インドネシア閣僚人事に待った
大塚智彦(フリージャーナリスト)
「大塚智彦の東南アジア万華鏡」
【まとめ】
・ジョコ・ウィドド内閣改造に人権団体から抗議。
・ウィラント氏は人権侵害事件への関与疑惑がある。
・ウィラント氏就任は未解決問題の隠ぺいや風化につながる。
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■ 元国軍司令官の閣僚 次期内閣から排除を 人権団体要求
インドネシアで近く発足するジョコ・ウィドド大統領の2期目を支える新内閣の顔ぶれについて、人権団体からウィラント調整相(法務・人権・治安担当)の再任用を回避するよう求める声が上がっている。
閣僚の人選について人権団体が注文をつけるのはインドネシアではあまり例のないことで、記憶に新しいところでは2016年7月のジョコ・ウィドド大統領による内閣改造に際し、新たに閣僚に任命された人物に「インドネシア国家人権委員会(Komnas HAM)」や「行方不明者と暴力犠牲者のための委員会(Kontras)」などの人権団体が反対を表明したことがある。この時に批判の対象となったのがウィラント調整相だった。
そして再び、今年4月の大統領選で再選続投が決まり2024年までの5年間政権を維持することになったジョコ・ウィドド大統領の新内閣発足に注文をつける形となったのだが、この背景には2016年当時と同じくウィラント調整相を巡る過去の数々の人権侵害疑惑が依然として未解明のままであることが深く影響している。
Komnas HAMのチョイラル・アナム理事は9月20日、主要紙「テンポ」に対して「もしジョコ・ウィドド大統領が民主主義に対する使命を果たそうとするなら、政治・法務・治安担当の調整相は文民から選ぶべきである」との立場を明らかにした。これはかつて軍の最高ポストである国軍司令官の地位にあったウィラント調整相をさして「不適任」であることを明確にしたものである。
アナム理事はさらに「この政治・法務・治安を担当する調整相のポストは過去のいかなる人権関連事案とも無関係の人物が就くべきである。経歴が(人権に関して)クリーンな人物であれば調整相は正義と公正に関する国民の批判にもっと関心を払うことができるはずだ」として人権事件への関与疑惑がつきまとうウィラント調整相の下では人権侵害事件の解明は困難であることを強調した。
▲写真 ジョコ・ウィドド大統領(真ん中) 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
■ 国軍への”重し”として登用の背景
2014年に大統領に就任したジョコ・ウィドド大統領は家具職人の家に生まれた地方自治体の首長出身という庶民派が売り物の大統領だけに治安問題の要となる国軍や警察といった治安組織に人脈もコネもなかった。
このため元国軍司令官で政党党首として政界で存在感を示していたウィラント氏をあえて起用することで国軍をコントロールし、勝手な行動を抑制させたいとの意向が働いたとされている。
しかし民主化の要求が高まり1998年に崩壊に追い込まれるスハルト長期独裁政権の末期に起きたトリサクティ大学学生射殺事件、スマンギ交差点無差別発砲事件、民主活動家拉致行方不明事件、さらに東ティモールの独立運動への弾圧など数々の人権侵害事件への関与が疑われていたのがウィラント氏だった。
このため2016年6月の内閣改造でウィラント氏が調整相に就任すると、米国務省は直ぐに反応して「ウィラント氏が国軍司令官在任時の人権侵害事件に関心を持っている。人権擁護は米政府の最も重要な政策の一つである」(アレン国務省報道官=当時)とやんわりとしかし明確な不快感を示した。
さらにKomnas HAMやKontrasなどの人権組織も一斉に「過去の人権侵害事件への関与が濃厚なウィラント氏が政治法務治安を担当する調整相に就任することで自らの疑惑を闇に完全に葬る危険性がある」と指摘。主要英字紙「ジャカルタ・ポスト」なども「ウィラント氏の起用はインドネシアの人権問題への取り組みの後退を意味する」「ジョコウィ大統領が人権問題に真剣に取り組む必要がないことを示した人事」などと厳しく批判した経緯がある。
ウィラント氏自身はいかなる人権侵害事件への関与も強く否定していたが、東ティモールの裁判所が「人道に反する容疑」で訴追、欧米をはじめとする国際社会からの追及、圧力が高まり、インドネシア当局も人権侵害の容疑でウィラント氏を事情聴取せざるを得ない事態に追い込まれ、捜査対象となるものの「証拠不十分」で責任追及はうやむやに終わっている。(Japan In Depth 2016年8月9日参照 人権侵害事件の黒幕、入閣の怪 インドネシア・ジョコウィ大統領の胸中 その1/人権侵害事件の黒幕、入閣の怪 インドネシア・ジョコウィ大統領の胸中 その2)
▲写真 ジョコ・ウィドド大統領とウィラント氏含む当局者を伴った会見 出典:インドネシア共和国内閣官房長官
■ 未解明人権事件関係者も真相解明要求
9月6日、故ムニール・ビン・タリブ氏の妻がジャカルタにあるKontrasの事務所で会見した。ムニール氏はKontrasの設立者で2004年9月7日にオランダに向かう国営ガルーダ航空機内で毒殺された人権活動である。事件の真相は未だに闇の中にあることから妻は会見で「ジョコ・ウィドド大統領は人権問題の真相を解明してほしい」と訴えた。Kontrasは「まず政権から過去に人権問題に関与した疑いのある人物津を排除することが必要だ」と地元紙にコメントした。これはウィラント調整相が閣内にとどまる限りジョコ・ウィドド政権が人権問題の真相を解明することは困難である、との見解を示したものである。
インドネシアで治安問題が起きるたびに会見などで「法の遵守」を訴えるウィラント調整相の姿を「自身が人権侵害事件への関与が濃厚な人物なのに」と苦々しい思いで見つめている国民がいるのも事実であるが、若い世代はウィラント調整相の過去の人権問題関与を知らないことから、人権団体などでは「未解決の人権問題の風化が進んでいる」として危機感をつのらせている。
次期内閣でウィラント調整相の処遇がどうなるか次第で、庶民派として人気があり、人権問題にも強い関心を示してきたジョコ・ウィドド大統領が今後の5年間でインドネシアが抱える数々の未解明の人権侵害問題に対する取り組みへの真剣さが問われることにもなりそうで内外から大きな注目を集めている。
トップ写真:ウィラント政治安全保障担当調整大臣(2019) 出典:Wikimedia Commons;インドネシア共和国内閣の事務局
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この記事を書いた人
大塚智彦フリージャーナリスト
1957年東京都生まれ、国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞入社、長野支局、防衛庁担当、ジャカルタ支局長を歴任。2000年から産経新聞でシンガポール支局長、防衛省担当などを経て、現在はフリーランス記者として東南アジアをテーマに取材活動中。東洋経済新報社「アジアの中の自衛隊」、小学館学術文庫「民主国家への道−−ジャカルタ報道2000日」など。