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.社会  投稿日:2021/6/10

「コロナ・オリパラ・菅政権-人生は能力?ギャンブル?」続:身捨つるほどの祖国やありや 6


牛島信(弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・東京大会の感動、ワクチン接種で9月には菅首相の功績は称えられているだろう。

・能力主義のもとでの「成功」も運の要素は排除できない。好運の自覚は謙虚の基礎。

・「コミュニティ」「愛国心の共有」を生むのは、「『公共の善』に貢献している」誇りの自覚

 

コロナのせいで菅政権は不人気であるという。オリンピックについても、今夏の開催反対の意見が多いと喧伝される。なにはどうであれ、自民党総裁の任期は9月に切れ、衆議院議員の任期は10月に切れる。もう指呼の間と言っていい。

菅政権危うし?

時点を9月に早送りして、近未来の風景を眺めてみよう。

街でも田舎でも、そこら中オリンピック、それも日本選手の活躍の話でもちきりである。種目は問わない。むしろオリンピックだからこそ、なじみのない競技にまで目が張りつけになるのだ。よく知らないスポーツにも日本人選手はたくさん出場する。そして、観れば感動する。そんなつもりではなかった人々も、たぶん、いや確実に感動する。スポーツ、それも国別の一流のプレイヤーの試合にはそうした力が確かにある。それが祖国を代表してプレーするオリンピックの意義だ。

たとえば、つい最近まで私はラグビーを観たことがなかった。ルールの知識もあやしい。だが、先年の日本で開かれたワールドカップをテレビで観た。そして、ラグビーとはなんと人の心を揺さぶるスポーツなのかと思い知った。もっとも、といってそれ以後ラグビーファンになったのでもない。どうやら東京でラグビーのワールドカップが開かれたので、私のような門外漢の胸も世界の一流の選手の競い合うさまに引きつけられたということなのだろう。スポーツの力とはそうしたものなのだ。

それだけではない。パラリンピックはオリンピック以上に感動を呼ぶのではないかと私は予感している。そうではないか。昔から100m競走はあった。しかし、それは五体満足な人々の競走だった。いまは違う。義足の発達はオリンピックとはまた別の興味をいやがうえにもかきたてる。義足をつけて走っている競技者は、あり得たかもしれない私自身なのだ。水泳にしても、その他のどの競技にしても同じである。そこには人類の文明が到達した最先端がある。用具のことを言っているのではない。パラリンピックがオリンピックと同じ時期に、世界中から多くの人々が集まって開かれることこそが文明なのである。我々の達しつつあるところとは、そういうところなのだ。ハンディキャップを持っている、そうである人間がその人間の限界に挑む姿。

私は、若いころから陸上でも海上でもおよそ競技なるものの才能なく、別のことをして生きてきた。しかし、その私も、なにかの理由で五体満足でなければ、それなりのスポーツに挑んだかもしれない。いや、ひょっとしたら今でも、年齢別の競技なら目指すということがありえなくはないかもしれない。そういえば、ゴルフの好きだった父は、その終わりが近づくとシニアの大会によく出場していたものだった。

オリンピック・パラリンピックは、文明とそこに到達した人類の時代を目に見える形で、生きている人間が演じるものとして示すのである。その、自分の置かれた時代の実感が目の前でブレードのような義足を身につけて走る選手のおかげで、人々の一つ一つの心に感激として湧きあがる。私の心が例外であろうはずがない。

その人々の心に灯った熱い波は、菅さんを押し上げる。大多数の人々が、殊にメディアの多くが、コロナ禍でオリンピックもパラリンピックも止めようと声をそろえたときに、開催へ引っ張っていったのは菅さんだった、という思いが、9月の日本の心になる。

したがって、菅さんは、自民党総裁選も総選挙も楽々と勝つ。続投である。長期政権になるかもしれない。

▲写真 菅義偉首相 出典:Nicolas Datiche – Pool/Getty Images

それが政治ということなのだろう。政治では、勝てば官軍なのである。

そうはならない、という向きもあるだろう。そちらが正論かもしれない。わかる。しかし、ワクチンの接種は怒涛の勢いで進んでいる。誰あろう、それこそが菅さんの功績として、9月には称えられることになるのだ。

「究極の幸福に達する道はただ一つ、金持ちになることで、そのためには一流大学に進学せよ」というメッセージがあるという。皆さんはどう思われるだろうか?

マイケル・サンデル実力も運のうち(早川書房 2021年刊)という本に出てくる話だ(260頁)。ちなみに、原題は“Tyranny of Merit”という。そちらの方がわかりやすい。能力主義の専制といったところだろうか。訳者の苦労も素晴らしい。一流の大学に行くのも実は運次第という事実、本人の努力で大学に合格するわけではないという真実、サンデル氏が本のなかで言おうとした肝心かなめのことを簡潔に説明しているからだ。

問題は、能力主義のもとでは、成功した人は、おごり、失敗した人は我が身を責めるしかないことだ。しかも成功は、金の多寡に集約されてしまう。

▲写真 マイケル・サンデル教授 出典:Ethan Miller/Getty Images

ロバート・F・ケネディは、「失業の痛みは、たんに失職により収入を絶たれることではなく、共通善に貢献する機会を奪われることだ。」と言ったという(294頁)。私の持論でもある。共通善とは社会の一員として応分の貢献をしている、私の表現でいえば、社会に貸しはあっても借りはない、自分は社会と対峙しているという誇りである。失業の苦しみは失業保険では一部しかカバーされない。人生では金は一部に過ぎない。失業した人々は、自分の人生と人格を否定されたと骨身に染みるのだ。

「能力にしたがって仕事や機会を分配しても、不平等が緩和されるわけではない。」(173頁)まことにそのとおり。しかし、問題はそれどころではない。

「努力と才能によって能力社会の頂点に登り詰めたとすれば、自分の成功は、受け継いだものではなく、自ら勝ち取ったものだという事実を誇りにできる。」(170頁)これに対して、「あなたが貴族社会の上位層に生まれていれば、自分の特権は幸運のおかげであり、自分自身の手柄ではないとわかるだろう。」(169頁)好運の自覚は謙虚の基礎である。

未だ続く。

「能力主義社会において貧しいことは自信喪失につながる。(中略)自分の恵まれない状況は、少なくとも部分的には自ら招いたものであり、出世するための才能とやる気を十分に発揮できなかった結果なのだ」(170頁)

貴族社会では違う。自分が地主に従属しているのは自分の責任ではない。地主は自分よりもその地位にふさわしいわけではなく、運がいいにすぎない。

自分の能力によって成功した人間は、成功していない人間を見くだす。本人からみれば正当な動機がある。これが始末におえないのは、見下す理由が相続した富ではなく、自由な市場で自ら稼いだ富が自分の能力、社会的な価値を保証していると感じてしまうからだ。反対側にいる人間は、それに対して、「あなたは単に運が良かっただけだ」という反論を予め封じられている。歯噛みするしかない。

この本を読みながら、私は以前読んだ『不道徳的倫理学講義』(古田徹也 筑摩書房 2019年刊)という本をなんども思い出していた。

特に冒頭が印象的な本である。

『こち亀』の主人公・両さんの顔が出ている。両さんが、吹き出しで、「入試 就職 結婚 みんなギャンブルみたいなもんだろ!」と後輩の麗子に対して、大きく口を広げて大声で叫んでいる場面だ。さらに一段と声を張り上げた大声で(太字になっている)、「人生すべて博打だぞ!」とたたみかける。

私はそんな風に人生を考えたことはなかった。しかし、確かにそうかもしれない。少なくとも運という要素は排除できない

それにもかかわらず、能力で出世を遂げた人間は、自分の力へのおごりを持つ。能力を磨かなかった人間への軽蔑はその心理の裏側にいつも張り付いている。

「GDPの規模と配分のみを関心事とする政治経済理論は、労働の尊厳をむしばみ、市民生活を貧しくする。」(サンデル 302頁)

▲写真 ロバート・F・ケネディ元司法長官(1968年4月1日 ニューヨーク市) 出典:Santi Visalli/Getty Images

「ロバート・F・ケネディはそれを理解していた。」とサンデル氏は言う。そして「『仲間意識、コミュニティ、愛国心の共有――われわれの文明のこうした本質的価値観は、ただ一緒に財を買い、消費することから生まれるのではありません。』その価値観を生むのはむしろ『十分な給料が支払われる尊厳ある職です。働く人が『自分はこの国をつくるのに手を貸した。この国の公共の冒険的大事業に参加した』と、コミュニティや、家族や、国や、それに何よりも自分自身に向かって言えるような職なのです。』」と引用を結ぶ。(サンデル 302頁)

その後、サンデル氏は「そのように語る政治家は、いまではほとんどいない。」と呟く。(303頁)

「市場社会では、稼いだお金と共通善への貢献の価値を混同する傾向になかなかあらがえない。」(サンデル 304頁)「もっぱら(あるいは主に)出世したいだけを目指していると、民主主義に必要な社会的絆と市民的愛着を培うのが難しくなってしまう。」(サンデル 318頁)

私たちは、そこにいる。

そういえば、「より速く、より高く、より強く」というのは、オリンピックのモットーだった。どうやら釈迦にもキリストにもムハンマドにも解けなかった問題なのかもしれない。

トップ写真:五輪聖火(2020年3月25日 福島県いわき市) 出典:Clive Rose/Getty Images




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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