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.国際  投稿日:2021/9/22

英国もソ連も追い出した(下) 「列強の墓場」アフガニスタン その3


【まとめ】

・ソ連撤退後の1990年代前半、各地の軍閥による勢力争いが激化。

・神学生で構成されるタリバンが軍閥を制圧、市民の支持を獲得。

・隣国パキスタン情報部からの資金支援もタリバン勢力拡大の一因に。

 サウジアラビア出身のオサマ・ビンラディンが、アフガニスタンにおいてソ連軍との戦いに参加し、1988年にアルカイダを旗揚げしたところまで、前回述べた。

 日本ではアルカイダと表記されることが多いが、本当はアル・カイーダと区切るのが原音に近いとも考えられる。アルはアラビア語の定冠詞で。アル・カイーダで基地とか拠点といった意味あいになる。

 ただし本シリーズでは、日本語メディアの大勢に倣って、アルカイダと区切らず表記しようと思う。アラビア語に関しては初心者以下の私が中途半端に表記にこだわったりすると、かえって誤った情報を広めてしまう恐れがある、という理由がひとつ。

 そもそもどの言語でも、発音などは地域や時代によって変わってくるものだから、という理由もある。ましてや、まるで言語体系が異なる日本語での表記では、原音に忠実か否かなど、どのみち程度問題だろう。

 話を戻して、彼らはビンラディンを頂点としたピラミッド型の単一組織ではなく、各国において思想を共有するイスラム過激派が、それぞれアルカイダを名乗ってゆるやかに連帯している、という組織形態であるようだ。

 さて、今回スポットを当てるのはタリバンである。

 こちらもまた名称の話から始めなければならない。タリバンもしくはターリバーンと表記されるが、これは「学生」を意味するアラビア語のタリブに、パシュトゥーン語の複数形が語尾に加わったものだ

 ソ連軍が侵攻した直後に、パシュトゥーン人の多くが隣国パキスタンに逃れたが、もともと第一回で述べたように、彼らの生活圏は両国にまたがっていた。と言うよりも、インド亜大陸に覇権を確立していた英国の勝手な判断で、生活圏が国境で隔てられてしまったのである。

 そして、かの地のイスラム神学校においては、教義をかなり極端に解釈した宗教教育が行われた。こうして世に言うイスラム原理主義に染まった神学生たちが、自らタリバンと名乗ったのである。

 日本のメディアでは、タリバンとは「学生たち」の意味であると、通り一遍の解説で済まされることが多いが、色々と調べてみると、いささかニュアンスが異なるらしい。

 と言うのは、彼らなりの解釈では、イスラム神学やイスラム法を学ぶ者だけが「真のタリバン」で、学生一般とは区別される存在とされるからだ。まあエリート主義と言えばそれまでだが、日本語では「修行僧」「求道者」と訳することも可能だろう。ただ、冒頭で述べたことと同じく、パシュトゥーン語など解さない私としては、この議論にこれ以上立ち入るのは控えさせていただきたい。

写真)イスラム教の神学校「マドラサ」で学ぶ神学生たち(2006年、パキスタン

出典)John Moore/Getty Images

 ひとつだけ付け加えるなら、かつて共産主義を信奉する学生が、自分たちを「前衛」と称していたことを連想すれば、そう大きな間違いにはならないだろう。

 ともあれタリバンがアフガニスタン領内において公然と活動を開始したのは、1994年以降のこととされているが、厳密には「人々から認知される存在になったのは」ということのようだ。

 1989年にソ連軍が撤退し、ビンラディンらアラブ人ムジャヒディーンの多くも帰国したが、その後のアフガニスタンは無政府状態に陥ってしまった。

 もともとこの国は、パシュトゥーン人の他にもタジク人など複数の民族から成っていたわけだが、それぞれのムジャヒディーンが軍閥と化していったのである。

 詳しく語るまでもなく、ソ連軍と戦っていた当時は協力関係にあったものが、その「共通の敵」がいなくなった途端に……という経緯だ。

 彼ら軍閥は、支配地域において住民を圧迫する一方、縄張り争いで死傷者続出という有様。当然ながら一般市民の間からは、あらためて国を統一してくれる勢力を待ち望む気風が育っていった。

 とりわけ北西部に盤踞していたタジク人軍閥の行状はひどいもので、住民やパキスタン商人から物資を強奪したり、幹部の性欲を満たすために少年少女を誘拐する行為が日常茶飯事であったという。

 そのような中1994年のある日、パシュトゥーン人が多く暮らす地域から、数人の少女がタジク人軍閥によって誘拐される事件が起きた。

そこへ乗り込んできたタリバンが、住民による抗議活動を組織し、その結果、少女たちは無事に家族のもとへ戻ることができたのである。あとは読者ご賢察の通りで、パシュトゥーン人の目にタリバンは「正義の味方」と映るようになった。

写真)タリバン支配下の街の様子(1996年、カンダハール)

出典) David Turnley/Corbis/VCG via Getty Images

 前にアルカイダについて、ピラミッド型の単一組織ではない、と述べたが、タリバンの場合は、最高評議会の下に軍事・財政・宗教などを管轄する「各省庁」が置かれつつ、地域ごとに軍事組織やイスラム法廷が設けられ、それぞれ責任者が任命されている。国家権力を掌握できる体制を整えているのだ。また、今ではパシュトゥーン人だけではなくタジク人なども糾合している。

 もうひとつ、当初20名程の神学生が立ち上げたとされるタリバンが、急速に勢力を拡大することができたのは、パキスタン情報部からの資金援助の賜物だと、衆目が一致している。

 強大なインドとの緊張関係が続いているパキスタンにとっては、後背地に当たるアフガニスタンは是が非でも安定させておきたい。とは言え、パキスタン領内にも相当な人口を擁するパシュトゥーン人が自分たちの国家を持ちたい、と言い出したなら(現実にそうした運動も展開されていた)、自国までが不安定になってしまう。

 ならばイスラム原理主義の方がずっとましだ、という論理であったようだが、このように周辺諸国の勝手な思惑で、女性が教育を受けることを禁じるなど、国際社会の理解など到底得られない政権が出現したのだから、かの国の一般市民はたまったものではない。

写真)アフガニスタンとの国境付近をパトロールするパキスタン兵(2007年2月17日)

出典)John Moore/Getty Images

 その後、アルカイダが起こしたテロをきっかけに、2002年に米軍がアフガニスタンに侵攻し、タリバン政権は崩壊するのだが、各地でしぶとく抵抗を続け、ついに米国までも撤退させて政権を奪還したのは、よく知られる通りである。この話は稿を改めてあらためて考察したい。

 ここで端的に言えることは、いつ戦闘に巻き込まれるか分からない状態が続くよりは、ひとまず外国の軍隊が撤退し、平和が回復するほうがずっとよい、と考える人が大勢いたということだろう。

 国際社会の関心は、再び1990年代のタリバン政権当時のような人権抑圧が始まるのではないか、という点に集まるようになったが、これはどうやら杞憂で終わりそうにない。

 新政権樹立が宣言されてから1カ月ほど経っただけの現時点で、断定的なことまでは言えないのだが、この間にも、女子学生に顔を覆い隠すブルカの着用を強要したり、新政権には「勧善懲悪省」が新設されるとの発表までなされた。

 かの国の市民の生活と人権を守るため、日本としてはなにができるのか、今後も注視し、考え続ける必要があるだろう。

その1その2

トップ写真)アフガニスタン国内でタリバンと対立するヘクマティアル派との戦闘に向かうタリバン兵

出典)Robert Nickelsberg/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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