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.社会  投稿日:2021/4/21

法改正が後手に回ると(上)「墓石安全論」を排す その1


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・世間を震撼させる事件・事故が起きてから法改正や警察の対応に変化が生まれる。

・貴い犠牲の上に世の中が少し安全になる「墓石安全論」容認せず。

・「さらなる犠牲者が出てからでは遅い」という理念に立ち返るべき。

 

2008年6月8日、東京・秋葉原での出来事である。

12時30分過ぎ、神田明神通りを東進してきた有蓋の2トントラックが、中央通との交差点に赤信号を無視して突入。横断中の歩行者5人をはねた後、停車中のタクシーに接触して止まった。

この日は日曜日で、中央通りは歩行者天国となっており、多くの人出があったのだが、当初これを交通事故だと思った人たちが、負傷者の救護のために駆け寄ってきた。

ところが、運転席から降りてきた若い男が刃物を振り回し、女子大生(交差点脇の携帯ショップでアルバイトをしていた)を手始めに、一般市民と警察官の計12人を相次いで殺傷した。トラックではねられた5人も、うち3人が死亡。合わせて死者7人、重軽傷者10人という大惨事となってしまった。世に言う秋葉原連続殺傷事件(もしくは通り魔事件)である。

▲写真 秋葉原無差別殺傷事件でトラックが最初に人をはねた交差点(2008年6月8日) 出典:Carpkazu/Wikimedia Commons

トラックはレンタカーで、振り回された刃物は当時「ダガーナイフ」と報道された。ナイフとは片刃の刃物の総称(料理包丁も英語ではナイフ)で、ダガーとは両刃の短剣のことだから、厳密には両者は別ものなのだが。犯人はまた、全部で5本もの刃物を用意していたことが捜査で明らかになった。

いずれにせよ、犯人は刃物を用いての格闘術=いわゆるナイフファイティングはもとより、武道・格闘技の経験など皆無であったらしく、しかもたかだか2〜3分という短時間で、12人もの死傷者を出すとは、恐るべき殺傷力だと言う他はない。

読者ご賢察の通り、この事件が世間に大きな衝撃を与えた結果、銃刀法が一部改正され、刃渡り5.5センチ以上の短剣の所持は原則禁止となった。これにより、牡蠣の殻をむく道具も、ことごとく刃渡り5センチ以下、しかも先端が丸くなったそうだ。Amazonなどでは法改正に先駆けてダガーの出品・販売を禁止とした。

裁判で被告=犯人が供述した犯行動機は以下のようなものであった。

当時25歳の派遣社員だった犯人は、ネット掲示板で「ブサイク・負け組キャラ」として、それなりの人気を博すまでになったのだが、次第にアンチが増え、自分の名を騙るニセモノが掲示板に登場するなど「荒らし」行為を受けた。これが「通り魔をやる」という犯行予告につながった。

しかしながら当時は、ネットでの犯行予告など本気で受け取る人はおらず、誰一人として通報しなかったため、警察も動かなかった。この事実が問題視された結果、ネットでの犯行予告はそれ自体が脅迫罪に当たるとして、取り締まりの対象とされるようになったことは、読者もご存じだろう。

さらには報道の在り方も問題だった。この事件に限った話ではなかったのだが、犯人の家族のもとに報道陣が殺到し、この結果、事件から6年後に弟は自殺してしまった。享年28。職場にも下宿にもいられなくなり、深刻な苦悶の果てであったようだ。私が、すでに大きく報道されている事件であるにも関わらず、ここであえて犯人の実名を記載しない理由について、もはや多くを語るまでもあるまい。

飲酒運転の厳罰化も、ひとつの重大な事故がきっかけだった。

1999年11月28日、都内の東名高速で、運送会社の12トン積トラックが、料金所手前で減速した乗用車に追突。炎上したその車には一家4人が乗っており、後部座席にいた3歳と1歳の女の子が命を落としたのである。

この時、たまたまTVクルーが乗った車が近くにいて、事故の模様が撮影された。

すでに黒煙を挙げている乗用車から女性が出て来るや、救助に駆け付けた男性が、

「危ないぞ、逃げろ」

と怒鳴ったが、女性は車から離れようとせず、

「子供がいるの!」

と訴えた。それを聞いた男性も危険を顧みず車に駆け寄ったが、すでに車体は炎に包まれて、助け出すことはできなかった。助手席にいた父親は、なんとか助け出されたものの大やけどを負い、搬送先の病院では、集中治療室で数次にわたる皮膚移植手術を受けねばならなかったという。

▲写真 東名高速飲酒運転事故は用賀料金所付近で起きた。 出典:Cassiopeia sweet

問題はトラックの運転手で、アルコール依存症と診断される状態にあり、飲酒運転の常習犯であったことだ。

特にこの日は、750ml入りのウィスキー1本と缶チューハイ1本を飲んで、まっすぐ歩くことさえできない状態であった。救助に手を貸すこともしない(できない)その運転手に、居合わせた男性が、

「おっさん酒飲んどるやろ。ふらふらやないか」

と詰め寄る場面も記録されていた。

当然ながら現行犯逮捕され起訴されたが、判決は懲役4年。当時の法律では業務上過失致死傷罪にしか問えなかった。これは5年以下の懲役(または罰金)と定められており、検察は最高刑=5年を求刑したのだが、日本の裁判所には「八掛け判決」という奇妙な慣習があった。求刑に対して2割ほど割り引いた刑期が言い渡されるのである。この場合は5年の求刑だったので判決は4年、というように。

遺族は、2人の命を奪っておいてこの量刑は納得できないとし、飲酒運転の厳罰化を訴えた。たちまち多くの支援者が集まり、署名は(SNSなどない時代だったにもかかわらず)短期間のうちに40万筆を超えたという。

一方では、この翌年にも福岡県で飲酒運転による事故で、やはり子供の命が失われた。

こうして、2007年9月に道路交通法が改正されて酒酔い及び酒気帯び運転に対する厳罰化が実現。同時に、酒類を提供した人や同乗者も処罰の対象となった。

毎度のことだが民間の動きは行政や立法府よりも迅速で、飲酒事故が社会問題化すると同時に、全国レベルで運送会社やタクシー会社が、乗務前に運転手の呼気をチェックするなどの対策に乗り出した。

唐突だが、墓石安全論という言葉をお聞きになったことはないだろうか。

今回例示したふたつの案件のように、世間を震撼させるような事件・事故が起きてはじめて関連法規の改正や警察の対応に変化が生まれる。これはちょうど墓石を積み重ねて石垣を築くようなもので、貴い犠牲の上に立って世の中が少しずつ安全になって行く、といったほどの意味である。

私は、この議論は認めたくない。

殺傷目的以外の実用性が考えにくい刃物が、どうして購入・所持できるのか。酒を飲んで車を運転してはいけないということ、またその危険性は、運転免許を取りに行く段階で充分に教え込まれていたのではないか。

2021年4月の段階でいうならば、飲酒運転は厳罰化され、いわゆる「煽り運転」も危険運転として処罰の対象となってはいるが、すでに死亡事故の例まである「ながらスマホ運転」はどうなっているのか。

これ以上の犠牲者が出てからでは遅いのだ、という理念に今こそ立ち返るべきだ、というのが本シリーズの主旨だが、ならば「墓石安全論」などまったくの妄言なのかと問われれば、あながちそうとも言えない。むしろ単純に決めつけるのも危険なのだ。次回は、その話を。

トップ写真:イメージ 出典:Christopher Furlong/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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