追悼 マケイン議員との忘れ得ぬ語りあい
古森義久(ジャーナリスト・麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視 」
【まとめ】
・ベトナムの捕虜から大統領候補へ“英雄”マケイン上院議員が死去
・ベトナムについて語り、静かに耳を傾けるマケイン氏との語りあい
・一外国人記者に熱く真摯に向き合ったマケイン氏の内なるベトナム
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ワシントン市内には8月26日、各所に半旗が目立った。連邦議会の議事堂の星条旗がふだんの半分の高さに掲げられたのがその代表例である。みな前日の25日に死去したジョン・マケイン上院議員への弔意の表明だった。
マケイン氏はいまのアメリカでも最も有名な政治家の一人だったといえよう。いや政治の領域を越えて、国家の英雄という古い言葉でもそう的外れではない著名な存在だった。多くのアメリカ国民に好かれ、敬われていた。81歳、脳腫瘍だった。
私にはこのマケイン氏との忘れ難い語りあいの思い出がある。
その前に彼の経歴を紹介しておこう。
▲写真 ジョン・マケイン上院議員(2017年11月14日)出典:マケイン氏Facebook
マケイン氏の最近の政治歴で最も顕著なのは2008年の大統領選への立候補だろう。
共和党側での激烈な予備選での指名争いを勝ち抜いて、同党の公認候補となったマケイン上院議員は11月の本選では民主党新人のバラク・オバマ候補と対決して、敗れた。
マケイン氏の政治歴は1983年にアリゾナ州選出の連邦議会下院議員となってから、87年には上院議員へと転じ、その後の30年余り、アメリカ国政の最高府の上院で幅広く活動してきた。保守派穏健の基本路線だが、防衛や軍事となると、強固な政策を主張した。
マケイン議員はトランプ大統領には同じ共和党ながら賛成しない場合が多かった。同大統領が精力を注いだオバマケアの破棄と代替の医療保険法案にはマケイン議員は最後まで反対して、可決を阻み、同大統領をくやしがらせた。
マケイン氏は祖父も父も海軍大将だったという軍人一家の出身で、海軍士官学校を卒業して海軍入りした。ベトナム戦争では海軍のパイロットとして北ベトナムに何回も出撃し、1967年にはハノイ上空で撃墜され、捕虜となった。5年半の苛酷な拘留を生き延びて、1973年にはパリ和平協定により解放された。
▲写真 マケイン氏は海軍パイロットとしてベトナム戦争に出撃した 出典:マケイン氏公式ホームページ
私が1989年秋に二度目のワシントン駐在特派員となったころ、マケイン氏は新人に近い上院議員だった。だがすでに外交や軍事の諸問題では政策論議の先頭に立つことが多かった。インタビューを申し込むと快諾してくれた。時の民主党クリントン政権の外交政策へのマケイン議員の意見を聞きたいことが契機だったが、実は彼のベトナム観に強い関心があった。
私も毎日新聞記者としてベトナムに4年近く滞在していた。マケイン氏が北ベトナムで捕虜生活を送っていたときの2年ほどは私は南ベトナムの首都サイゴン(いまのホーチミン市)に駐在していた。その間、ベトナム戦争の終わりと共産主義革命の始まりを目前にみた。
この体験をマケイン議員に告げると、彼は身を乗り出すように聞き入り、ベトナムについて語り始めた。以来、何度もインタビューを申し込んだが、いつも快く応じてくれた。しかも毎回、必ず時間をたっぷりととって、話しをしてくれた。
▲写真 米上院建物内でテレビのインタビューを待つマケイン氏(2011年7月27日)出典:マケイン氏Facebook
私もワシントンでの長い特派員生活では数えきれないほどのアメリカの議員たちと会い、話しをしたが、率直に相互に語りあうという実感を得た相手はまずマケイン議員が筆頭だった。そんな語りあいの主題はほとんどベトナムだった。
「ベトナムにはあれほどひどい扱いを受けたのに、なお魅されてしまう。ふしぎです」
マケイン議員はこんな感慨をもらしたこともあった。1990年、彼の上院議員事務所で直接、聞いた言葉だった。自分の人生ではやはりベトナム体験が最も激烈な出来事だったという告白とも受け取れた。
マケイン氏の捕虜時代の苦労についてはすでに広く知られていた。撃墜されて、パラシュートで降下した際にさんざんに殴られ、両足を骨折したが、治療をほとんど受けなかった。軍事情報の暴露や爆撃への謝罪を迫られ、拒むと、拷問にかけられた。北ベトナム側はやがて彼の父の米海軍内での重要な地位を知り、政治宣伝用に特別な解放を申し出たが、彼が拒否した。
マケイン氏は長い拘束の期間、アメリカ合衆国の歴史を細かに復習し、さらに人生の意味について沈思にふけることで目前の苛酷な現実から目をそらしたという。独房に入れられた年月がほとんどだったが、ときおり顔を合わせる他の米軍人捕虜たちにも工夫をこらした方法で激励のメッセージを送り続けた。
私との会見ではマケイン議員はそうした自分自身の苦難はほとんど話さなかったが、ベトナム戦争自体の意味について力をこめて語った。大義という言葉さえ使った。南ベトナムという曲りなりにも民主主義の国家とその国民が、北ベトナムという共産主義の国家に軍事力で滅ぼされそうな状況をアメリカが軍事介入して救うことには大義があった、とも説いていた。ただその方法や戦略がまちがっていたというのだ。そして戦いが終わり、南ベトナムという国家が消滅した以上、アメリカは統一ベトナムといつかは和解しなければならない、とも力説した。
私は南ベトナムの人たちを多数知った体験から、アメリカの全面支援で北ベトナムの共産主義勢力と戦うことを奨励され、その「大義」を信じた一般の南ベトナムの国民が突然にアメリカからの支援を停止されたことの悲劇を説明した。北ベトナムが軍事面でソ連と中国の両方から豊富な支援を受け続けたのに対して、南ベトナムはアメリカの反戦世論のために米軍からの兵器や弾薬の支援までが激減したことの不均衡をも強調した。
▲写真 太平洋戦争で暗号戦に従事した退役軍人の話に耳を傾けるマケイン氏(2018年8月15日)出典:マケイン氏Facebook
マケイン議員はそんな私の主張にもまじめに耳を傾けていた。私はアメリカ連邦議会の上院議員が外国人記者である私のインタビューになぜここまで熱をこめ、長い時間をかけて応じてくれるのか、いぶかることもあった。その動因はやはりマケイン氏の内なるベトナムだったのだろう。ベトナムについて語りたかったのだろう。ただし議会や式典、記者会見の場などで、ときおり顔を合わせると、マケイン議員はいつも私を認めて、笑顔で「元気ですか」と声をかけてくれた。
これほどの親しみを感じさせてくれたジョン・マケイン上院議員に、日本ふうにいうならば、冥福を祈りたい。
トップ画像:ジョン・マケイン米上院議員 出典 マケイン氏公式ホームページ
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。