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.国際  投稿日:2019/9/29

仏の難民 想像を絶する苦難


Ulala(ライター・ブロガー)

フランス Ulala の視点」

【まとめ】

・フランスでは難民受け入れについて再び議論が再燃。

・多くの難民はCADA等から支援を受け、仏で自立の道を探る。

・今後も増え続けるであろう難民申請に対策が求められる。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て表示されないことがあります。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=48174でお読みください。】

 

フランスのエマニュエル・マクロン大統領が、ラジオ局Europelのインタビューにて、現状の難民受け入れ態勢について「きちんと受け入れようと思うと、フランスは全部の難民を受け入れることができない。」と発言し、「効果的・人道的ではない現在の状態」を残念だとした。

また、保護される資格がある人々が効果的に溶け込めるように、より多くのフランス語コースや、より強い雇用政策を設け、違法に入国した保護される権利を持たない者は、もっと速やかに送還しなければいけないと述べたのだ。

実際の話、フランスでは年々難民申請者も増加しており、それに伴い申請が認められる人数も増加し続けている。2014年には難民申請者が64811人であり、認められた人数が14589人だったものが、2018年には122743人の申請があり、33380人が認定されている。今後も同じペースで増加するとすれば、確かになんらかの対策を施さなければ収拾しきれなくなるだろう。(参考:Le Monde

しかしながら、難民の受け入れに対してはフランス国内でも意見が大きく分かれており、今までも激しい議論を重ねてきた。それをまた蒸し返すのかと反発の声と共にメディア上ではいろいろな意見が飛び交っている。9月30日には国会で議論が行われることになっており、今後もこの議論は続いていくことになるだろう。

▲写真 マクロン大統領 出典:ロシア大統領府

では、保護される権利を持っていると判断された難民たちは、フランスでどのように援助を受け、どのような生活を送るのだろうか。フランスまでにたどり着く話はよく目にするが、その後が語られることも少ない。そこで、現在フランスに在住している方に話を聞いてみることにした。

 

1.イランから来た弁護士

「イランから政治難民としてきました。」

と答えてくれたのは、28歳の女性、キャリーンだ。イラクで、法律を学び弁護士資格を取得し、トルコに6年住み博士号を取得したと言う。しかし、イランには帰らなかった。なぜなら、イランでは、女性として弁護士活動をしていくことは困難だと考えたからだ。トルコに滞在中、旅行と称してヨーロッパ中を回ったが、最終的にフランスが一番希望の生活ができる国と判断しフランスにやってきた。

フランスに着くとすぐに県庁に向かった。県庁では申請後、移民局DPM(Direction de la population et des migrations)から業務委託を受けた民間団体CADA(centre d’accueil pour demandeurs d’asile)を紹介された。そこでは、住む家と食べ物や衣類などの提供を受けて生活が保障される。CADAではフランス語も学んだ。彼女の話では、10年は滞在が保証されているらしい。そして10年の滞在期間中にフランス国籍の申請をできるという。

フランス到着から1年たった現在は、CADAの施設から出る予定になっており、低所得者用住宅HLMに入居できるかの審査待ちだ。イランの弁護士資格はフランスでも通用するらしいが、なにせまだ一年だということもあり語学力に問題が残っているため、集中的にフランス語を勉強している。ときには2件の語学スクールを掛け持ちする日もある。

▲写真 低所得者用住宅HLM 出典:Wikimedia Commons; P.poschadel

現在でも住居と教育の面でCADAから支援を受けているが、日常的には車も所有し、普通の生活をしていおり、はた目から見たら昔からフランスに住んでいる住人と見分けはつかないだろう。

要請があれば、難民支援団体にボランティアで法律的なことに関してアドバイスをするなどの活動も行っている。将来は、イラン人はもちろんだが、フランス人も相手に、弁護士として活躍する予定だそうだ。

 

2.無国籍だったパレスチナ難民

ナディア(35歳)は子供3人を持つ医者。レバノンで生まれたが、パレスチナ人であったため、ずっと無国籍として生きてきたという。フランスにはまだ来て6カ月。フランスに来て文法を習い、読み書きは大分できるようになった。だが、話すのはまだまだな状態で質問の意味を理解できない場合も多く、また、返答できるほどの会話力もまだないため聞きとりはかなり難航した。

そんな中で聞きだしたのは、現在、フランスの大学に入るために大学付属の語学学校に通っていると言うことだ。以前は、医者として働いていたみたいだが、その資格はフランスでは通用しないため、フランスの大学に入りなおしてフランスの医者の資格を取得する予定なのだ。

この近辺には、医学部がある大学がないので、9月からは子供たちと違う土地に引っ越す予定だという。そのためにはあと3カ月で大学に入る最低限度のフランス語を身に着け、それを証明する資格であるDelfB2を取得しなければいけない。今後も予定はつまっているのでフランス語に時間をかけるのはこれで最後にしたいと言うのが希望するところだ。ものすごい熱意を持っていることを感じる。

それもそのはず。フランスに行きたいと決めてから実際にここに着くまでまでに6年の歳月を費やしたという。フランスに来られるように支援をしてくれた団体は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)という世界の難民の保護と支援を行なう国連の機関だ。UNHCRがなければフランスに来ることも、国籍を持つこともできなかっただろう。感謝してもしきれないと彼女はいう。そしてUNHCRの中には、日本人の職員も居たそうだ。しかも一番勤勉に働いていた人こそがなんとその日本人だったと語ってくれた。

▲写真 UNHCRロゴ 出典:UNHCR

「あの勤勉さには敬意を払いたくなったわ。クリスマスには、子供たちにいつも沢山のプレゼントを持ってきてくれて、ほんとうにありがたかった。日本人の職員は本当に素晴らしかったわ。」

いがいなところで、突然日本人が出てきたことに驚いたが、日本人も世界各地で活躍していることがこういった時に感じられるものなのだ。

 

3. シリア・アレッポからの脱出

「家の窓ガラスは全部割れた。家の一部も崩壊して、もうここに住んでいることはできないと思ったの。」

そう語るのはシリア・アレッポに住んでいたナジュア(61歳)。フランスには6年前にたどり着いた。シリアでは体育などの教師をしており、一人の娘さんと二人の知的に障害がある息子さんがいる。しかし、彼ら家族は、多くのシリア人の中でも大変恵まれていたとも言えるのは、ご主人はサウジアラビア人で外交官であったことだ。そのためフランス人の知り合いも多く、何度か家族でフランスにも訪れており、フランス行き旅行ヴィザを既に持っていた。おかげで、飛行機を使用したルートでフランスに来れたのだ。

知り合いのフランス人の住む土地への移住は、家が破壊された時に決めた。しかし、夫はいろいろな準備があるため家族と一緒に出発することはできなかった。フランスでの再会を疑いもせず、ナジュアは荷物をまとめ、3人の子供たちを連れ、夜中12時に出発したのだ。

「シリアの兵士も、あのひげを生やしたISの兵士も、相手かまわず攻撃してくるからね。夜、あまり街に兵士が居ない時に家を出たの。」

すべてが順調に行き飛行場にも着き、無事、フランスに行けるだろうと思ったその時、出国審査で別室に連れて行かれた。

「なぜ、兵役ができる男性二人が、この場に居るのか?」

当時、二人の息子さんは26歳と30歳で、彼女の話では、この時期このぐらいの年齢の男性は、シリアではみんな戦時動員されていたという。だが、二人の子供たちは知的に障害を持っていたため兵役を免れていたのだ。相手はその話を信じようとしない。「このまま病院に連れて行って検査を受けなければ出国は認めない」と言うばかり。

そこでナジュアは、こぶしを振り上げ机を叩いて言った。

「そこの物を、息子たちに渡してごらんなさい!息子たちは、どう扱っていいか全然わからないと思うわよ。みてみなさいこの二人の様子よ。誰がどう見たって、障害者でしょ!」

すると、係員は、無言で様子を観察しはじめた。そして最終的には、「間違いなく障害者だ。」と言って出国を許してくれた。

当時は、シリアからの飛行機は、フランス直通の路線も無かったため、アレッポからエジプトに行き、そこからモロッコに乗り継ぎ、フランスに向かった。パリではなく、知り合いがいる地方だ。そして目的の地についた時に彼女がしたことは、「115」に電話をすることである。

「115」はSamu socialといい、福祉関係の相談ができるホットラインだ。ホームレスが宿を探す場合、また、家庭内暴力にもソーシャルワーカーが相談にのってくれる。

115に電話をかけたナジュアたちは、無事保護され、管轄のシェルターに留まることになる。が、しかし、フランスに着いたのは8月。通常ならそこですぐに難民を受け入れる施設に移れるところが、フランスはバカンス中であったため担当者もおらず、ソーシャル管轄のシェルターで1カ月過ごしたそうだ。

9月、ようやくCADAの住居に入れた。多くの場合、そこからCADAの職員の手を借り県庁(もしくは地域によっては警視庁)に申請するのだが、彼女ら家族の場合、ご主人がまだ到着していなかったため、到着するまでの7カ月、申請は先送りにされた。その待っている7カ月間は、CADAの支援でフランス語を習ったという。

その後、家族がそろった時点で県庁に難民申請をし、無事申請が通った。そして、その町で移住が許可された初めてのシリア難民となったのだ。申請が通ると居住者としての滞在許可書が発行される。滞在許可書を一年置きに更新し、5年目に10年カードが取れたそうだ。

申請がとおり居住者となった後は、自分たちで住む家を探し、団体からの金銭的援助は受けずに自活生活を始めた。二人の息子さんは、養護施設に毎日通っている。娘さんは大学に行き、フランス国籍を取得し、現在パリで働いている。近々結婚する予定もあるそうだ。ご主人は外交官であったため、オランダ語、フランス語、英語、アラブ語が堪能で、現在は移民を助ける民間施設で働いている

▲写真 ドゥジャン通り (Rue Dejean) のマルシェ風景 出典:Wikimedia Commons; Mbzt

ナジュアはと言うと、OGFA(Organisme Gestion Foyers Amitie)という、別の民間団体でシリアで受けた資格から、フランスで使える資格を発行してもらった。そしてその資格を持ち市役所に向かったのだ。

「私は絶対働きたいのです。仕事をくださいって言いに行ったの。」

その結果、保育学校の教師補助の仕事を得て、そこで4年間働いたそうだ。しかしながら体調を崩しやむなく退職。今は62歳の正式な退職年齢をまつばかりとなっている。

 

増え続ける難民

この他にも、5人の子供をふくむ大家族を抱えながら、毎月生活のために1000ユーロほどの支援を受けながら、必死にフランス語を習っていると言っていたシリア人もいた。この家族の将来は、男性の肩にかかっていると言っても間違いない。それこそどんな時間も無駄にできない覚悟で熱心に勉強している。熱心さは結果として表れて、言語を習得するスピードがとても速い。

前出のナジュアの家庭は比較的恵まれている家庭であったため、フランスでの生活もスムーズに始まったが、しかしながら、他のシリアからやってきた難民は、徒歩で目的地を目指したり、小さなボートで着の身着のままでやってきた人たちも多い。その中には、ほんとうに何もかもなくした人もおり、ある程度の支援が終わっても、うまく家庭を維持して行けない場合もある。すぐには仕事を見つけられない場合も多く、そうなると援助が必要な期間はさらに長びくことになり、コストもかかることになるのだ。できるだけ早く社会に溶け込ませる施策がとても重要になってくる。

いずれにしろ、今後も難民申請が増加していけば、どんどん予算が増え続けることは間違いないだろう。その対策を今から練っておくことは確かに必要なことだ。今回、マクロン大統領が議論を再びテーブルの上に戻したのもそういった理由も含まれているだろう。この議論の結果は次回の大統領選にも大きくかかわってくることでもある。ぜひ注目していきたいところだ。

トップ写真:フランスの風景 出典:PIXNIO


この記事を書いた人
Ulalaライター・ブロガー

日本では大手メーカーでエンジニアとして勤務後、フランスに渡り、パリでWEB関係でプログラマー、システム管理者として勤務。現在は二人の子育ての傍ら、ブログの運営、著述家として活動中。ほとんど日本人がいない町で、フランス人社会にどっぷり入って生活している体験をふまえたフランスの生活、子育て、教育に関することを中心に書いてます。

Ulala

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