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.社会  投稿日:2021/12/17

時代劇の灯は消えるのか(上)年末年始の風物詩について その1


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・年末の風物詩として親しまれ、『忠臣蔵』と呼称される「赤穂事件」。

・儒教に造詣が深く、「仁政」「文治」へと舵切りを行った5代将軍・徳川綱吉。

・武士世界にも格差社会が存在し、今で言う「上級国民」を批判する風潮が存在した。

 

大河ドラマの放送が始まると、正月も明けて、いよいよ新年のスタートだ、という気分になる。『忠臣蔵』のドラマが放送されると、今年も終わりだな、という気分になる。そして、『水戸黄門』を見ると、まだやってるのか、という気分になる。……単なる判じ物だが、昭和世代にとって、時代劇がどのようなポジションを占めていたか、なかなかに言い得て妙ではないかと、私には思えるのだ。

しかし、それも今や過ぎ去った時代の話で、1969年以来、延々と続いた『水戸黄門』も2011年暮れ、ついに打ち切られた。

大河ドラマの話は稿をあらためさせていただくとして、師走に『忠臣蔵』(実際のタイトルは様々だが)が放送されなくなってから、やはり10年近く経つのではあるまいか。

どうして『忠臣蔵』が年末の風物詩にまでなっていたのかと言うと、クライマックスの吉良邸討ち入りが師走の話であった、という理由もあるが、ドラマを作る側からすれば、オールスター・キャストが組みやすかったからだろう。つまりは、数字(視聴率)が期待できる。

ところが、バブル崩壊後の長い不況が続く中で、これがネックになってしまった。オールスター・キャストを組めばギャラの総額もかさむ。さらには「松の廊下」から「吉良邸討ち入り」まで、一場面のために大がかりなセットを組まなければならない。

そもそも、いや、今更ながらではあるが『忠臣蔵』という呼称自体、江戸時代に書かれた芝居のタイトルから来たもので、歴史事典やしかるべき文献には「赤穂事件」としか書かれていない。芝居に描かれた数々のエピソードも、ほとんど後付けのフィクションである。

私自身、この連載で『忠臣蔵』を取り上げたことがあるが、要はテロリズムに過ぎないと断罪した。今もその考えは変わらないし、あらためてその議論を繰り返すこともしないが、事件の背景としてあった、徳川五代将軍綱吉の治世について、今回は少し見ておきたい。

徳川綱吉の名は、しばしば「生類憐れみの令」とセットのように語られる。なんとなく、

人間よりも犬を大事にした

というイメージをお持ちの方もおられるのではないだろうか。それでは、バカ殿を通り越して本物のバカだろう。

この法令がいつ、どのような理由で発布されたかは、実は今に至るも「諸説あり」の状態である。単に「お犬様をいじめるな」という単一の法律ではなく、捨て子の保護とか、病気になった牛馬もみだりに殺処分してはならないとか、もろもろの諸法令の総称なのだ。

徳川綱吉という人は、儒教に造詣が深く、武力と諜略で天下統一をなしとげた徳川幕府を「仁政」「文治」へと作り替えようとしていた。力こそ正義だという「武断」の「時代に終止符を打とうとした、とも言える。

それともうひとつ、江戸のみならず諸藩の城下町において、野良犬はもともと大事にされていた。不思議に思われるかも知れないが、多くの記録が存在する。

 どういうことかと言うと、ゴミ処理のシステムなどまるで未発達だった当時は、残飯などの生ゴミがすぐに腐敗して、感染症の原因となる。ワクチンなどなかった当時、感染症の脅威は今とは比べものにならなかった。

したがって残飯をあさる野良犬は、環境衛生上、有益な存在と考えられていたのである。そもそも、野良犬と言っても、当時、ペットを飼える人の数など限られていたのであって、町内というコミュニティの中で人間と犬が共存しているのは、ごく当たり前の光景だった。

しかしその一方では、犬でもって刀の試し切りをするような手合いがいたことも、また事実である。竹刀や木刀でもって、道場で稽古するだけでは実戦の勘が身につかない、というのだろう。

それが「忠臣蔵」とどういう関係があるのか、と思われたかも知れないが、煎じ詰めて述べると、野良犬を斬っても罰せられるという「太平の世」は、武士階級の一部にとっては相当なストレスになっていたはずで、そこから討ち入りという派手な騒ぎを起こした連中を、「義士」「武士の鑑」と賞賛する空気が生じたのだと考えられる。

それと、もうひとつ。

この騒動はもともと、江戸城内で播州赤穂藩主浅野内匠頭が、吉良上野介を斬殺しようとした刃傷沙汰が発端で、これまたドラマなどでは、吉良が一方的に悪く描かれることが多い。

朝廷からの勅使を接待する役目を浅野内匠頭が命じられ、そうした儀式に通じた高家の筆頭である吉良上野介が指南役となったのだが、付け届けが少なかったことに腹を立てて色々と意地悪をしたため、ついには……というのが「お約束」だ。

これも史実は大分異なるので、上野介が内匠頭を責めた具体的な経緯とは、勅使を迎える手配にしては、浅野側の手配りがあまりにケチくさいので、

「そんなに金がないなら、接待役など最初から引き受けるな」

ということであったというのが、歴史家の間ではそれこそ定説になっている。百歩譲って、ケチだ貧乏だと言われて喜ぶ人はいないと理解できても、勅使到着寸前の殿中において目上の高齢者に切りつけるなど、言語道断。当時の法理に照らせば、浅野内匠頭は切腹、播州赤穂藩はお家断絶というのは、至極まっとうな判断に過ぎない。

ところがこれも、批判の対象となった。

「神君(徳川家康)以来の公法は、喧嘩両成敗であったはず」

というわけだ。ケンカではなく一方的な刃傷沙汰であったのだが、これも「仁政」「文治」の思わぬ副産物と考えれば、意外と分かりやすい話になってくる。

端的に言えば、ここ数年、交通事故や新型コロナ禍による医療崩壊に際して起きた「上級国民」バッシングと同じ構図なのだ。「上級国民」は悪質な事故を起こしても逮捕されず、病気になれば優先的に入院できるという、例のやつである。

江戸幕府が、多くの大名を取り潰し、その結果、浪人と呼ばれる失業者が大量に生まれた。

貧困に追いやられた彼らにとっては、今風に言えば「幕府の高官」であるところの吉良上野介が、刃傷に際してなにひとつ反撃しなかったのは「武士にあるまじき振る舞い」で、にもかかわらず浅野内匠頭だけが切腹を命じられたのは、これまた今風に言えば、武士の世界も格差社会だったから、というように受け取られたのである。

この結果、本来は「負け組の暴発」に過ぎないテロ事件が、主君の無念を晴らすべく身を捨てての仇討ち=吉良邸討ち入りという美談に作り替えられてしまったのである。

したがって私は、忠臣蔵、もとい「赤穂事件」には同調も同情もできないのだが、単に時代劇の題材として考えれば、こんな面白い話はまずないだろうと思う。前にも触れたが、登場人物が多士済々で最後は派手なチャンバラが見られるからだ。

史実との整合性を云々するのは、こと時代劇に関しては野暮でしかない、という考えもある。そんなことを言い出したなら、水戸黄門こと徳川光圀など、諸国漫遊どころか本当は生涯を通じて、水戸と江戸以外で暮らした経験が絶無に近い。資料で確認できるのは、若い頃に鎌倉を訪ねたことくらいである。

次回はこのドラマを中心に、別の角度から時代劇の面白さを考える。

(その2に続く)

トップ写真:1962年の映画「忠臣蔵」の1シーン 吉良上野介(初代松本白鸚)に斬りかかる浅野内匠頭(加山雄三)  出典:Photo by Toho/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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