インドネシア独立と日本人
大塚智彦(フリージャーナリスト)
「大塚智彦の東南アジア万華鏡」
【まとめ】
・8月17日独立記念日迎えたインドネシア、国中がお祝いムードに。
・「インドネシア独立は日本のお陰」との議論もあるが、元日本兵の乙戸昇氏は「独立を勝ち取ったのはインドネシア人自身」と述べた。
・戦後日本とインドネシアの関係は良好だが、同国の歴史に触れる日本人が少ないのが問題。
インドネシアは8月17日、独立記念日を迎え、国中がお祝いムードに包まれた。
首都ジャカルタではジョコ・ウィドド大統領が国会で「国家演説」をしてコロナ渦の克服や国際社会からの信用などについて演説し、大統領宮殿での独立記念式典に臨んだ。
ジョコ・ウィドド大統領は毎年少数民族の衣装をまとって参列し、紅白の国旗を掲揚し国歌を斉唱してオランダ植民地そして日本の占領からの解放、独立を寿いだ。
全国津々浦々では子供たちが参加する運動会が行われ、路地や道路には徒競走用に臨時のトラックが白線で引かれ、パン食い競争や油でベトベトの棒をよじ登り、てっぺんの菓子などの景品を取る競技などでコミュニティーは終日にぎわうのが恒例だ。
歴史を振り返ると、ジャカルタ市内では1945年8月17日、独立宣言に向けて初代大統領、副大統領となるスカルノ氏やハッタ氏らが独立記念宣言文の草案作りに追われていた。
★前田海軍少将が独立宣言文起草に協力
この大事な協議の場を提供したのが日本海軍の前田精(まえだ・ただし)少将で、陸軍に比べて海軍は早くからインドネシアのスカルノ氏ら独立運動家と親交を深めており、彼らの独立への思いを理解していたという背景がある。
8月15日に日本の太平洋戦争での敗戦が決まると、スカルノ、ハッタ両氏らは独立に向けて動き出し、翌16日には海軍武官府公邸の前田邸に集まり、前田少将の保護の下で独立宣言文の作成に取り掛かったのだった。
その前田邸は現在「独立宣言起草博物館」(イマム・ボンジョルノ通り1番)として当時の様子を伝える博物館となっている。
邸内の1階玄関を入ってすぐ右手のダイニングルームではスカルノ、ハッタ両氏、スバルジョ初代外務大臣が独立宣言文の文言を練る鳩首会談の様子が等身大の人形で展示され、正面階段裏の小部屋では宣言文を清書する担当者の様子も人形で再現されている。
2階には前田少将の写真などが展示され、当時のインドネシアの状況が詳しく説明されている。
17日午前2時過ぎにできた独立宣言文はこののち東ペガンサアン通り56番地にあるスカルノ邸に持ち込まれ、そこでスカルノが独立宣言文を高らかに読み上げるとともにスカルノ夫人のファトマワティさんが急ごしらえで手作りした紅白の旗が掲揚されたのだった。
その歴史的場所は建物こそ現存していないものの「独立宣言記念公園」として整備され、独立宣言を読み上げるスカルノとハッタの像が当時を忍ばせる。
★独立はインドネシア自身が戦い取った
インドネシアは独立を宣言したものの日本の敗戦で再び植民地支配に乗り出したオランダとの独立戦争(1949年まで)を戦わなければならなかった。
その独立戦争に様々な理由から日本への帰国を拒んだ元日本兵1000人以上が参加したこと、日本軍から武器弾薬の供与を受けたり、強奪したりして武装したことなどから「インドネシア独立は日本のお陰」とする議論が現在でも一部である。
これは歴史の事実だけでなく、インドネシア人の心情を踏みにじる日本の身勝手な論理である。
あれこれ言うより元日本兵で独立後もインドネシアに残留し、独立戦争をインドネシア軍と共に戦い、その後元日本兵の互助組織を作り支援活動に生涯を捧げた乙戸昇氏の次の言葉をここに記したい。
「私たちがよく戦ったということとインドネシアが独立したことを短絡させてはだめだ。独立を戦い取ったのはやはりインドネシア人自身なのです」
乙戸氏は長らく元日本兵への支援を続ける傍ら元日本兵の相互扶助団体である「福祉友の会」を組織し「月報」を毎月発行して元日本兵の消息などを記録し続けた。「月報」は手書きのガリ版刷りで、乙戸氏の性格を表すように丁寧できれいな読みやすい文字で綴られていた。
その乙戸氏は2000年12月19日に永眠した。
乙戸氏の遺体は他の元日本兵と同様にインドネシア軍の儀じょう隊に見送られてジャカルタのカリバタにある「英雄墓地」に埋葬された。
インドネシアの「元日本兵」は全員が鬼籍に入り、「福祉友の会」の活動は現在元日本兵の2世、3世に引き継がれている。
★現代史を学べるインドネシア
戦後日本とインドネシアは主に経済関係で良好な両国関係を維持しており、進出している日系企業も多く、それに伴う駐在員や現地在住者も増えている。
だが、インドネシアの独立に関わる歴史を知る日本人も、当時を偲び歴史を学ぶことが可能な各種の資料館、博物館を訪れる日本人は決して多くない。どの場所でも目立つのはインドネシア人の児童、生徒らが先生に引率されて「社会科見学」「現代史学習」の姿であり、インドネシア人が歴史を真摯に見つめようとする姿が印象的だ。
「独立宣言文起草博物館」や「独立宣言公園」には独立宣言文が掲げられたり、碑文として刻まれたりしているが、このほかにもジャカルタ中心部のモナス(独立記念塔)の地下の歴史資料コーナー、さらにスカルノ夫人だったデビ夫人の元邸宅「ヤソオ宮殿」を利用した「国軍博物館」などでも見ることができる。
インドネシアの独立国としての基礎となった独立宣言文の日本語訳は以下の通りである。
「宣言 我らインドネシア民族はここにインドネシアの独立を宣言する。権力委譲その他に関する事柄は完全かつ迅速に行われる。
ジャカルタ 05年8月17日 インドネシア民族の名において スカルノ、ハッタ」(05年は皇紀)
トップ写真:独立宣言を読み上げるスカルノ大統領(手前)とハッタ副大統領 (独立宣言記念公園:筆者撮影
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この記事を書いた人
大塚智彦フリージャーナリスト
1957年東京都生まれ、国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞入社、長野支局、防衛庁担当、ジャカルタ支局長を歴任。2000年から産経新聞でシンガポール支局長、防衛省担当などを経て、現在はフリーランス記者として東南アジアをテーマに取材活動中。東洋経済新報社「アジアの中の自衛隊」、小学館学術文庫「民主国家への道−−ジャカルタ報道2000日」など。