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.社会  投稿日:2021/8/20

英霊と呼ばれない女学生たち 「戦争追体験」を語り継ぐ その3


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・日本は、女学生や男子中学生らに「祖国を守る義務」を押し付けた。

・戦争の最大の被害者といえる女学生たちに、国家は報いていない。

・憲法改正議論においては、戦争の犠牲を繰り返す可能性を断じて認めない。

 

戦後のマスメディアにあっては、旧日本軍はひたすら悪く描かれている、といった意見を開陳する人は、今でも結構いる。

私自身は、そんなことは全然ないと言い続けてきた。

まだ子供だった昭和30年代は、戦争の記憶も今よりだいぶ生々しかったはずなのだが、それでも『ゼロ戦はやと』とか、日本軍が米軍をやっつけまくるアニメが放送されていたりしたことを覚えているからだ。『はだしのゲン』など、戦争悪を告発する漫画がよく読まれるようになったのは、もう少し時代が下ってからのことである。

今ゼロ戦と表記したが、正式名称は海軍零式艦上戦闘機で、略称も本当は「ぜろせん」でなく「れいせん」が正しい。ただ、海軍内部でも「ぜろせん」と呼ばれていた、とする資料もある。

アジア太平洋戦争で用いられた日本軍の兵器の中でも代表的な存在で、とりわけ戦争初期には、その高性能ぶりが連合軍のパイロットたちを震撼させた。

当然、書籍や映画にも多数登場するが、柳田邦男の『零戦燃ゆ』(文春文庫他)というノンフィクションが秀逸である。

世界最高水準の新型戦闘機を開発した、技術陣の苦闘もよく描かれているが、国力の限界から、米軍が次々と新型戦闘機を投入してくるのに対し、日本軍は(海軍が短期決戦にこだわっていた、という事情があったとは言え)、零戦に細かな改良を加えるだけで戦争を乗り切ろうとした経緯が、手に取るように分かる。

映画化もされたが、原作は影も形もないというに近い。ただ、前述のように次々と新型機を投入してくる米軍に、猛訓練に耐え抜いて培った腕前と「精神力」で立ち向かった日本の航空兵たちの悲劇は、よく描かれていた。

この零戦の主たる生産拠点は、三菱重工名古屋工場であったが、そこで徴用工として働く女学生を、当時アイドルだった早見優が演じている。

私は零戦を別段嫌いではないし、早見優はそれ以上に嫌いではなかったので見に行ったようなわけだが、そんなことより、ここで指摘しておきたいのは、これまで何回か述べてきた徴兵制度とは別に、戦時中は徴用という制度もあったということである。

兵士として戦争に駆り出される代わりに、軍需工場などでの労働に従事させられる制度で、言うまでもなく戦時に必要とされる膨大な軍需物資の生産を支えるためである。徴兵は男子に限られていたが、徴用は女学生にも適用された。

記録によれば、月額50円ほどの給与が支給されていたそうで、当時の物価水準から考える限り、今どきの学生バイトよりもだいぶ稼げたことにはなる。とは言え、戦時統制経済の下で、買い物や娯楽などの使い道がなにもなかったから、誰もありがたく思ってなどいなかったと、やはり記録にある。

それはさておき映画の中の早見優だが、戦争末期、この工場は米軍の空襲を受ける。軍需工場は基地と並ぶ最重要の攻撃目標とされていた。

これまた今風に言うとバイトリーダーのような立場であった彼女は、後輩たちを先に避難させ、最後に自分も防空壕へと走るのだが……という展開であった。実際、徴用された勤務先が砲爆撃を受け、多くの犠牲者が出ている。実は私の父も、旧制中学時代に徴用され、荒川土手を転げまわって米軍機の機銃掃射から逃れた、という経験をしている。

沖縄戦で多くの犠牲者を出したひめゆり部隊も、いわばこの徴用制度の犠牲者であった。

▲写真 「ひめゆりの塔」沖縄県糸満市(2020年11月29日) 出典:Photo by Yuichi Yamazaki/Getty Images

これまた、名称の由来について誤解が広まっているようだが、ひめゆりというユリ科の花があるわけではない。沖縄出身者に聞いたことがあるのだが、かの地で咲き誇っているのは、もっぱら鬼百合なのだとか。

実はこの部隊は、沖縄第一高等女学校と沖縄女子師範学校から、主として徴用されていた。沖縄高等女学校で発行されていた生徒会機関誌のタイトルが『織姫』で、沖縄女子師範学校の同窓会が通称「白百合会」であったことから想を得て生まれた造語なのである。また、部隊とは本来、中隊や連帯のように、正規の序列に組み入れられた集団を指すので、本当は「ひめゆり学徒隊」もしくは単に「ひめゆり隊」と呼ばれたらしい。

ちなみにこの両校は、戦後の沖縄が米軍の信託統治下に置かれたという事情もあって、新制高校として再出発することなく、敗戦直後に廃校となってしまった。

彼女たちの主たる任務は、野戦病院での傷病兵の看護であったのだが、病院と言っても洞窟の中であったり、想像を絶するような環境で、なおかつ米軍の無差別の砲爆撃によって、多くの犠牲者を出した。

1995年に『ひめゆりの塔』という映画が公開された。もともと1953年に公開され、1982年にもリメイクされているが、私にとっては、この1995年版がもっとも印象深かった。

と言うのは、20年以上も前のことで、まだ存命中の生存者が幾人もおり、試写会に招待された様子を報道番組で見たからである。

集中砲火の中、助けを求めることさえできず、それでも転びかけた友人の手を引いたりしながら女生徒たちが逃げまどうシーンで、生存者の婦人たちが一斉にハンカチで顔を覆った時には、私自身も目頭が熱くなったが、同時に、こんな理不尽なことがあってよいものかと、言い知れぬほどの怒りがわいてくるのを抑えることができなかった。

ほんの半世紀ばかり時代がずれていたなら、JK(女子高生)と呼ばれて青春を謳歌できたはずの彼女たちが、このように戦火の中で若い命を散らしたのだ。

さらに言えば、彼女たちは「英霊」ではないので、神社に祀られることもない。神社に祀ることにどれほどの意味があるのか、という議論はひとまず置いて、ある意味、戦争の最大の被害者だと言える女学生たちに、国家はなにひとつ報いようとしていない

沖縄ではまた、男子中学生(旧制なのでおおむね14〜17歳)も防衛戦に駆り出された。鉄血勤皇隊と称する部隊がそれだが、こちらはタテマエとしては志願制で、学校で少年兵部隊を編成する旨の説明を受けた後、志願する者は同意書に親の判子をもらってこい、などと言われて、ひとまず家に帰されたそうだが、軍国主義の時代にあって、お前は跡取りだから行くな、などと言える親がいただろうか。

彼らもまた、弾薬の運搬や陣地構築の手伝いが任務だとされていたが、米軍は洞窟陣地や塹壕を見つけると、端から火炎放射器で焼き払う、という戦法をとったため、やはり多くの犠牲者を出した。

これまた志願制でもって(!)、爆薬を抱えて敵戦車の車体の下に飛び込む特攻作戦で散った者も、少なからずいたとされる。

今年も、終戦記念日には一部の閣僚が靖国神社に参拝したり、英霊の声にこたえるためと称して、憲法改正を訴える集会が開かれたりした。

私は前々から、日本国憲法を一字一句変えてはならない、との立場ではないと公言してきた。とは言え、それはあくまで、憲法論争をタブー視することなく、是々非々の立場でとことん論じ合うのがよい、と考えればこそである。

国民にまたしても「祖国を守る義務」を押しつけ、自分の意思を関わりなく戦争の犠牲者になる人を再び生み出す、そのような可能性をはらんだ憲法改正論議には断じて与しない。これが、戦争犠牲者に対する私なりの、せめてもの供養だと思う。

その1その2

トップ写真:「零戦」 出典:Photo by US Navy/PhotoQuest/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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