無料会員募集中
.政治  投稿日:2018/8/14

ゴーストップ事件をご存じですか? 昭和の戦争・平成の戦争 その2


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・ゴーストップ事件後、警察が軍隊に及び腰になり2・26事件が起きた。

・戦後、自衛隊は警察の支配下に置かれているが、信頼関係が築けていない。

・憲法改正論議前に、国民の生命財産を守るとはどのようなことか社会全体で議論していく必要がある。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て表示されず、写真説明と出典のみ記されていることがあります。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=41559でお読み下さい。】

 

今や国民的ドラマと呼んでよいであろう、TV朝日系の『相棒』だが、私が手を打って喜んだシーンがある。もうだいぶ前の話、ということになるのだが、非公然に稼働していた細菌研究施設から、危険なウィルスが盗み出され、その裏で実は自衛隊が暗躍していた、という設定だった。

水谷豊演じる主人公・杉下右京警部らの活躍で、真相が暴かれて行くのだが、あくまでも末端の暴走だ、とシラを切ろうとする防衛省幹部に対し、岸部一徳演じる警察庁幹部が、こう言ってのける。

「一言いい?省に格上げされたと思って、少し調子に乗ってない?」

警察と自衛隊は定期的に情報交換をしているのだが、その席上、防衛庁が防衛省となり、今までは警察庁の風下に立っていたが……などと嫌みを言われるシーンがあって、それが伏線になっていたのだ。

もともとこのドラマは、犯罪だけでなく、警察内部の不正も容赦なく暴いてしまう面白さがあったのだが、ついに防衛省まで切り捨てたか、と個人的にウケたのである。

同時に、ゴーストップ事件のことが、ちらと頭に浮かんだ。1933(昭和8)年6月17日、大阪市北区の天神橋筋6丁目交差点(大阪の人はテンロクと言われればすぐ分かるらしいが、東京人の私はまったく不案内)で、陸軍歩兵第8連隊に所属する兵士が信号無視をした。この日は非番で、急いで市電に乗りたかったらしい。

それを見とがめた巡査が、派出所まで連行しようとしたのだが、はからずも公衆の面前で取り押さえられる形となった兵士が、「軍人を身柄拘束できるのは憲兵だけ。巡査の命令になど従わぬ」などと抗弁したことから、ついには派出所前で殴り合いのケンカになってしまった。

見かねた通行人の通報で、憲兵が駆けつけて兵士の身柄を引き取り、ひとまず騒ぎはおさまったかに思えたのだが、現場の責任者である連隊長と警察署長が、いずれも不在であったことから、話がややこしくなった。それぞれ上級官庁(陸軍省と、戦前は警察の監督官庁であった内務省)に報告が上がってしまったのである。

まずは陸軍側が、制服の兵士を拘束しようとしたのは不穏当である、などと警察に抗議し、これを受けた警察も、「軍人が陛下の軍人だと言うなら、警察官も陛下の警察官である」として、謝罪など論外だと応じた(22日)。

その後、大阪府知事と陸軍幹部の会談も物別れに終わるなど(24日)、対立はエスカレートし、警察署長が過労で倒れたかと思えば、ついには目撃者の一人が自殺するという事態まで起きた。警察と憲兵隊から交互に呼び出され、双方から、こちらに有利な証言をするようプレッシャーをかけられたせいであると、衆目が一致している。

結局、半年近くも泥仕合が続いたのだが、昭和天皇が心配されているとの情報を得た陸軍側が、急に矛を収める形で和解に至った。11月20日、当事者の兵士と巡査がともに検察に出頭して(兵士が巡査を告訴していた)、互いに謝罪した後、握手して別れたという。

世間の目には痛み分けと映ったのだが、法曹界においては、警察権力を含めた法の支配も現役軍人には及ばない、という解釈が根付く結果を招いた。と言うより、警察や裁判所といった司法執行機関までが、軍隊に対して及び腰になったのである。

この3年後、1936(昭和11)年2月26日に、2・26事件として有名なクーデターが起きるわけだが、実は警察は、憲兵隊より先に「一部青年将校の間に不穏な動きあり」との情報を得ていた。しかしながら軍部と再度のトラブルになることを嫌った上層部の判断で、この情報を黙殺したのである。

▲写真 昭和11年2月26日、芝浦埠頭に上陸する海軍陸戦隊。 出典:シリーズ20世紀の記憶 『満洲国の幻影』 (毎日新聞社)

昭和の日本は、ある日突然「軍部独裁」になったわけではなく、様々な事件が、物語の伏線のような役割を果たしていたのだ。

そして戦後の自衛隊は、警察官僚の支配下に置かれるようになった。

シビリアン・コントロール(文民統制)のもとで、俗に背広組と呼ばれる内局が実権を握って、部隊の移動や実弾の支給など、たとえ緊急時でも現場の判断だけではできないようになったのである。

もちろん、自衛隊のルーツは「警察予備隊」なので、別に戦前への反省から警察の優位が保たれていたわけではない。また、有事即応という観点から疑問視する声も多い。

とは言え、警察官僚による支配が「軍部の暴走」に対する抑止力として機能していることもまた事実で、このことは、1970(昭和45)年に、作家の三島由紀夫が自衛隊にクーデターを呼びかけた後に割腹自殺した、世に言う三島事件を検証する過程で明らかになった。

▲写真 昭和45年年11月25日、三島事件当日に市ヶ谷駐屯地にて演説を行う三島由紀夫氏 出典:ANP scans 8ANP 222

ただ、警察にとっての自衛隊が、表現はよくないが一種の監視対象で、信頼関係が築けていないということは、やはり問題だろう。オウム真理教が危険視されはじめた当初、山梨県上九一色村の、第7サティアンと呼ばれた「宗教施設」で、実は化学兵器の開発が進められているのではないか、という疑惑が浮上した。その際に、警察上層部が自衛隊の化学防護隊に密かに協力を仰いだと言われている。現地に赴いた自衛隊員は、問題の施設を一別するなり、ダクトの数と規模だけで、「これは研究所なんかじゃない。れっきとした工場だ」と断じたという。

▲写真 平成25年7月10日 化学防護衣で駐屯地内を練り歩く自衛隊の新隊員 出典:Album 教育訓練等

一連のオウム事件から20年以上が経ち、幹部のほぼ全員に死刑が執行された今、こんなことを言っても詮ないことかも知れぬが、もっと早く、国民に広く情報が開示される形でこうした査察が行われていたならば、地下鉄サリン事件(1995年3月20日)などは未然に防げたかも知れない。少なくとも、松本サリン事件(1984年6月27日)に際して、警察庁から自衛隊に、「長野県警の見立ては、第一通報者の会社員が農薬の調合を間違えたか、故意に有毒ガスを発生させたせいだということだが、本当にそんなことが起こりえるのか」との照会がなされていれば、無実の、それも被害者が長期間拘留されるという事態はあり得なかった。

憲法改正論議の前に、日本の治安を守り、国民の生命財産を守るとは具体的にどのようなことなのか、政治家、そして警察・自衛隊の関係者には、ここでもう一度、真剣に考え、議論してもらいたい。

その1の続き)

トップ画像:1933年11月18日、ゴーストップ事件の和解のため、歩兵第8連隊にて握手する増田曽根崎警察署長(右)と松田四郎歩兵第8連隊長 出典 『昭和 二万日の全記録 第3巻』講談社、1989年、p.181


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

copyright2014-"ABE,Inc. 2014 All rights reserved.No reproduction or republication without written permission."