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.社会  投稿日:2019/12/26

変革には後進の育成こそ必要


上昌広医療ガバナンス研究所 理事長)

【まとめ】

・髙久史麿医師は、私が若手を指導するにあたり手本とする一人。

・世の中を変革するには、権威にすがるのではなく、後進を育てること。

・長い時間実際に汗をかき、若手との信頼関係を構築することが真の強み。

 

12月7、8日、東京都港区で「現場からの医療改革推進協議会シンポジウム」を主催した。今年で14回目だ。50人の演者が登壇し、約300人が参加した。例年、議論の模様を動画として記録してくれている高松香織さんは「今年は若手の活躍が目立ちましたね」と感想を述べてくれた。

昨年までのシンポについては、彼女が撮影した映像を現場からの医療改革推進協議会のホームページで紹介している。今年の分も紹介予定だが、まずは私の挨拶を編集してくれた。Youtubeにアップしたので、ご興味のある方は是非、ご覧いただきたい。(参照:上昌広コメント@第14回「現場からの医療改革推進協議会シンポジウム」

高松さんが注目したのは、秋田大学医学部を休学し、ザンビアで医療支援を続ける宮地貴士君、ハンガリー国立セゲド大学医学部で学ぶ川本歩君、東北大学で閉鎖的な医学部の雰囲気と戦う村山安寿君などだ。

何れの学生もご縁があって、私どもの研究所でインターンを経験した。それ以来、指導している。既存の医学界の枠組みに収まらない元気な若者たちだ。このような医学生がいることを知ってもらいたく、彼らに登壇してもらった。

私が若手を指導するにあたり、手本にしている人がいる。その一人が髙久史麿先生だ。「医学界のドン」と呼ばれる人物で、医学界では知らない人はいない。髙久先生は私が東京大学医学部に在籍した当時、医学部長を務めておられ、私が入局した第三内科の先代教授だった。長年にわたり、御指導を賜っている。

▲写真 髙久史麿 医師 出典: 公益社団法人 地域医療振興協会ホームページ

髙久先生は、このシンポジウムには第1回から参加しておられ、最後の講評をお願いするのが恒例となっている。今年も2日間にわたり、フル参加していただいた。51歳の私でも、シンポジウムにフル参加するのはしんどかった。今年88歳になる髙久先生には大きな負担だったろう。長時間お付き合い頂いたことに心から感謝申し上げたい。

髙久先生から御指導いただき、「なぜ、常に指導力を発揮できるのか」と考えるようになった。先生の個人的な能力が高く、バランス感覚が優れているのは言うまでもない。

2009年に舛添要一厚労大臣(当時)が医学部定員50%増員を打ち出した際、その検討会の座長を依頼したのは髙久先生だった。舛添氏は、医学部定員増に反対する日本医師会や医系技官との関係を考慮しつつも、改革を断行できると判断したようだ。

同年7月の民主党への政権交代時には、故仙谷由人氏から髙久先生への仲介を依頼された。共に面談したが、仙谷氏は「あの人はスケールが違うな」と感想を述べた。

髙久先生は1931年に釜山で生まれた。父親は朝鮮総督府の役人だった。その後、小倉中学から第五高等学校、そして東京大学医学部医学科を1954年に卒業する。当時の北九州といえば、火野葦平が描いた『花と龍』の世界だ。火野の父で玉井組組長を務めた侠客玉井金五郎の一代記である。火野は小倉中学出身で、髙久先生の24年上だ。

先だってアフガニスタンで亡くなった中村哲医師は玉井の孫である。ネットで二人の写真を見比べると、あまりにそっくりなのに驚く。中村医師が内紛が続くアフガニスタンで活動を継続できたのは、生い立ちによるものが大きいだろう。一族に経験が蓄積されている。

▲写真 故中村哲医師 出典: 九州大学高等研究院ホームページ

私は髙久先生にも同じような匂いを感じた。その個人的な力量が高いことは言うまでもないが、私が注目したのは「彼を慕う弟子」、言い方を変えれば「子分」が多いことだ。私も、その中の一人だ。

なぜ、髙久先生に「子分」が多いのだろうか。

私は厚労省、日本医師会、日本医学会を批判してきた。髙久先生は13年間にわたり日本医学会会長を務めた。審議会の座長など、様々な要職を歴任してきた。医学界の重鎮には私との付き合いを避ける人もいるし、厚労省内には「上先生のグループとは距離を置いた方がいい」という役人が少なくない。当然、髙久先生の耳にも入ってきていただろう。

ところが、髙久先生は14年間にもわたり、我々が主催するシンポジウムに出席し、支援してくれている。彼は世の中を変革するには、権威にすがるのではなく、次世代を担う若手を育成することと本気で考えていたからだろう。髙久先生にとっては、私はいつまでも「若手」だ。「若手を育成することが大切」と言うはやすいが、その行動を継続することは難しい。

「現場からの医療改革推進協議会」の発起人には複数の政治家が名を連ねている。2006年11月に開催された第1回シンポジウムでは、黒岩祐治氏、足立信也氏、仙谷由人氏、舛添要一氏などが登壇した。当時、彼らの知名度は低かった。後に政府の要職を務めたり、知事になると思っている人はいなかった。

その後のシンポジウムに彼らが登壇した時には、それまで全く付き合いのなかった医学界の重鎮や官僚、政治家たちが押し寄せた。そして、「私をX先生に紹介して欲しい」などと頼んできた。私は権力に日和る彼らの姿を見苦しいと思った。そのような人たちは、その後、来なくなった。髙久先生は、このような連中とは違った。

髙久先生と話していて、いつも話題になるのは、自治医科大学の卒業生のことだ。髙久先生は、自治医科大学が設立された1972年から10年間、同大学の内科教授を務めた。当時40代。油が乗り切ったころだ。髙久先生はよく学生の面倒をみたそうだ。知人の自治医大の卒業生は「学生はしばしば髙久先生の自宅に招かれました」という。

▲写真 自治医科大学 出典: パブリック・ドメイン

開学当初の自治医大の卒業生は勤勉で能力が高いことで知られている。髙久先生の薫陶を受け、この頃の卒業生から多くの逸材がでる。その代表が地域医療振興協会の理事長を務める吉新通康氏だ。現在も髙久先生と二人三脚で地域医療を守っている。

髙久先生は、今でも教え子が支援を求めると出かけていく。東日本大震災後の2013年5月、福島県立医科大学が会津医療センターをオープンしたときに、センター長を引き受けたのは、「教え子であり、会津医療センター準備室長の大田雅嗣氏の存在が影響している」(同大学の職員)からだ。

大田氏は現在、同センターの病院長を務めるが、1979年に北海道大学を卒業した後、自治医大で研修した。血液内科を専攻した髙久先生の教え子だ。医学界の重鎮は誰もが「地域医療が大切だ」と言う。ただ、ほとんどは口だけだ。地方に足を運ぶことなく、大学や学会での活動に勤しむ。髙久先生のような人は少ない。

髙久先生の強みは、実際の行動を通じて、弟子を育て、長年にわたり彼らと信頼関係を構築していることだ。そして、教え子たちが有機的なネットワークを構築している。このシステムは、彼が50年近くをかけて作り上げてきたものだ。同じものを作りたければ、同じ時間、汗をかかねばならない。髙久先生の本当の強みは、ここにある。

医学部教授の中には、学生や若手医師の指導を放ったらかしで、製薬企業のアルバイトや学会活動に勤しむ人が少なくない。このような連中に限り、「個人に依存しないシステムが大切」などと言って、役所や学会に制度作りを求め、その神輿に乗ろうとする。これで人望が得られる訳がない。制度によって若手に言うことを聞かせるためには強制するしかない。その典型が専門医制度だ。

本気で何かを成し遂げたければ、後進を育て、長期間にわたり汗をかかねばならない。

最後に、シンポジウムの控え室での光景をご紹介したい。シンポジウムを手伝う学生の真ん中にいるのが髙久先生だ。我々が髙久先生から学ぶべきことは多い。

▲写真 著者提供

注:本稿は「医療タイムス」の連載を加筆修正したものです。

トップ画像:「現場からの医療改革推進協議会シンポジウム」。写真は第13回(2018年11月24,25日)の様子。出典:YouTube 「現場からの医療改革推進協議会第13回シンポジウム」


この記事を書いた人
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長

1968年生まれ。兵庫県出身。灘中学校・高等学校を経て、1993年(平成5年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、1995年(平成7年)から東京都立駒込病院血液内科医員。1999年(平成11年)、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論、医療ガバナンス論。東京大学医科学研究所特任教授、帝京大学医療情報システム研究センター客員教授。2016年3月東京大学医科学研究所退任、医療ガバナンス研究所設立、理事長就任。

上昌広

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