時代劇の灯は消えるのか(下)年末年始の風物詩について その3
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・中学生の頃夢中になったドラマ「木枯らし紋次郎」。反体制であったり社会のはみ出し者であったり、そういう人たちに感情移入した。
・時代劇は、登場人物の容姿が美化されたり、揃いの衣装を着せられていたりするが、あくまでもフィクションでありそれ込みで楽しむものである。
・スポットライトの当たらなかった人々に焦点を当てた物語を作るなら時代劇の灯は消えないのではないか。
最初に「時代劇にはまった」記憶は、1968年に放送されたNHK大河ドラマ『龍馬がゆく』である。原作=司馬遼太郎の小説は、高校生の時に読んだ。
大河ドラマの歴史の中にあっては、視聴率は下から数えた方が早いそうだが、小学生だった私は、とにかく熱中して見ていた。
その結果というか副作用と言うか、成長しても時折、
「どうなっても知らんぜよ」
などと土佐弁(もどき)が口をついて出るようになってしまったのである。土佐の高知になど、言ったことさえなかったのに。恐るべし、ドラマの影響力。
中学生になると『木枯らし紋次郎』が大好きになった。1972年の元旦からフジテレビ系列で放送されたもので、こちらは22時30分からという時間帯にもかかわらず、記録的な視聴率をたたき出した。
私も熱心に見ていたが、さすがに中学生ともなると、主人公を真似て、長い楊枝をくわえてそのへんをほっつき歩くようなことはしなかった笑。ただ、
「あっしには関わりのないこってござんす」
という台詞にはしびれた。昭和の中学生だから、そのまま口真似をするようなことはなかったが、時代劇の定番とも言うべき勧善懲悪とは一線を画した、中村敦夫が演じた主人公のニヒルな物言いは心底かっこよく思えたのだ。
成人してからも再放送を複数回見て、今やエンディングのナレーションまでほとんど暗記している。
木枯し紋次郎。上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれた。10歳の時に故郷(くに)を捨て、その後一家は離散したと伝えられる。天涯孤独の彼が、どのようにして無宿渡世の道に入ったのかは、定かではない。
……たしか、こうだ。そんないい加減な、などと言わないでいただきたい。「ほとんど」暗記していると述べたではないか。
与太話はさておき、これはドラマで仕込んだ知識ではないが、江戸時代には人別帳というものがあった。戸籍制度の原型と思えばよいが、意外に整備されたものであったらしい。
無宿人というのは、この人別帳に名前が載らない人間のことで、今風に言えば住所不定・無職なので、当時も「役立たざる者」との蔑称があった。これが訛って「ヤクザ(者)」という呼称が生まれたと言われるが、異説もある。
彼らの収入源は博打が主であるが、色々とよからぬこともしていた。どこぞの親分の家に泊めてもらうと、一宿一飯の恩義という名目で、賭場の用心棒やケンカの助っ人を頼まれる。紋次郎はこうした「渡世の義理」を嫌い、凄腕の渡世人として有名ながら、誰の世話にもならず旅を続けている。
再放送で見て、なるほどな、と思えることもあった。紋次郎は博打で生計を立てているわけだが、勝つと、小銭だけ巾着にしまって、小判などは、
「これは、若い衆さんたちに」
と言って胴元に差し出してしまう。おかげで勝ち逃げも見逃してもらえるらしく、これはもう、渡世術というより一種の護身術だろう。
テーマソングもよかった。『誰かが風の中で』という曲で、歌ったのは上条恒彦。
「どこかで 誰かが きっと待っていてくれる」
という歌い出しと、他人と関わるのを拒否して孤独な放浪を続ける主人公の姿はミスマッチだが、案外彼の心の奥底には、こんな思いもあるのかな、と思えたりした。
「人生楽ありゃ苦もあるさ」
などという、変に教訓じみた『水戸黄門』のテーマソングより、はるかに耳に心地よい。
とどのつまり私は、時代劇に関しても、反体制であったり社会のはみ出し者であったり、そういう人たちに感情移入してしまうようなところがあるのだろう。
今年は、あの中村吉右衛門氏が亡くなった(11月28日没。享年77)ので、かつて主演したドラマが多数配信されている。私は『武蔵坊弁慶』が大好きだった。とりわけ勧進帳のシーンは、圧巻という表現でも追いつかない、神がかっていたと思う。
またも余談にわたるが、弁慶が主君と仰いだ源義経は、時代劇では例外なく色白の美少年として描かれている。これも世に言う判官贔屓の一環なのかも知れないが、資料によれば色白ではあっても「猿まなこ、出っ歯」とのことで、どうも残念なヴィジュアルだった可能性が高い。
新撰組の沖田総司もまた然りで、結核で早世したこともあってか、ドラマでは決まって、美人薄命の剣士版とでもいった描かれ方をしている。彼の場合も、同時代を生きた人たちが書き残したところによれば、
「よく笑う、気さくで面白い人」
であったとされているが、美青年だとは誰一人として書きとどめていない。
ついでに述べると、吉良邸に討ち入った赤穂浪士も、幕末の動乱期を駆け抜けた新撰組も、本当は揃いの衣装をあつらえたりしてはいなかった。
野暮なことを言ってくれるな、という声が聞こえてきそうだ。実は私もそう思う。
時代劇はあくまでも劇すなわちフィクションなのであるから、見た人が楽しめてなんぼの世界だろう。『ベルサイユのばら』(池田理代子・著 中央公論コミックス他)の世界観が美男美女揃いでなければ成立しがたいように、新撰組は浅葱色の地に「誠」の一文字を染め抜いた揃いの羽織を着て、幕末の町を闊歩しなければならないし、赤穂浪士は襟に名札を縫い付けた装束で討ち入らねばならない。
そのことを踏まえた上で、最後にもうひとつだけ赤穂浪士に関する興味深い話があるので、お伝えしたい。
立川談志師匠が、生前こんなことを語ったことがあるそうだ。
「赤穂四十七士がもてはやされているけど、当時の赤穂には300人近く侍がいたんだ。で、討ち入りに参加して最後は見事に腹を切ったのが47人ということは、残りのおよそ250人は逃げちゃったことになる」
この話のオチ、もとい結論は、
「落語というのは、その逃げちゃった250人にスポットを当てる芸なんだよ」
ということのようだ。
このような卓越した発想が、落語界のみならず時代劇の制作に携わる人たちにも共有されて行くならば、その灯はまだまだ消えることはないと思うのだが、どうだろうか。
トップ写真:義経一代記五条の橋の図(義経と弁慶の五条の橋での戦い)1839年頃 個人蔵 出典: Photo by Fine Art Images/Heritage Images/Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。