英国もソ連も追い出した(中)「列強の墓場」アフガニスタン その2
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
【まとめ】
・1979年暮れ、ソ連軍はアフガニスタンに「援助進駐」を開始。
・オサマ・ビン・ラディンはムジャヒディーンを支援する活動に乗り出した。
・やがて、アラブ人ムジャヒディーン一隊を率いて、ソ連軍相手に戦闘を繰り返すようになった。
シルベスター・スタローン主演の『ランボー』という映画は、1982年に公開されるや好評を博し、シリーズ化されたが、「回を重ねるごとにひどくなった」などと揶揄する声がよく聞かれる。とりわけ1988年公開の『ランボー3 怒りのアフガン』は、もはや冷笑の対象にすらなった。
第一作は、ヴェトナム帰還兵である主人公ランボーが、戦友を訪ねて行った先の、田舎町の警察に「浮浪罪」で拘束されるなど、理不尽な扱いを受けたことから、ついには怒りを爆発させて……という話だったのだが、2作目では、そのヴェトナムに潜入して捕虜となっている米兵を救出し、前述した第3作目でついに、侵攻してきたソ連軍に抵抗するアフガニスタンの人々に助太刀する。ご丁寧なことには、エンドロールで
「この映画をアフガンの勇者たちに捧げる」
とまで大書された。現実には、この映画が公開される直前に、ソ連軍はアフガニスタンから撤退すると発表したのだが。
まず、時計の針を70年ほど戻さなくてはならない。
前回も簡単に触れたように、1917年のロシア革命によって成立したソ連邦は、当初
「社会主義国家建設には取り組むが<革命の輸出>は目指さない」
といった外交姿勢を強調していた。さもないと当時の日本を含めた資本主義の列強が、革命直後の混乱に乗じて攻め込んでくるのでは……という危機感によるものであったことは、今や広く知られている。
そして第二次世界大戦後、ヨーロッパの軍事大国、具体的にはナポレオンのフランスやヒトラーのドイツによって国土を蹂躙された経験を踏まえ、俗に「第二国境線理論」と呼ばれる国防戦略を採用する。東ドイツやポーランドはじめ。ヨーロッパ大陸東部をすべて社会主義政権のもとに置き、ソ連邦本国が戦場となる事態をできるだけ避ける、という国防戦略で。東アジアにおける北朝鮮も、元をただせば同様の経緯で建国された。
そして、中央アジアにおいてもイスラム教徒が多く暮らす諸国を併合した上、同地域における交通の要衝であるアフガニスタンに、またしても関心を寄せるようになったと考えられている。
そのアフガニスタンでは1973年、当時の国王ザーヒル・シャーが病気療養のためイタリアに出向いていた隙に、旧王族のムハンマド・ダーウードらによるクーデターが勃発。王政が廃止され「アフガニスタン共和国」樹立が宣言された。
▲写真 ザヒール・シャー国王(1973年7月18日) 出典:Photo by Keystone/Getty Images
このクーデターこそが、今日に至る動乱の元凶であると考える人も多く、近現代史のサイトなどでは彼を指して、
「アフガニスタンを地獄に突き落とした男」
などと呼ぶ向きも見受けられる。
ともあれそのダーウード政権も、近代化の名のもとにイスラム主義者たちに対して強硬な態度をとり、その結果、多くのイスラム主義者たちがパキスタンに逃れた。彼らが後に、パキスタンにおいてタリバンが台頭する土壌を形成したわけだが、当時そのような展開を予測できた人はいなかった。
そのような中、1978年4月には親ソ派の人民民主党によるクーデターが起き、国名も「アフガニスタン民主共和国」と改められた。当初からソ連邦が裏で糸を引いたに違いない、と見られていたが、詳細な経緯までは現在も謎のままである。
▲写真 ムハンマド・ダウード大統領(1978年4月28日) 出典:Photo by Keystone/Getty Images
ひとつ確かなのは、ソ連邦は前述のように、周辺諸国を「友好化」することが自国の安全保障に直結するのだと信じていた。さらに、1975年4月にサイゴンが陥落し、インドシナ戦争が共産主義者側の勝利に終わると、
「人民戦争は帝国主義戦争に対して必ず勝利する」
といった、いかにも共産党らしい総括が行われ、この政策に拍車がかかったことだ。
一方では、アフガニスタンやイラン(1979年にイスラム革命が成功)におけるイスラム主義の台頭は、国内に多くのイスラム人口を抱えるソ連邦にとって遠からず脅威になると考えられたに違いない。早いうちに叩いておきたかったのだろう。
かくして1979年暮れ、ソ連軍はアフガニスタンに「援助進駐」を開始した。もちろんこれは、当時のかの国らしいタテマエで、西側諸国は「侵略行為」であるとして一斉に非難の声を上げ、翌1980年のモスクワ五輪ボイコットにまで至ったのである。
それ以上に強く反発したのは、言うまでもなくイスラム圏の人々で、1988年にアルカイダを旗揚げすることになる、オサマ・ビンラディンも当初は一人のムジャヒディン(戦士)として、ソ連軍と戦うべくアフガニスタンに赴いた。
自称1957年生まれ。自称とは何事か、と思われた向きもあろうが、これは致し方ないのだ。彼の出生地はサウジアラビアだが、わが国のような整備された戸籍制度など存在しない。さらには1994年に同国の国籍を剥奪されているため、パスポートや出生証明書を確認する手立てもない。学歴も同様で、経営学の学位を持っているとも、大学中退であるとも言われる。
▲写真 オサマ・ビン・ラディン(1998年05月26日) 出典:Photo by CNN via Getty Images
レバノンに留学までしたのに、そこで西洋風の若者文化(ディスコなど)を知り、遊びほうけて学業などそっちのけだった、などともっぱら言われているが、こんな話をあまり書き立てると。危険なことになるかも知れない。いずれにせよ、20代の後半になって、ようやくイスラム神学を真剣に学ぶようになったと考えられる。
父親はイエメンからの移民で、一介のレンガ積み職人(資料によってはタイル職人とも。おそらく建築現場の仕事を転々としていたのだろう)から身を起こして、サウジアラビア屈指のゼネコンを作り上げ、大富豪になった立志伝中の人物である。
彼のオサマ(ウサマとも表記される)という名は、アラビア語で獅子の意味。アラビア語圏ではポピュラーな男児名であるらしい。
イスラムでは第4夫人まで認めているが、彼の父親はなんと累計22人の女性と結婚・離婚を繰り返し、54人の子供をもうけた。オサマは10番目の妻との間に生まれた、17番目の子供である。
ともあれ彼は、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻したとの報に接した直後に、巨額の資金と多数の重機などをパキスタンに持ち込み、ソ連軍に抵抗するムジャヒディーン(戦士)たちを支援する活動に乗り出した。資金については多くを語るまでもないが、重機は軍事的に大きな意味を持つ。これがあったおかげで、ムジャヒディーンたちはアフガニスタンとパキスタンにまたがる山岳地帯に多数の洞窟陣地を短期間で築くことが可能となり、圧倒的な機甲戦力を持つソ連軍に対して、しぶとく抵抗するようになったのである。
さらには、彼自身アラブ人ムジャヒディーンの一隊を率いて、ソ連軍相手の戦闘を繰り返すようになる。とりわけ1987年4月のジャジの戦闘では、ソ連軍を敗走させたとさかんに吹聴して、かつアラブ諸国の一部マスメディアがこれを鵜呑みにして書き立てたため、一躍英雄視されるようになった。
実際の戦闘の結果はと言えば、ソ連軍の死者が2名にとどまったのに対し、ムジャヒディーンの側は50名とも120名とも言われる死傷者を出したのである。
記録によれば、ソ連軍の車陣(戦車や装甲車を円形に配置した、即席の要塞)に、突撃銃と手榴弾だけのムジャヒディーンが攻撃を仕掛けたそうなので、まず当然の結果である。帝政ロシアの時代から、かの国の軍隊の野戦築城の巧みさ、防御戦闘に際して見せるしぶとさには定評があって、日露戦争でも第二次世界大戦の独ソ戦でも、それは充分に発揮された。
言うなれば、イスラム圏の一部メディアを巻き込んだ「大本営発表」だったわけだが、なんとこれが功を奏して、ビンラディンの名声は不動のものとなる。
そのような彼が、どうして米国を敵視するようになり、ついには同時多発テロを引き起こすに至るのか。これについては稿を改めよう。
次回はタリバンにスポットを当てる。
(その1)
トップ写真:アフガニスタンの兵士達 アフガニスタン、クナル州、アスマール(1980年1月1日) 出典:Photo by Pascal Manoukian/Sygma/Sygma via Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。