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.社会  投稿日:2021/7/12

TOKYO1968(下)それでも五輪は開催された 最終回


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・1968年は東大闘争に始まり学生運動が大きくなり流血事件も多数。

・同年、「第一次・第二次成田デモ事件」「3億円事件」といった大きな出来事も発生。

・国内が騒然とする中でメキシコシティ五輪が後景化してしまった。

 

ここまでフランスのパリ五月革命、中国の文化大革命などについて述べてきたが、前回簡単に触れたように、わが国においても1968年は反体制的な学生運動が大いなる盛り上がりを見せた年であった。

東大医学部のストライキから、安田講堂がバリケード封鎖されるに至った経緯は(上)で触れた通りであるが、私学でも紛争が起きていた。とりわけ日本一のマンモス大学であった日本大学(以下、日大)では、当時の経営陣が総額20億円にものぼる脱税を摘発されるなど、金儲け主義の大学運営に対して、学生の怒りが爆発したのである。

一方、こうした学生の抗議行動を「赤化工作」と見なす勢力も台頭した。具体的には体育会系の学生や応援団などだが、これが学生同士の対立抗争にとどまらず、右翼団体の介入によって、幾度となく流血の惨事となってしまった。

前述のように、当時の経営陣は巨額の裏金をたくわえていたので、こうした右翼団体はカネで雇われていたに違いないと考えられているが、詳細は不明である。

いずれにせよ、投石どころか陸上競技の砲丸を人間めがけて投げつけたり、右翼の暴力はすさまじいものであった。日本刀が振り回されたことまである。対抗上、全共闘側の武装もエスカレートした。まずは「ゲバ棒」として知られた角材から鉄パイプに代わり、それも伸縮二段式の鉄パイプなど、隠し持つのに適した武器が登場。バリケードもそれまでの机や椅子を積み上げただけのものから、角材や金属製ロッカーを組み込んで太い針金で結束し、さらには結束部分をセメントで固めるようになった。

こうした経験を積んだ日大の学生たちが、他大学の紛争にも影響を与え、全国的な学生運動の過激化に一役買ったのは、間違いのないところだ。たとえば東大安田講堂でも、理工学部の学生から成る「日大工兵隊」がバリケードの強化工事に手を貸した。嘘か本当か知らないが、東大生が築いたバリケードを見た「工兵」の一人が、「これでもバリかよ」と失笑したと伝えられている。

警察との関係でも、日大闘争は大きなインパクトを与えることとなった。ここでは当事者間の主張が食い違っていて、警察関係者の証言によれば。当初は学生に一定の理解を示していた。東大の研修医制度は「封建時代の御礼奉公じゃあるまいし」と考えられたし、日大の不正経理問題については「学生が怒るのも無理はない」というように。当時は、まだまだ大学進学率も10%台で、大学生は日本の将来を担うエリートだと見なされてもいた。

一方で、学生紛争を経験した人たちの証言をまとめた書籍などによれば、学生たちは当初、右翼の暴力を警察が止めてくれることを期待していたが、実際には見過ごし、むしろ全共闘の学生だけが「選別逮捕」された、ということになる。

おそらくどちらも、自分たちに都合のよい主張をしているのであろうが、潮目が一挙に変わったのは、9月4日、経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動した警視庁機動隊に対し、四階から重さ18kgものコンクリート塊が投げ落とされ、これを頭部に受けた隊員が殉職した事件によってである。当日記者会見した警視庁公安部の幹部は、「警視庁はこれまで、学生にも言い分がある、と思っていたが、もうこれからは手加減しない」と怒りを露わにした。

この事件ではまた、日大全共闘の幹部8人が逮捕・起訴されたが、裁判においては「現場にいたとの証明がない」として、警察官の殉職事案については無罪とされた。つまりは未解決事件となっているのである。

▲写真 警視庁機動隊により封鎖解除された東大・安田講堂(1969年1月18日) 出典:Bettmann/Getty Images

パリ五月革命においては、労働者の一部が学生の血気に呼応したが、日本でも実は、デモや機動隊との暴力沙汰(ゲバルトと呼ばれた)に参加する労働者が見受けられた。彼らの多くは、反戦成年委員会を名乗っていたことから、反戦労働者と呼ばれる。この組織はもともと、当時の日本社会党が大衆組織のひとつとして旗揚げしたものだが、1968年以降の政治的動乱の中で、完全な「鬼っ子」となっていった。端的に言うと。社会党・共産党を「日和見主義者」と批判する新左翼陣営に加わったのである。

さらに言えば1970年代以降、学生運動はどんどん衰退していった。日大においても闘争の過激化が一般学生の支持を失う結果を招き、70年代初めには闘争は収束、全共闘も雲散霧消してしまう。代わって、新左翼諸党派においては反戦労働者が主力となって行く。

農民の反政府運動も起きた。成田空港建設反対闘争である。1960年代の初め頃から、羽田空港が手狭になる事態を見越して、新東京国際空港の建設計画が進められていたが、建設予定地となった成田・三里塚地区においては、農民の一部が用地の買収を拒否した。これに対して政府は、公益のために強制収容する、という方針を打ち出し、農民の側も、新左翼諸党派と連携して、次第に暴力的な対決に傾斜していったのである。

そのきっかけとなったのが、この年の2月26日に起きた「第一次成田デモ事件」である。ちなみに「第二次」は3月10日に起きている。

もともと農民にとっては、農地を守ることは生活を守ることであり、一方では、学生や労働者のように、逮捕されたら生活はどうなるか、といった後顧の憂いもあまりない。

いきおい反対運動も過激になったが、とりわけ第一次成田デモ事件では、反対同盟の戸村一作委員長が機動隊の暴行によって重傷を負うという事態が起きている。もともとは温厚なクリスチャンであった戸村だが、これを機に、「右の頬を打たれたら、左の頬を打ち返せ」などと武装闘争を肯定するようになっていった。

このように、今は昔、というエピソードに事欠かない1968年であったが、今も代わらないものも、いくつか世に出ている。世界初のレトルトパウチ食品で「大塚ボンカレー」が2月に発売されているし、日清食品がインスタントラーメン「出前一丁」を発売したのも同じく2月である。 自動車業界においても、トヨタ「ハイラックス」三菱「デリカ」という代表的なミニバンが、いずれもこの年にデビューした。その後モデルチェンジを繰り返しながら、今も売れ続けている。

この年はまた、初の青年漫画誌である『ビッグコミック』が創刊された。2月29日のことで(余談ながら、オリンピックイヤーは閏年である)、当初は月間だったが、やがて月2回刊となる。この年の11月から『ゴルゴ13』(さいとうたかを)の連載が始まり、某閣僚が国際情勢を勉強するテキストだと公言するまでになった笑。現在も連載中だ。

『少年ジャンプ』が創刊されたのもこの年で、当初は月2回刊、のちに『週刊少年ジャンプ』となる。

日大闘争における機動隊員の殉職は未解決事件になったと述べたが、この年の暮れには、戦後最大の未解決事件が起きている。12月10日、都下府中市で起きた「3億円事件」だ。小学生だった私も記憶にあるが、誰も傷つけない鮮やかな手口から、犯人を英雄視する風潮があったように思う。

まことに騒然とした年で、メキシコシティ五輪が後景化してしまったのも無理はない。

あらためて、新型コロナ禍の中で東京五輪を開催して、果たして無事に終えられるのかと憂えるのは、私だけではないだろうと思えてならない。

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トップ写真:成田空港建設反対運動 出典:Bettmann/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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