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.社会  投稿日:2021/9/16

英軍もソ連軍も追い出した(上)「列強の墓場」アフガニスタン その1


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・大英帝国が3度も攻め植民地化出来なかった国、アフガニスタン

・1919年8月、アフガニスタンは外交権を英国から奪還し独立した。

・第2次世界大戦の戦勝国となったソ連は、アフガニスタンに「援助進駐」。

 

敗戦後の日本において最初の長期政権を担い(首相在任1948年10月~1954年12月)、サンフランシスコ講和条約を締結して独立を回復させた吉田茂首相は、よく知られる通り外交官出身の政治家で、複数の文献に次のような発言が記録されている。

「およそ世界史の中で、アングロサクソンを敵に回して生き残った国はない」

実際に彼は、英米を敵に回す世界戦略(具体的には日独伊三国同盟)には強硬に反対する姿勢を取っており、戦争末期には秘密裏に終戦工作を企んだとして、憲兵隊に拘束されたことまである。余談ながら憲兵隊は彼らのことを吉田反戦グループ、略して「ヨハンセン」と呼んでいたそうだ。

首相の座についてから、独立の回復、さらには戦後の焼け跡から復興への道筋をつけていった吉田の功績それ自体は、私自身も評価するにやぶさかではない。

ただ、彼は19世紀から20世紀初頭ににかけて、大英帝国が三度も攻めかかったのに、ついに植民地化出来なかった国があることについては(まさか知らないはずはないと思うが)、どのように考えていたのであろうか。

その国とは、他でもないアフガニスタンである。

19世紀から20世紀初頭にかけて、この国は大英帝国軍(厳密には同国東インド会社が擁していた軍隊との協同作戦。以下、英軍で統一)と三度にわたって戦い、、最終的に独立を勝ち取っている。

少し順を追って見てゆかねばならないが、戦争のそもそもの原因は、インド亜大陸を植民地支配していた英国と、不凍港を求めて中央アジアへの南下政策をとっていたロシア帝国との角逐=世にいうグレートゲームの、言うなればとばっちりであった。

国土の大半が冬季は雪に閉ざされるロシアにとって、不凍港は喉から手が出るほど欲しい。東アジアにおいても、旧満州の旅順港、さらには朝鮮半島に食指を動かし、これが日露戦争を引き起こしたことはよく知られる。

英国はこの動きにも敏感で、1902年に日英同盟を締結し、また日本に当時最新鋭の軍艦(戦艦「三笠」など)を売却したり、ロシア艦隊がスエズ運河を通過することを禁じるなど、非白人国家を助けつつロシアの軍事的冒険を牽制していた。

中央アジアにおいても、インド亜大陸西部=現在のパキスタンと境界を接するアフガニスタンの地は、決してロシアの支配下に入ってはならなかった。理由は簡単で、インド亜大陸から、中東にまたがる英軍のプレゼンスを脅かす戦略など、容認できるはずがないではないか。

当時のアラブ諸国は大部分がオスマン帝国の支配下におかれていたが、ロシアと英国はいずれも食指を動かしていた。つまりは二重三重に両者の利害が対立していたのである。

直接のきっかけは、アフガニスタンにおいて権力闘争が起きたことであった。

もともと英国がインド亜大陸の植民地化に成功したのは、部族社会特有の入り組んだ力関係を利用してきたからだとされている。端的に述べると、まずAの部族を叩くためにBの部族を諜略して味方につけ、次はCを取り込んでBを叩く……ということを繰り返してきたのだ。

かくして1839年、英軍はアフガニスタンの地に侵攻し、国土の多くを支配下に納めたのだが、アフガニスタン人の抵抗も激しく、最終的には撤退を余儀なくされてしまう。その際にカンダマク付近の峠道で追撃を受け、兵士と補給部隊の荷役らおよそ1万6000名もの犠牲者を出した。古来、退却戦が最も困難なのは軍事の常識だとされるが、この問題は後でもう一度見る。

こうして1842年まで戦われたのが第一次アングロ・アフガン戦争と呼ばれる。

第二次は1878年、またしても英軍による侵攻でその幕が切って落とされたが、背景は第一次と比べてもう少し複雑なものがあった。これに先立つ1876年、ロシアがコーカンド・ハン国(現在のウズベキスタンの大部分を占めていた)を併合し、中央アジアでの覇権を露骨に狙い始めたのである。

その後の展開は第一次と似たり寄ったりで、またしても英軍がアフガニスタンに侵攻し、今度は現在の首都であるカブールはじめ、多くの要衝を占領することに成功した。最終的に植民地化まではできなかったが、外交権を英国にゆだねるとの条約に調印させ、保護国とした上で撤退することとなった。

▲絵 1879年の第二次アングロアフガン戦争中のカブールの英国居住地への攻撃 出典:Photo by Culture Club/Getty Images/Hulton Archive

またしても余談にわたるが、あのシャーロック・ホームズの助手であるワトソン博士も、軍医としてこの第二次アングロ・アフガン戦争に従軍したとの設定になっている。

もうひとつ、この戦争がもたらした影響についても見ておかなければならない。

1880年に英軍が撤退したこともあって、英領インドとアフガニスタンとの境界がひとまず確定したのだが、現在もアフガニスタン人の多数派を形成するパシュトゥーン人の生活圏が、当人たちの意思とかかわりなく東西に分割されてしまったのだ。実はこれが、後にパキスタン領内でタリバンが生み出される下地となるのだが、当時は、そのようなことを予測した人は誰一人いなかった。

そして1919年5月、今度はアフガニスタンの軍隊が、英領インドに襲いかかるという形で、第三次アングロ・アフガン戦争が勃発する。

アフガニスタンにとっては外交権を奪い返して完全な独立を果たす、という大義名分があったわけだが、現在のパキスタンに暮らすパシュトゥーン人の協力が期待したほどには得られず、また、緒戦において英軍が、第一次世界大戦で初めて会得した、空爆という手段で応戦したことにより、アフガニスタン兵に大いなる精神的ダメージを与えたとされる。

しかし、第一次世界大戦で国力を大いに消耗していた英国も、簡単にアフガニスタンの軍勢を駆逐することはできず、たちまち戦線が膠着してしまう。

すると一転、アフガニスタン側は講和を持ちかけ、前述のように戦争を継続する意思を失っていた英国もこれに応じた。同年8月、アフガニスタンは外交権を英国から奪還し、れっきとした独立国になったのである。

意外に思われるかも知れないが、ここには、1917年に起きたロシア社会主義革命も影響している。

誕生間もないソ連邦=共産党政権は、資本主義国家による包囲の中で、どのようにして国を守って行けるか、という命題に向き合わざるを得なかった。実際に、日本を含む複数の国から反革命戦争を仕掛けられてもいた(日本軍は1918年、シベリアに出兵)。

このため、帝政ロシアの侵略主義を強く非難し、軍事的冒険を伴う「革命の輸出」はしない、などとアピールしていた。これを英国の立場から見れば「ロシアの南下政策の脅威」がひとまず消滅したことになり、言い換えれば、是が非でもアフガニスタンを制圧しておかねばならない理由もなくなってしまったのだ。

しかしそのソ連邦も、第二次世界大戦の戦勝国となるや、各地で革命の輸出に熱心となり、アフガニスタンにおいても社旗主義政権を後押しして、ついには「援助進駐」に至る。

ここから「無神論の大悪魔」を相手取ったイスラム勢力のジハード(聖戦)が始まるのだが、その話は、次回。

トップ画像:第一次アングロアフガン戦争(1841年11月2日:カブールでのアレクサンダーバーンズ卿の暗殺の模様) 出典:Hulton Archive / GettyImages




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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