ブラックパワー・サリュートの背景とは それでも五輪は開催された その2
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
【まとめ】
・1968年、五輪史上もっとも有名な政治的パフォーマンスがあった。
・IOCは東京大会で「人種差別反対」「社会正義」主張の活動を容認へ。
・では2022年北京大会は?中国はIOCに「政治的主張禁止」を働きかけ。
1968年メキシコシティ大会においては、五輪史上もっとも有名な政治的パフォーマンスが行われた。
10月17日、男子200メートルの決勝が終わった後、世界新記録で優勝したトミー・スミスと、3位(銅メダル)のジョン・カーロスというアフリカ系米国人の選手が、表彰台で人種差別に抗議する行動に出たのだ。
銀メダリストのピーター・ノーマンは、オーストラリア代表の白人だったが、二人の行動に賛意を示し、三人してOPHR(Olympic Project for Human Rights 人権のためのオリンピック・プロジェクト)のバッジをつけて表彰台に上った。
さらに二人のアフリカ系メダリストは、自分たちの貧しさをアピールするため、シューズを着用せずに靴下だけで表彰台に上り、スミス選手は右手、カーロス選手は左手に黒い手袋をはめていた。これは、カーロス選手が手袋を忘れてしまったことから、ノーマン選手が、一双の手袋を二人で分かち合うようアドバイスしたものとされている。
黒い手袋というのは、当時の米国内において、人種差別反対運動に一定の影響力を持っていたブラック・パンサーのシンボルであった。これについては、もう少し後で見る。
合衆国国歌『星条旗よ永遠なれ』が演奏され、国旗が掲揚される間、二人は下を向いて拳を突き上げていた。会場の観客からはブーイングが起き、その様子は世界中でTV中継されたのである。後にスミス選手は、
「帰国したらまるで犯罪者扱いで、仕事にも就けなければ家族まで嫌がらせを受けた」
と語っているが、その前に米国選手団は二人を代表から追放する処分を発表していた。
アフリカ系市民の権利拡大を訴える、世にいう公民権運動は、第二次世界大戦終結後、どんどん盛んになっていった。しかも、前述のノーマン選手の行動からも分かるように、世界的には有色人種ばかりか、白人の支持も幅広く集めていたのである。
しかしその一方では、米国内の白人至上主義者の反発も過激なもので、この年の4月4日には、
「I Have a dream 私には夢がある」
という演説で、日本でもよく知られたマーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺される事件が起きていた。ちなみにhaveを大文字にしたのは彼の独創であるらしい。
▲写真 1963年のワシントン大行進で演説するマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(1963年08月28日) 出典:Getty Images
ともあれこうしたことから、アフリカ系の学生らの間からは、
「非暴力主義の穏健な公民権運動では、白人たちは聞く耳など持たない」
という声が上がり、武装闘争へと傾斜する者が次第に増えてきた。かくして1965年、イリノイ州においてブラック・パンサー(党)が旗揚げされたのである。
▲写真 1970年、ボストンの郵便局前広場で開催されたブラックパンサー党の集会の様子。 出典:Spencer Grant/Getty Images
彼らは黒人居住区(当時の米国では、そうしたものが公然と設けられていた)の青年たちに、ショットガンや火炎瓶で武装し、警官や白人至上主義者の暴力には武装して立ち向かうよう呼びかける一方で、貧困家庭の子供たちに対する給食など、慈善活動にも取り組んで支持を拡大していった。
当時の公民権運動を体験したり身近で見聞したりした世代のアフリカ系米国人にとっては、不愉快なたとえになってしまうかも知れないが、前世紀の終わり頃、イスラム圏において原理主義者たちが急速に支持を拡大したやり方とよく似ている。
さらに述べると、バスの座席から公園の水飲み場まで、白人用と有色人種用とに分けられるといった差別構造の中で、アフリカ系の大学生がいたということ自体、奇異に思われる向きがあるかもしれない。
実はこれには、当時すでに泥沼化の様相を見せていたヴェトナム戦争が関係している。
どういうことかと言うと、戦争反対の声が盛り上がる中、徴兵に応じて戦場に赴いた帰還兵には奨学金を支給する、という政策がとられたために、白人の大学生が徴兵カードを焼き捨てる挙に出た一方で、アフリカ系の大学進学率が上がるという現象が起きたのである。
ヴェトナム戦争においても、1968年はひとつの転機となった年であった。
1月末、当時の南ヴェトナムで共産ゲリラが蜂起し、米国大使館が一時占拠されるなど、世界中に衝撃を与えた。世にいうテト(旧正月)攻勢だが、これについては、
「軍事的には共産軍の敗北、政治的には米軍の敗北」
と総括されている。蜂起はいずれも鎮圧され、米軍による報復の空爆は苛烈さを増したが、最終的には共産軍が勝つのではないか、との観測が広まっていったのである。
こうした背景から米国内においても、ヴェトナム反戦運動と人種差別反対運動が同時進行的に盛り上がって行き、ついには冒頭で述べた「ブラックパワー・サリュート」に結びつくのである。サリュートとは敬礼の意味で、黒い手袋をはめた拳を突き上げるポーズからこう呼ばれたが、当時の感覚では、揶揄する意味合いが強かったようだ。
そして二人のアフリカ系メダリストは選手村から追放され、前述のように「帰国したら犯罪者扱い」であったわけだが、もともと五輪というイベントにおいては、政治的パフォーマンスはタブー視されていた。
オリンピックの原型とされる、古代オリンピア競技会が、期間中、全ての戦争を禁じた上で開催される「平和の祭典」であったことが思想的な裏付けであったとされるが、時代が下ると競技会への参加は「国威発揚」を目指すものとなり、ついには1980年モスクワ大会に際しては、米国が旗を振って、日本を含むに親米諸国が一斉にボイコットした。
実は今次の東京五輪に際しても、大きな変化が起きている。
今年4月に発表されたことだが、IOCは今次の大会期間中、
「人種差別反対や社会正義を訴えるための、平和的な抗議活動に対しては制裁を科さない」
と決定したのである。
米英のメディアが報じたところによれば、やはりこれもアフリカ系米国人の問題と関係がありそうだ。昨年も大きな関心を集めた、白人警官の暴力によってアフリカ系市民が命を落としたことをきっかけとするBLM(ブラック・ライヴズ・マター 黒人の命も大切だ)運動に配慮したものではないか、と多くの人が考えているらしい。
国旗掲揚の際に、膝をついて抗議することも容認するようだが、私がちょっと引っかかるのは、2022年に予定されている冬季北京大会とのからみだ。
▲写真 新疆ウイグル自治区の人権問題等で2022年北京冬季五輪をボイコットするよう米国政府に求める集会参加者(2021年6月4日 ワシントンDC) 出典:Kevin Dietsch/Getty Images
すでに広く報じられているように、チベットやウイグル自治区における中国共産党による人権侵害を問題視して、一時はボイコットを示唆する声まであった。今のところボイコットの主張は鳴りをひそめているように見受けられるが、選手が独自に抗議することまでは止められない、というのが案外IOCの思惑ではないか。
中国共産党は、まるで先手を打つかのように、北京五輪においては一切の政治的パフォーマンスを厳に禁じるよう、IOCと各国に働きかけていると聞く。
「赤い貴族」と呼ばれる中国の支配層と、利権まみれの「五輪貴族」との間に、なんらかの軋轢があるとすれば、我ら下々の者の声など届かないかも知れないが、スポーツに政治を持ち込むなと、さんざ言い続けてきたのはどこの誰だ、と言いたくなるのは私一人ではないと思う。
(その1)
トップ写真:1968年メキシコシティ五輪の200m走の表彰台で、拳を掲げる金メダリストのトミー・スミス(中央)と銅メダリストのジョン・カーロス(右)。銀メダリストのピーター・ノーマンも2人の行為に賛同し、OPHRのバッジを着用している(1968年10月16日) 出典:Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。