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.経済  投稿日:2021/10/30

生産性向上、その先が問題 賃金上昇にどう結び付けるか


神津多可思(公益社団法人 日本証券アナリスト協会専務理事)

「神津多可思の金融経済を読む」

【まとめ】

・横ばい状態の平均賃金を上昇させるためには、労働生産性向上とともに労働分配率の向上が必要。

・経営者が挑戦しやすい社会・儲かるビジネスを創出し、雇用を増やすことで平均賃金は上がる。

・「成長と分配」により所得が増えたとしても、安定した老後が確約されない限り個人消費は増えない。

 

このところ、国際比較をすると日本の平均賃金はもう長い間横這い状態だとの報道をしばしば目にする。そうした状況を打破するためには、生産性の向上が必要ということになるが、生産性の向上だけでは必ずしも直ちに賃金の上昇が実現する訳ではない。

労働生産性は改善してきた

生産性を測る指標には幾つかあるが、働いている者一人が一時間当たりにどれくらいの付加価値を生み出しているかという労働生産性は、実は傾向として改善を続けている。もちろん景気による振れはあるし、かつてよりその改善テンポは鈍化している。しかし、その労働生産性は日本で長いこと低下傾向にある訳ではない。では何故それが賃金の上昇に結び付かないのか。

それには幾つか理由がある。まず、高齢化が進展しているので、一人当たりの「一人」の意味が変化している。平均的な一人の年齢は徐々に上がっていて、それに伴って賃金は低下する。働いている人の中で、例えば60歳を越えた人の割合が増えると、平均賃金が低下するという話だ。第二に、雇用形態において非正規のウェイトが増えている。単位時間当たりの賃金は、平均的には正規雇用の方が非正規雇用より高い。デジタル化の進展によって、かつては正規雇用でなくてはできなかった仕事でも、今では非正規雇用で対応できるようになっている。そうしたことも非正規雇用の増加の背景にある。以上のようなことから、一人の働く者の賃金は平均でみると上がらなくなっている。

労働生産性が改善しているのに賃金が増えていないということは、すなわち日本国内での経済活動の成果の分け前において、結果的に労働の取り分が減っていることを意味する。つまり、労働分配率が低下してきたということだ。何故、そのようなことになっているのか。

多くの人は、強硬に賃上げを求めて職を失ってしまっては元も子もないと思うだろう。また、高い賃金を払わせ続けて自分の会社が倒産してしまっても困るだろう。そういうムードの中で、この労働の取り分の割合が全体として減る状況になっている。

ではさらに、何故そういう辛い状況に陥っているのだろうか。それは要するに、日本経済全体としてみて、企業があまり儲からないビジネスの分野に追い込まれているからだ。他の先進国にはもっと儲かっている企業がたくさんあるし、人出不足の企業も多い。そういう企業の数が日本では少ないから、結果的に全体でみた時の労働の取り分が減ってしまうのである。

もっとも、海外でも苦境に陥っている産業はある。日本より高い成長を遂げてきた米国でも、五大湖沿岸の製造業が主力の地域では、企業が衰退し、そこで働く労働者の賃金は上がっていない。その結果、例えばIT産業に勤めている労働者と、そうした伝統的な製造業の労働者との間には、大きな所得格差が生じている。それが米国社会の分断の背景にもなっている。儲かる企業と儲からない企業があるのは、先進国経済に共通のことなのだ。

どうしたら賃金が上がるか

こうした状況において、平均的な一人当たりの賃金が持続的に上昇していくためにはどうしたら良いか。ひとつは、儲かる企業を増やし、そこでの雇用を広げることだ。これは言うは易し、行うは難しだ。政府は、企業はもっとリスクを取って投資を行えと言うが、儲かる投資があれば言われなくても投資しているだろう。何が儲かるか分からないから、安全策をとる企業が多いのである。文字通り不確実性の時代なのだ

とは言え、立ち止まっていてはじり貧なことも事実だ。前に進むためには、会社経営における試行錯誤がもっと受け入れられなくてはならない。うまくいくこともあるし、いかないこともある。株主、金融機関、従業員、取引先、それら企業の関係者が、経営者による挑戦をポジティブに受け止めないと、なかなかリスク・テイクは広がらない。もちろん、そのためには経営者が、経営の方針を本音で丁寧にかつ説得的に説明する必要がある。

そうした過程を通じて、儲かるビジネスの発見が進み、そこでの雇用者が増えていけば、平均的な賃金も上がる。だが、それだけでは米国社会の分断と同じことになる。ここで出てくるのが分配の話だ。経済全体の生産活動の成果をどう分かち合うか。古来から、それは人間の社会において大きな問題であり続けてきた。成長と分配は常に対の問題だ。成長だけに焦点を置いても社会は不安定化するが、分配だけを重視しても経済の活力は増さない。

所得を安心して使えることも大事

さらに、所得が増えたとしても、それが消費に結び付かないと、所得増がさらなる経済成長に繋がるという良い循環は生まれない。使われない所得はつまり貯蓄であり、それは企業の資金調達の原資になる。しかし、企業がなかなか儲かるビジネス・チャンスをみつけることができない状況で、いくら資金が調達できても、それでは経済は元気にならない。今日の超低金利はそうした中で起こっている現象だ。

日本において、どうしたらもっと安心して得られた所得を使えるようになるか。それには、長寿化が進む中で穏やかに人生を終えるためにどこまで貯えがあれば良いか分からないという状況が改善されなければならない。国の年金制度は、現役世代が引退した後も本当に持つのか。老後の安心・安全のためにはどれだけの準備をしたら良いのか。そうした点について多くの国民の得心がいけば、増えた所得が使われて、それがまた日本経済を活性化させ、さらなる所得の増加を生むことになる。

元気な日本経済を取り戻す道のりは長そうだ。しかし、どうしたら良いのか全く分からない訳でもない。遥かな道も一歩から。そして、世界を見渡せば、もっと険しい道しか残されていない国もたくさんある。それらの国々に比べれば恵まれた出発点にいることに感謝して、なすべきことをひとつずつやっていく以外にない。それが新政権にも求められることだ。

トップ写真:イメージ 出典:Paper boat Creative/Gettys images




この記事を書いた人
神津多可思日本証券アナリスト協会認定アナリスト

東京大学経済学部卒業。埼玉大学大学院博士課程後期修了、博士(経済学)。日本証券アナリスト協会認定アナリスト


1980年、日本銀行入行。営業局市場課長、調査統計局経済調査課長、考査局考査課長、金融融機構局審議役(国際関係)、バーゼル銀行監督委員会メンバー等を経て、2020年、リコー経済社会研究所主席研究員、2016年、(株)リコー執行役員、リコー経済社会研究所所長、2020年、同フェロー、リスクマネジメント・内部統制・法務担当、リコー経済社会研究所所長、2021年、公益社団法人日本証券アナリスト協会専務理事、現在に至る。


関西大学ソシオネットワーク戦略研究機構非常勤研究員、オーストラリア国立大学豪日研究センター研究員ソシオフューチャー株式会社社外取締役、トランス・パシフィック・グループ株式会社顧問。主な著書、「『デフレ論』の誤謬」(2018年)、「日本経済 成長志向の誤謬」(2022年)、いずれも日本経済新聞出版社。

神津多可思

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