大阪都構想、挫折の理由(上)コロナに敗れたポピュリズム その4
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
【まとめ】
・二重行政のムダの指摘と都構想提起は古くからある。
・知事・市長同時確保で期せずして〝府市合わせ〟解消のパラドクス。
・都構想は高コスト、住民サービス低下の反対論が説得力持つことに。
ジャーナリズムで働く者として、まことにお恥ずかしい限りなのだが、2011年の暮れに「大阪都構想」という言葉を聞いた時、内容をよく知りもしないで、
(グッドアイデアかも知れない)
などと思ってしまった。もちろん、そんなことを活字にしたりはしなかったが。
東日本大震災を経験し、首都直下地震がいつ起きても不思議ではない、などと言われる中、首都機能のバックアップを設けることは喫緊の課題だと考えていたので、いち早く大阪が手を挙げてくれたのかと早合点してしまったのである。
しかし、少し調べただけで、これは違うな、ただの焼き直しじゃないのか、と思うに至ったというわけだ。
今年11月1日、この構想の是非を問う住民投票が行われ、僅差で否決されたことは、未だ記憶に新しい。ただ、大阪府と大阪市の二重行政問題は、かなり以前から指摘され、東京23区のような特別行政区に再編してはどうか、というアイデアも、今回初めて示されたものではない。
たとえば2000年に、当時の太田房江府知事(ちなみに日本初の女性知事である)が、大阪府と大阪市を統合する構想を発表し、大阪都という言葉も、この時すでに用いている。焼き直しか、と私が思ったというのは、このことが記憶にあったからだ。調べてみると、1950年代と60年代にも、それぞれ似たような構想が示されていたことも分かった。
ただ、これらの「初期構想」は、いずれも具体化することなく消滅してしまっている。
前述の太田知事の案も2004年に、府に代わる広域自治体としての大阪新都機構を設けるとし、市については、
「政令市の枠組みは残したまま住民自治の拡充を図る」
というところまで具体化したが、単なる「提言」に終わってしまった。大阪市がきわめて非協力的であったことが原因で、提言自体がなにやら玉虫色になっているのも、同じ理由である。
その後、2008年に橋下徹氏が大阪府知事に当選したわけだが、彼自身、当初からこうした「都構想」を提唱していたわけではなかった。むしろ、当時は自民党に所属していた府議会議員たちが知事を動かし、2010年に橋下氏を代表とする「大阪維新の会」が旗揚げされた際、目玉政策として、大阪市と堺市の政令指定都市を解消して大阪府と一体化させ、もって府全域を「大阪都」とする改革を2015年までに実現を目指す、と発表された。念のため述べておくと、法制度上「都」にはなり得ないので、これは一種のキャッチコピーである。
この大阪維新の会は、後に国政に進出し、現在も衆参両院に議席を持っているが、日本維新の会とか維新の党、などと名称が変遷した上、他党との離合集散も繰り返され、非常にややこしい来歴となっている。本題と関係ない話題で紙数を割きたくもないので、この系統の政党については、以下「維新」の呼称で統一させていただく。
いずれにせよ、にわかに全国的な注目の的となったのは、2011年、当時の大阪市長の任期が満了することとなっていたが、これに際して橋下府知事が任期を3カ月残して辞職し、市長選挙に鞍替え出馬すると発表して以降である。
その後の経緯はよく知られる通りで、維新の松井一郎幹事長が府知事選に立候補し、市長選・府知事選のダブル選挙となった。投開票は同年11月27日のことで、いずれも都構想推進を掲げた維新の候補=橋下・松井両氏が、反対派の候補を大差で破る結果となり、現在に至る「維新の大阪政権」が誕生した。
もともと、大阪府は都道府県の中では日本一狭かったのだが、関西国際空港の建設など、大阪湾における大規模埋め立て工事が繰り返された結果、わずかながら香川県の面積を追い抜いた。
つまり、今でも日本で二番目に狭いわけだが、この狭い区域に、府立と市立施設が立ち並び、住民の声など聞くこともなく、莫大な税金が投じられるという事態が続いていた。これを称して「府市合わせ」と言う。不幸せにかけた駄洒落と思われるが、これは蛇足。
その最たる例が、りんくうゲートタワービル(大阪府)とワールドトレードセンタービル(大阪市)であるが、なんと10cm単位で高さを競い合って建てたものの、いずれも商業施設としては大失敗で、売却する羽目になった。これはほんの一例で、無駄に終わった投資の総額は1兆6000億円以上にもなるそうだ(維新のサイトより抜粋)。
こうした「府市合わせ」の弊害は、かなり以前から指摘されており、だからこそ大阪都構想が提起されたのも、これが初めてではなかったわけだが、ならば、どうして一度ならず二度までも住民投票で否決されることとなったのか。
もちろん理由は単一ではないが、見逃してはならないのは、政治のパラドクスと言うべきか、二重行政の解消を訴える政党が知事選と市長選のダブル選挙を制したことにより、期せずして「府市合わせ」が消滅していったことである。
たとえば、大学。
大阪には、国立の大阪大学の他に府立と市立の大学があったが、少子高齢化のこの時代、狭い大阪に三大学は無駄ではないか、との声は、前から聞かれていた。さらに言えば、府立大学の方は2005年に、大阪女子大学と大阪看護大学(いずれも府立)と統合し、日本一規模の大きい公立大学として再出発した経緯もある。余談ながら、卒業生の中に、阪神タイガースの球団社長やUberの日本法人社長などがいるそうだ。
しかしながら、両者の運営母体が幾度も述べるように「府市合わせ」であったため。府立と市立の統合など「できっこない」とされていた。実際、橋下市長が就任した当初も、幾度となくそう聞かされたと、当人が様々な場所で述懐している。
しかし、案ずるより産むが易し、とはよく言ったもので、2013年に外部有識者らも招聘して「新大学構想」が提示されるや、一度は延期されたものの、2019年4月に両大学の運営法人が統合され、今年2020年には、新大学の名称が「大阪公立大学」となることも発表された。見方を変えれば、二重行政の「負の遺産」は、個別具体的に清算してゆくことが可能であるという、格好の実例が示されたことになる。
そうなってみると、コストのかかる「都構想」など本当に必要なのか、大阪市を解体するというのは簡単だが、その結果、きめの細かい住民サービスができなくなるのではないか、といった反対論が、説得力を持ったのも当然の成り行きだったと言える。
事実、府議会と市議会の両方において、都構想は歓迎されないどころか猛烈な反発を受けたが、公明党が「住民投票そのものには反対しない」という姿勢に転じたことにより、2015年に最初の投票が実現した。
その過程と背景、さらには二度にわたってこの構想が端座した理由については、次回。
(続く)
トップ写真:道頓堀(2018年8月3日撮影) 出典:Fabio Achilli
あわせて読みたい
この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。