時代劇の灯は消えるのか(中)年末年始の風物詩について その2
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・『水戸黄門』の主人公のモデル、水戸光圀も徳川綱吉と同世代。
・将軍の意向に逆らったり文化的な功績が大きかったりしたため「名君」とされる。
・しかし財政は楽ではなかったのでドラマのような「庶民ファースト」の君主ではなかった。
困ったことになった笑。
今回は『水戸黄門』を中心に時代劇の面白さを考える、と予告しておいたのだが、実は私は、あのドラマをさほど熱心に見たことがない。
TBS系列にて、まずは1964年(第1回東京五輪の年!)から65年にかけて、その後、多くの読者の記憶にあると思われるシリーズが1969年から2011年まで同じくTBS系列で、さらに第2弾と称するシリーズが、BS・TBSにおいて2019年に放送されている。
再放送も頻繁だったので、嫌でも目に入ることはある、というのが正直なところだったが、毎週決まった時間にTVの前に座って見る、ということはなかった。
理由は、設定について行けなかったから。
あのドラマの大ファンだという方がおられたら申し訳ないが、少し考えてみていただきたい。
「先の副将軍」などという地位にあった人が、越後のちりめん問屋の隠居になりすまし、ボディーガード付きで全国を旅して回っている。そのような「スーパー上級国民」が、葵のご紋などという軍事独裁政権の権威を振りかざして、たかだか田舎の小悪党を土下座させただけで、どうして日本中が拍手喝采となるのか。
クライマックス(?)の乱闘シーンも、私に言わせれば噴飯物だ。もちろん主人公側が圧倒的に強いのだが、適当なところで黄門様が、
「助さん、格さん、もういいでしょう」
と一声発するや、二人が
「静まれ、静まれぃ!」
と大音声をあげる。そして、この紋所が……となるわけだが、その間に、入り乱れて戦っていたはずの敵(悪代官の手下とか)たちが、いつの間にか画面前方に整列して「土下座の準備」に入るのを見たならば、笑うしかない。あれを一種のフォーメーション・ダンスと見ればAKBより見事かも知れない。
ちなみに前回取り上げた赤穂事件(忠臣蔵)の浪士たちも、黄門様のモデルとなった二代目水戸藩主・徳川光圀も、同じ時代を生きていた。五代将軍・徳川綱吉の治世である。
繰り返しになるが、この将軍の代名詞とも言える「生類憐れみの令」は、今の日本人が考えるような悪政ではなかったものの、当時の日本人にとっては、武士は武士なりに、庶民は庶民なりにストレスを感じる面はあった。
だからこそ反体制テロと言うべき討ち入りが、太平の世に武士らしい振る舞い、などと賞賛されたことは前回述べたとおりだが、徳川光圀という人も、禁令を無視して肉食を楽しんだとされている。
将軍綱吉に犬の毛皮を献上した、という逸話もあるが、これはおそらく後世の創作だと考えられている。ただ、そうした逸話が広まること自体、綱吉の治世に対する当てこすりであったと考えて、まず間違いはないだろう。
もともと光圀という人は新奇なことが好きで、日本で初めてラーメンを食べたという逸話まであるほどだ。最近の研究では、ラーメンはもっと古くから一部の寺院で食されていた、とする説が有力になっているとも聞くが、いずれにせよ、ある意味で非常に息苦しい封建社会が確立して行く時代にあって、将軍の意向に逆らって生きる人たちが脚光を浴びたことそれ自体は、さほど不思議なことではないと私は考える。
とは言え、徳川光圀の場合、家康直系の御三家(紀州・尾張・水戸。光圀は家康の孫)の当主であったから、そのような振る舞いが許されたのだというところまで考え及べば、また別の視点も生まれてくるのではあるまいか。
以下はまあ、余談と思っていただいて結構だが、ドラマでは水戸黄門の肩書きは「先の副将軍」とされている。徳川幕府に副将軍という役職はないが、御三家の中で最も江戸に近い水戸藩は、参勤交代を免除されていた。そのため光圀は後半生をもっぱら江戸で過ごし、幕政にも影響力を持つと見なされたことから、俗に「天下の副将軍」と呼ばれたらしい。
実際に将軍を補佐して幕政を動かしていたのは、老中・奉行といった地位にある人たちで、今で言う高級官僚である。
また、江戸時代の身分制度について「士農工商」と学校で習った人も多いと思うが、これも厳密に言うと事実とは異なる。
武士の世の中に根付いていた価値観に照らせば、公家を別格として、人間は「武士とそれ以外」とに区分される。
武士身分以外の人は、江戸や大坂など都市部で暮らしていれば「町人」、地方で暮らしていれば厳密な職業区分などなく(つまり漁業や林業で生活していようとも)一様に「百姓」と呼ばれていた。
最近では、百姓という表現は農家に対する蔑視であるとして、マスメディアなどでは避ける傾向があるのだが、本来は「天下の人民」といったほどの意味であったのだ。姓という漢は現代日本語では、もっぱら「せい」と読んで名字と同義語になっているが、古い日本語では「かばね」と読んで地位や職業を意味していた。百の姓、すなわち様々な職業の人たち、と述べれば、私の言わんとするところがお分かりいただけるだろう。
もともと都市部の商工業者は農村から出てくる若者の労働力を当てにしていたし、そうした働き手の中から後継者を選ぶ商人や職人はいくらでもいた。
話を戻して、徳川光圀が名君とされているのは、藩校を建てて学問を大いに奨励し、わけても『大日本史』の編纂など、文化的な功績が大きかったからである。他にも、幕府が規制していた大型船を建造して蝦夷地(北海道)に探検隊を送りこんだり、考古学という概念自体が存在しなかった時代に、古代の暮らしぶりに興味を持って古墳の発掘調査を命じたりした。
ただ問題は、そのための財源で、もともと御三家という格の割に、領地は28万石しかなく、財政は楽ではなかった。そこへ文化事業に巨額の金をつぎ込んだものだから、領民は重税に苦しめられ、逃亡や一家離散が相次いだという。名君の定義は様々ではあろうが、少なくともドラマのような「庶民ファースト」の君主ではなかった。
一方、吉良上野介はと言えば、『忠臣蔵』における腐敗した権力の象徴のような描かれ方とは裏腹に、領民の生活向上に心を砕く名君であった。
もちろん、ドラマである以上、史実を様々に解釈し脚色するのは当然のことだ。要は、史実とフィクションを混同しないよう、知識を仕込みながら時代劇を楽しむべきなのだ。
(その1。その3につづく)
トップ写真:徳川時代に日本を支配したすべての将軍を描いた3枚組の作品 出典:Photo by Asian Art & Archeology, Inc./CORBIS/Corbis via Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。