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スポーツ  投稿日:2019/12/25

私のパフォーマンス理論 vol.46 -楽しむこと-


 

 為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)

 

【まとめ】

  • 楽しんで生きることは、主体的に生きること
  • 楽しむ行為は以下、観察ー仮説ー実行ー検証
  • 外界を観察し、身体をどのように扱えば、目指すべき目的に迎えるのかという創意工夫のプロセスであり、次々に変化する環境や自分の体に柔軟に対応することである

 

私の競技人生哲学の根底には楽しむことがある。これは私にとって目的でもあり、かつ一番有効な戦略でもあった。しかしながら、この楽しむという言葉が日本語ではどうしても広い範囲で捉えられて正しい意図が伝わりにくい。特に楽しむことと、真面目にやること勝利することが対義語で語られやすい。

楽しむこととは主体的に行うということに尽きる。楽しむことと真面目にやることは対義語ではない。楽しむことの対義語はつまらなくやることだ。真面目に楽しんでやることもありえるし、不真面目につまらなくやることもありえる。楽しむとは心の様相であり、目の輝きであり、対象物に対し自らの創造性が発揮されていると感じられることである。楽しい時には、余白があり、遊びがあり、主体性がある。一方余白も遊びもなければ、そこに自らの創造性を発揮することは難しい。改善すら許されなければ人は機械化するしかない。故に決まり切ったことをただ繰り返す時人はつまらないと感じる。楽しむ感覚は、今この瞬間に次に何をやるかは自分が選べるという自由と主体性によって生み出される。計画されすぎること、統率されるすぎること、秩序を作り上げすぎることで、楽しむ心は失われる。

楽しいことをやることと、やっていることを楽しむことは違う。前者は受け身の行為であり、後者は主体的な行為である。前者は誰かが人を楽しませるために作り出したものによって遊ばされている。後者はそこにあるものを自分なりの工夫で編集し直し遊んでいる。もちろんきれいに分けられるものでもなく前者から後者への移行もある。ただ、比重が楽しまされることに近づきすぎると、自らそれを楽しむという主体性が失われていく。

楽しみ方も人によって違う。私のように解放性が強く、新規性を好む人間は、瞬間瞬間の思いつきを大事にするが、計画を維持し、一貫性を保ちたい人間にとっては、これを不快に感じ楽しめない。後者の人間は、じっくり考えそれを計画的に実行するプロセスにおいて楽しみを見出す。前者の人間の楽しむことは瞬間と非連続的成長にあるが、後者の人間の楽しむことは一貫性と連続的成長にある。

楽しむ行為は以下のようになっている。

観察ー仮説ー実行ー検証

いわゆる普通の上達プロセスと変わらない。ここに主体性を持てるかどうかだ。楽しめない人の思考パターンは、まず観察している時に自分なりの見方ができない。仮説を立てる際に結果が予想できないことを考えられないし考えてはいけないと思っている。いったん計画を立てると計画通りやらねばならないと思っている。検証においては何を学んだのかではなく計画通りだったかばかりに気を取られる。楽しめない人は、主体的に考え、実行する権利が自分にあると思っていない。なぜならば全ては計画されていて、そこに変更を加える余白はないと思っている。楽しめない人はそこに自由があると信じていない。

どうすれば楽しめるか。観察の際に違う見方をしてみようと工夫する。人の意見を聞く。自分の見方が全てだと思わない。仮説においてはいたずら心を入れる。うまくいかせることよりも結果がどうなるかわからないことを優先する。予想できることばかりやることが硬直化を招く。実行の際には様々な情報がフィードバックされるから、その都度柔軟に対応する。何なら計画から離れて返ってきてもいい。練習後、うまくいったのかいかなかったのか。いったのはなぜか。いかなかったのはなぜか。観察の見落としか、仮説の間違えか、それとも実行でできなかったことがあるのか。自分なりの落とし込みがあり、また観察に向かう。

このようなプロセスは、子供が外界を理解するプロセスと同じだ。大人と違う点は、観察・仮説が非常に短く、実行して、結果を観察するということだろう。いずれにしてもやってみて、いったいなぜそうなったのかを理解することで外界の法則を学んでいく。

楽しめないことによる最大の弊害は、成長できなくなること、そして心がもたなくなることだ。正直なことを言えば、若い年齢であれば楽しむことを捨て指導者が決めたことをひたすらに実行しても高いレベルに行くことができると思う。しかも、かなり高いレベルまで。しかし、競技の世界を見てきて感じるのは、長く続ける選手が高いところに到達するし、長く続ける選手は主体性があり自分で考えることができている。楽しむことを捨てて、ひたすらに決められたことを実行すると、人の心は何かを抑圧している状態になり、それが競技人生の後半、また引退後に跳ね返ってきて害をなす。こういった選手は頑張ることとは抑圧することであり、開放はよくないことだと思い込んでいる。さらにそこに常に頑張っていないとダメだという几帳面さが加わると、人生のどこかで大きなしっぺ返しを食らう。人の心は抑圧し続けられるようにはできていない。

楽しんでいて勝てるのかという言葉で現役時代によく反論されたが、私は楽しまないで勝てるような短期の勝負だと思っているのかと反論していた。楽しむ行為とは究極の主体的行為である。外界を観察し、身体をどのように扱えば、目指すべき目的に迎えるのかという創意工夫のプロセスであり、次々に変化する環境や自分の体に柔軟に対応することである。楽しむとは、過去を振り返り悔やみ引きずられるでもなく、何も決まっていない未来を憂い恐ることでもなく、今ここ自分にフォーカスすることである。楽しむことは自分を信じることであり、あるべき姿ではなく本来の自分を解放することでもある。

何度も繰り返すが、楽しむことの本質は主体的に行うことだ。楽しんで生きることは、主体的に生きることだ。

 

トップ画像:Pixabay by Pexels

 

 

 


この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役

1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。

為末大

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