgueiras

アナンは国連と事務総長という職を通じて世界の良心となった人だろう。周囲の同僚や部下に対しても気を使い、おおらかな性格を持ち合わせながらも、鋭い観察力で物事を分析し、柔らかい口調で論理を通す。アナンと人生のどこかで出会った人達は皆この卓越した人材に敬意を払い冥福を祈っている。

トップ画像:コフィ・アナン第7代国連事務総長 出典 UN Photo/Evan Schneider

【訂正】2018年8月20日

本記事(初掲載2018年8月20日)の文中の写真3枚を削除致しました。

 


この記事を書いた人
植木安弘上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授

国連広報官、イラク国連大量破壊兵器査察団バグダッド報道官、東ティモール国連派遣団政務官兼副報道官などを歴任。主な著書に「国際連合ーその役割と機能」(日本評論社 2018年)など。

植木安弘

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