通知文は金正恩の偽装謝罪
朴斗鎮(コリア国際研究所所長)
【まとめ】
・韓国海洋水産部職員の銃殺・焼却への北「通知文」は欺瞞。
・国際批判をかわし権威守るため、金正恩は謝罪演出。
・「異例の謝罪」と喜ぶ文在寅政権の従北政策は一層露骨化へ。
統一戦線部の通知文は金正恩の謝罪にあらず
9月23日に北朝鮮海域の洋上で北朝鮮軍によって銃殺され遺体を焼かれた韓国海洋水産部職員李さん(47)の事件。これに対する北朝鮮の「統一戦線部通知文」が25日に国家情報院を通じて韓国政府に届けられた。韓国の政府与党と支持者たちは「金正恩が謝罪した」と大騒ぎしている。しかしこの通知文は、韓国民と国際世論を欺瞞する巧妙な世論操作作文であって、誠意ある謝罪とは言えない。
韓国非難と矛盾に満ちた「統一戦線部通知文」
誠意ある謝罪は、真相の究明に基づく謝罪でなければならならない。そして責任者の処罰、再発防止の措置がセットとなって初めて誠意ある謝罪となる。しかし今回の統一戦線部の通知文にはそうした内容は一切ない。最後の部分で「金正恩委員長は文大統領と南側の同胞たちに大きな失望感を与えたことに対して大変申し訳なく思っている」と、伝言形式で「謝罪」を伝えているだけだ。
ほとんどの内容は、韓国海洋水産部職員李氏を海上で射殺したことに対する自己正当化と、韓国軍に対する非難となっている。遺体を焼却したのか?海洋水産部職員が越北者(北朝鮮への亡命者)だったのか?銃撃に至った状況は?など、核心となる争点では韓国軍当局の発表とは大きく違う見解を示している。
そればかりか、北朝鮮は、韓国軍が「蛮行」「応分の対価」などの表現を使ったことについて、「不敬で対決的な色合いが濃い表現を使ったことに対して非常に遺憾に思う」と逆に非難している。
また記述内容に矛盾点も多い。李さんに80m先から身分確認した、李さんが逃げようとしたために射殺したなどとしているが、28時間漂流して声も出せない状態の人が80m先から尋問に応じたり、海の真っ只中から逃げ出したりできるわけがない。
さらには銃撃したのは事実だが、遺体を焼いてはいないとも主張し、李さんが救命胴衣を着ていたにも関わらず、死体がどこへ沈んだかわからないなどとしている。遺体を焼いていなければ、救命胴衣を着用していた遺体は海上に浮かんでいるはずだ。
▲写真 射殺された李氏が乗船していた韓国海洋水産部漁業指導船ムグンファ10号 出典:韓国海洋水産部ホームページ
「統一戦線部通知文」の狙い
この事件が24日午前11時に韓国国防部から発表された後、韓国国民と国際社会から激しい非難の声が金正恩政権と文在寅政権に向けられた。特に救助措置を取らず、傍観した文大統領の姿勢には、国際社会からも非難の声が上がった。
この「通知文」の狙いはまず、金正恩の命令で銃殺・焼却が行われたことを否定し、こうした世論を鎮め、金正恩の権威を守ることにある。金正恩の命令で行われたとの認識が内外に拡散すると、それでなくともトランプ発言で残虐性が問題視されている金正恩のイメージ低下が加速する。それは、今後文政権を使いこなす上でも米国との交渉を進める上でも好ましいことではない。
そうしたことから通知文では、監視艇の艇長が自己決断で銃殺したと主張している。しかし、このような重要問題を、一艇長が決断したと言っても誰も信じないだろう。北朝鮮の唯一独裁システムではありえないことだからだ。北朝鮮では銃弾1発を発射するのも金正恩の許可がいる。
次に文在寅政権を窮地から救出することだ。閣僚たちのスキャンダルや経済政策の失敗でレームダック化が加速している文在寅政権をこのまま放置すれば、韓国での長期従北政権維持に赤信号が灯る。こうしたことから北朝鮮は、「韓国側からの強い要請」を受け入れ、迅速な「金正恩の謝罪演出」を行ったと思われる。それは、青瓦台に最初に掲載された9月25日の通知文が、韓国式用語で満ちていたことからも伺い知れる。疑問点を指摘されたこの通知文は、数十カ所を北朝鮮式用語に訂正して26日に再掲載された。
北朝鮮の謝罪が、自らの意思で出されたものでないことはまた、「統一戦線部通知文」が出た2日後に、北朝鮮が朝鮮中央通信が「南朝鮮当局に警告する」との題目で「領海侵犯するな」と厳重警告したことに示された。
そして狙いの3つ目は、高まる国際社会の批判をかわすことだ。現在四面楚歌状態にある金正恩政権が、これ以上イメージダウンすることは、米国との新たな交渉を進める上でも、中国、ロシアなどから支援を得る上でも好ましいものではないからだ。
韓国政府与党は大喜び、しかし国民は厳しい批判
北朝鮮統一戦線部の通知文が、国家情報院ラインで9月25日に韓国政府に送られるや、韓国の政府与党と支持層は「金正恩が謝罪した」と大喜びだった。
通知文を発表した徐薫(ソ・フン)国家安保室長は、嬉しさのあまり通知文全文を代読し、金正恩を代弁する愚を犯した。国家情報院の朴智元(パク・チオン)院長と統一部の李仁栄(イ・イニョン)長官は、国会出席時、「金正恩委員長が射殺の指示をしたのではなさそうだ」「北朝鮮の謝罪は非常に異例だ」と大喜びし、盧武鉉(ノ・ムヒョン)財団理事長で与党重鎮の柳時敏(ユ・シミン)に至っては「金正恩委員長は啓蒙君主だ」などとはしゃいだ。
▲写真 廬武鉉財団・柳時敏理事長 出典:柳時敏(유시민)twitter
しかし多くの韓国国民は、この通知文でさらに激怒している。大規模コミュニティー・サイト「MLBパーク」には、「これが謝罪文に見えるのなら精神病院に行け」というコメントもあった。「誰が謝罪対象に向かって『憶測』『不敬』といった表現をするだろうか。これを謝罪だというのか」とのコメントもあった。
こうした声に押されて、韓国大統領府は、北朝鮮に追加調査要求したが、過去の事例から見て、実現の可能性はほとんどないと思われる。
「通知文」を掲げて中央突破狙う文在寅政権
「通知文」での「金正恩伝言謝罪」を受けて、韓国大統領府は9月27日に、今回の事件が発生して初めて、文大統領が主催する緊急安保関係長官会議で、「北朝鮮側の迅速な謝罪と再発防止の約束を肯定的に評価する」という立場を明らかにした。
それに伴い、世論の反発を抑え込む方針がとられた。その中心は、韓国国防部が発表した「遺体の焼却見解」を修正し衝撃度を下げることと、海洋水産部職員の李さんを「越北者」(北朝鮮への亡命者)に仕立て上げ、この事態を矮小化することだ。
この方針に合わせて、与党共に民主党は、対北朝鮮糾弾決議案を取り下げる方向だ。そればかりではない。与党議員が28日に突然「韓半島(朝鮮半島)終戦宣言要求決議案」と「北朝鮮個別観光要求決議案」等を上程した。
文在寅政権の北朝鮮従属政策は、国民の反発にも関わらず、今後一層露骨化することが予想される。
トップ写真:北朝鮮の金正恩委員長(左)と韓国の文在寅大統領(右)(2019年6月30日 板門店) 出典:The White House(Public domain)
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この記事を書いた人
朴斗鎮コリア国際研究所 所長
1941年大阪市生まれ。1966年朝鮮大学校政治経済学部卒業。朝鮮問題研究所所員を経て1968年より1975年まで朝鮮大学校政治経済学部教員。その後(株)ソフトバンクを経て、経営コンサルタントとなり、2006年から現職。デイリーNK顧問。朝鮮半島問題、在日朝鮮人問題を研究。テレビ、新聞、雑誌で言論活動。著書に『揺れる北朝鮮 金正恩のゆくえ』(花伝社)、「金正恩ー恐怖と不条理の統