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.国際  投稿日:2017/4/21

ジャカルタ知事選 宗教か多様性か


大塚智彦(Pan Asia News 記者)

「大塚智彦の東南アジア万華鏡」

【まとめ】

・ジャカルタ知事選、現職破りアニス氏勝利、背景に宗教対立。

・アニス氏の住宅政策の実現性に疑問。

・宗教か世俗か、引き続き次期大統領選の争点に。

 

インドネシアの首都ジャカルタの特別州知事選の決選投票が19日に行われ、前教育文化相のアニス・バスウェダン候補が現職のバスキ・チャハヤ・プルナマ(通称アホック)知事を抑えて初当選した。

民間調査機関複数の開票速報ではいずれもアニス候補が57%、58%台を獲得、41%、42%台にとどまったアホック知事を上回った。選挙管理委員会(KPU)による正式な得票数の確定には数日かかる見通しという。

大勢判明後に会見したアニス候補は「選挙期間は終わった、アホック候補とはお互いの違いを強調するのではなく、全州民とともに団結する時が来た」と両候補支持派の協力と和解を訴えた。

一方のアホック知事も「アニス候補当選おめでとう、選挙のことは忘れて同じジャカルタ州の住民として協力しよう。これも神の思し召しによる選択。私は残る半年の任期、課題に取り組みたい」と述べた。

両候補が同じように会見で「選挙期間から脱却して団結、協力を」と訴えた背景には、今回の選挙で示された両陣営の溝の深さ、選挙戦での傷を癒すことの重要性への認識、憂慮があった。

 

■イスラム急進派の宗教攻撃

現職知事として住宅不足問題、交通渋滞解消、洪水問題などで実績を残してきたアホック知事だが、選挙期間中の不用意な発言が「イスラム教徒を冒涜している」とイスラム急進派が噛みついたことで、圧倒的な優勢が一転した。

イスラム急進派によるインドネシアのそしてジャカルタ特別州の圧倒的多数を占めるイスラム教徒の宗教的琴線に訴える戦略が次第にアニス候補への支持を拡大する事態となった。

「宗教冒涜罪」容疑で裁判の被告となったアホック知事に対し、伝統的なイスラム教徒の衣装で政治活動が禁じられているイスラム教寺院「モスク」を中心に運動を展開したアニス候補。インドネシアでも最も成熟し、民主主義を理解しているとされるジャカルタっ子も「イスラム教の教えでは非イスラムの指導者には従えない」「非イスラム支持者への攻撃は強要される」「アホック支持者の女性への暴行は許される」などという扇情的、独善的な急進派によると思われる言説が駆け巡り、自らの宗教意識を再認識した有権者がアニス候補に票を投じたといわれている。事実、アホック知事支持を表明したイスラム教徒の葬儀が地域のモスクに拒否されるという憂慮すべき事態も発生した。

こうした事態を重視したジョコ・ウィドド大統領、ユスフ・カラ副大統領、そして首都の治安を守る治安組織のトップなどが相次いで「宗教を選挙の争点にするべきではない」「候補者の宗教、人種、出身地は選挙とは無関係」などと宗教の選挙争点化の火消しに躍起とならざるをえない事態を招いた。

 

アニス氏の夢のような公約への期待

アホック知事はキリスト教徒で地方出身の中国系インドネシア人、と首都ジャカルタの知事としては「異例のマイノリティー」で、そうした知事を選んだことがジャカルタっ子の「多様性と寛容」の意気の現れ、とされてきた。

ところがあらぬところ(イスラム急進派)からのビーンボールに近い「攻撃」に加えて、「頭金ゼロでも住宅購入が可能」という自宅を所有できない多数の人々には夢のような公約を掲げたアニス候補に票が流れた。これまでの実績や地味な洪水対策などより「自宅が持てるかもしれない」との公約に期待するという極めて現実的な選択を有権者はしたのだ。

選挙結果をみた多くのコメンテーターや新聞は「任期の5年間で公約を実現できるのか、とりあえずお手並み拝見」との姿勢を示しているが、住宅問題の公約はその実現を疑問視する声も少なくない。

住宅問題はジャカルタの人々にとっては食に次いで関心が高く、首都ゆえの地価、建設費の高さから賃貸ではない自宅を持つことが現状では難しく、アニス候補の公約はまさに「夢に手が届く魔術」に聞こえた。実際には一定額の銀行預金がある人に限り「頭金ゼロ」が適用されるのだが、選挙期間中はそうした詳細より「頭金ゼロ」が独り歩きしてしまった。それだけに今後アニス新知事の住宅問題への取り組みには大きな注目と厳しい目が注がれるだろう。

 

■大統領選の代理戦争の様相

19日夕方に記者会見したアニス候補の横にはグリンドラ党のプラボウォ党首の姿があり、アニス候補より雄弁に勝利宣言を行った。会場に詰めかけた支援者からは「いよー、プラボウォ次期大統領」との声がかかる一幕も。

プラボウォ党首は1998年に崩壊するまで実に32年間、独裁政権を維持したスハルト元大統領の元女婿で国軍出身のビジネスマン。現職のジョコ・ウィドド大統領とは前回の大統領選を争ったライバルでもある。

アホック知事はジョコ大統領が所属する与党「闘争民主党(PDIP)」の支持を受けており、今回の知事選は前回2014年の大統領選と同じ対立構図であり、さらに2019年の次回大統領選の前哨戦と早くから位置付けられていた。

プラボウォ党首は早い時期から次期大統領選への出馬を匂わせており、今回自らが支援したアニス候補が首都での知事選で勝利をおさめたことを追い風にして大統領選に向けた今後本格的な根回し、運動を展開することが予想される。

一方のジョコ大統領陣営は、PDIPの党首でもあるメガワティ前大統領を中心にジョコ大統領に今回涙を飲んだアホック知事を副大統領候補としてペアを組ませる道を模索することも十分考えられるという。

インドネシアでは過去に女性大統領は誕生しているが、非イスラム教徒の大統領はまだ就任したことがない。アホック知事は非イスラム、中国系インドネシア人の「代表格」で、地方首長から国レベルの指導者を目指すことでインドネシアが掲げる「多様性の中の統一」「寛容と団結」のシンボルとして今後も台風の目であり続けるだろう。

 

■民主主義の成熟と実際の生活感覚

今回の知事選でジャカルタの有権者が示した結果は極めて現実的、そして宗教的選択の結果といえる。この知事選では早くからアホック知事を巡って「インドネシアの民主主義の成熟度が問われている」と注目を集めてきたが、最終的には民主主義や寛容の精神、多様性などという「お題目」よりはより切実な現実問題、そして心の問題としてのイスラム教が優先された結果となった。

これを以って「インドネシアの民主主義はまだ未成熟」と判断するのか、「有権者には生活、宗教問題がなにより優先する」と評価するのか、その答えは2019年の大統領選に持ち越されたと言えるだろう。


この記事を書いた人
大塚智彦フリージャーナリスト

1957年東京都生まれ、国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞入社、長野支局、防衛庁担当、ジャカルタ支局長を歴任。2000年から産経新聞でシンガポール支局長、防衛省担当などを経て、現在はフリーランス記者として東南アジアをテーマに取材活動中。東洋経済新報社「アジアの中の自衛隊」、小学館学術文庫「民主国家への道−−ジャカルタ報道2000日」など。


 

大塚智彦

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