2%インフレ目標実現後の日本経済のイメージ
神津多可思(公益社団法人 日本証券アナリスト協会専務理事)
「神津多可思の金融経済を読む」
【まとめ】
・具体的なイメージが必ずしも共有されていないだけに、良い「2%」インフレに至る日本経済のこれから道筋が説得的に描けることが大事。
・重要な前提は現在の「悪い」インフレが一時的で、期間が我慢できる範囲かどうかが問題になる。
・臨機応変な金融政策をいつも考えているというメッセージが、マーケット、国民の安心に繋がるという面もあるのでは。
2%インフレはグローバル・スタンダードとずっと言われてきた。しかし、日本の社会には、2%インフレ下で安定した経済状況が長く続いた経験がある訳ではない。今、現実に2%台のインフレを経験してみると、それがコスト・プッシュによるものであることもあって、決して多くの人は居心地良いものとは感じていないのではないか。これからさらにインフレ率が高まる可能性も否定はできない。2%の「良い」インフレが実現するまで、2%以上の「悪い」インフレを我慢することになるのだろうか。これからのインフレがどうなるかについては、丁寧な検証が必要だ。
■ 2%台のインフレ
2%台のインフレがかくもするすると現実のものとなり、まだしばらく続きそうだというのは、自分にとってもかなりの驚きだ。昨年の今頃、こうした状況を見通していた人はどれほどいただろうか。7月の全国の消費者物価前年比は、総合で+2.6%の上昇。8月の東京都区部の消費者物価に至っては、総合で+2.9%の上昇だ。2%インフレではなく、もはやほぼ3%インフレだ。
生鮮食品とエネルギーを除くと、その前年比は1%以上低くなる。しかし、毎日を暮らす中にあっては、そうした不可避の支出を除いたインフレ率を議論すること自体ピンとこないところがある。多くの人が、今のコスト・プッシュのインフレを何とかしてほしいと次第に思い始めているのではないだろうか。
他方、日本銀行にしてみれば、2%のインフレ目標が今のようなかたちで実現しても、それは決して本意ではない。日本経済をより元気にするためのデフレからの脱却であり、そのための2%のインフレ目標だったのだから、困る人が多いのでは駄目だ。
日本銀行も言うように、他の主要中央銀行のインフレ目標の目線は2%であり、それはグローバル・スタンダードではある。他方で、日本の社会には、2%程度のインフレの下で、経済が長く安定的に推移したという経験はない。少なくとも、現在、国内の経済活動を担う生産年齢人口(15~64歳)に属する人々にとっては、「良い」2%インフレというのがどのような経済状況か、その具体的イメージを描くことは難しいのではないか。
当面の実質労働生産性の伸びを年率1%とすると、それにインフレ率2%を加えた年率3%の賃金上昇があれば、労働分配率は低下しない。そうした状況が望ましいかどうかについては、色々と議論があるだろうが、ここでは「良い」2%インフレのイメージをつかむため、とりあえずはそう設定しよう。そうすると、現在日本銀行は、平均的に3%の賃金上昇が実現するまで「悪い」2%インフレ(今となっては2%超のインフレ)を享受し、粘り強く経済の刺激を続けていくと言っていることになる。
ところで、これは日本銀行の分析にもあるが、日本経済におけるインフレ期待は適合的に形成されている面が強く、したがって価格設定にそのインフレ期待が織り込まれるのに一定の時間がかかる。さらに、2%の「良い」インフレの経済が定常状態として広範に認識されなければ、その下で企業が積極的に設備や研究開発、人材の投資に踏み切ることも難しいだろう。
経済全体で3%の賃金上昇が実現し、現在よりもう少し低い2%インフレが続く状態で、私達はより元気に前向きに経済活動ができるだろうか。その下で、日本経済はこれまでより高い経済成長ができるだろうか。現在、そのイメージは広く共有されているだろうか。
このように、インフレ目標で本当に実現したい日本経済の活性化には一定の時間が必要のようだ。グローバル・スタンダードとして受け入れ、それが実現した時のイメージが必ずしも共有されていない2%のインフレ目標だけに、良い「2%」インフレに至る日本経済のこれから道筋が説得的に描けることが大事だ。
■ 現在のインフレは本当に一時的か
「良い」2%インフレの実現まで私達が待てるとすると、その重要な前提は現在の「悪い」インフレが一時的だということだ。もし、このインフレが予想以上に長引いて、さらに3%台にもなってしまえば、より多くの国民が今の「悪い」インフレの抑制を将来の「良い」2%インフレの実現以上に求めるかもしれない。
現在のインフレは確かに一時的な要因によってもたらされている面はあるが、経済のグローバル化の変質、日本も含めた先進国の人口動態によって構造的にもたらされている面もあるかもしれない。この点は丁寧な検証が必要だ。さらに、2%の「良い」インフレが実現するまで一定の時間がかかるとすれば、その間、これまで経験のないインフレに耐え、具体的なイメージが必ずしも共有されていないその向こう側の良い世界を待つことになる。それもなかなか大変そうだ。
昨年の夏の段階では、米国の中央銀行である連邦準備制度(FRB)も、当時のインフレ率の上昇は一時的と言っていた。その後、海外要因によるインフレ圧力の高まりが、国内の労働需給のタイト化の下で賃金形成にも反映され、あれよあれよという間に米国のインフレはホーム・メード化した。現時点でFRBは、景気後退のリスクがあっても、内生的なインフレ圧力が十分低下するまで、金融引き締めの過程を緩めることはないと明確に表明している。
▲写真 黒田東彦・日銀総裁 出典:Photo by Yamaguchi Haruyoshi/Corbis via Getty Images
日本と米国では経済の状況が違う。同じことがすぐに日本で起きると心配するのもどうかと思う。しかし、人々のインフレに対する感覚的な耐性もまた日本と米国は違うだろう。日本銀行法には「通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とする」(第2条)とある。これは、「悪い」2%超インフレであっても、国民のウェルビーイングが損なわれるなら、日本銀行はアクションをとるという風にも読める。
もしアクションをとるべきでないなら、今の「悪い」インフレを我慢することの方が長い目でみてウェルビーイングが改善するという説得が重要になる。少なくとも、ここでの例で言えば、3%の賃金上昇、2%のインフレという経済状況に向け、どういう道のりをどれくらいの時間をかけて日本経済が辿っていくのかというビジョンについては納得したい。
また、どう判断するにせよ、まずは現在のインフレが続く期間が我慢できる範囲かどうかが問題になる。その際、米国で起きたことは日本でも起きる可能性があるという用心も大事だ。そして、国民がこれまで長いこと経験したことのないインフレをどこまで受け入れることができるかということも重要だ。確かに、円安だからすぐに政策変更という話にはならない。しかし、金融政策の真骨頂である臨機応変な対応をいつも考えているというメッセージが、マーケットのそして国民の安心に繋がるという面もあるのではないだろうか。
トップ写真:スーパーマーケット(イメージ) 出典:Photo by Etsuo Hara/Getty Images
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この記事を書いた人
神津多可思日本証券アナリスト協会認定アナリスト
東京大学経済学部卒業。埼玉大学大学院博士課程後期修了、博士(経済学)。日本証券アナリスト協会認定アナリスト
1980年、日本銀行入行。営業局市場課長、調査統計局経済調査課長、考査局考査課長、金融融機構局審議役(国際関係)、バーゼル銀行監督委員会メンバー等を経て、2020年、リコー経済社会研究所主席研究員、2016年、(株)リコー執行役員、リコー経済社会研究所所長、2020年、同フェロー、リスクマネジメント・内部統制・法務担当、リコー経済社会研究所所長、2021年、公益社団法人日本証券アナリスト協会専務理事、現在に至る。
関西大学ソシオネットワーク戦略研究機構非常勤研究員、オーストラリア国立大学豪日研究センター研究員。ソシオフューチャー株式会社社外取締役、トランス・パシフィック・グループ株式会社顧問。主な著書、「『デフレ論』の誤謬」(2018年)、「日本経済 成長志向の誤謬」(2022年)、いずれも日本経済新聞出版社。