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.国際  投稿日:2022/3/27

日本外交の診断 兼原元国家安全保障局次長と語る その3 日本の対中ODAがモンスターを育てたのか


古森義久(ジャーナリスト・麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・兼原氏「中国人はまだ心のどこかで「散々ひどい目に遭ってきた。やっと中国は強くなったのだから、もう何をしたっていい」と思っている」。

・古森氏「日本の対中ODAは40年間で総額3兆6000億円に達した。中国の軍事力の増強にも直接といえる寄与をした」。

・兼原氏「中国が成長を遂げる前に友好関係を築いて反日の芽を摘もうという計算もあった」。

 

古森 中国側が日本をどうみているか、私には中国での忘れ難い体験が多数あります。なかでも印象が強かったのは、北京の駐在を終えて、ワシントンに戻るという直前に送別の意味で食事に招いてくれた中国側のある人の言葉でした。

 中国駐在中にかなり親しくなったその中国官僚に「これから日中関係はどうしたらいいですかね」と聞いたのです。すると彼は平気な顔をして「それは一つの国になることですよ」と言い放った。「制度も歴史も文化も、言葉だって違う国ですよ」と返すと、「大きな国の言葉を使うのが普通じゃないですか」と涼しい顔で言ったのです。中国とは、そういう国であることを日本の政官財の人たちは改めて認識すべきです。

兼原 日本は幸い植民地になることを免(まぬが)れ、太平洋戦争後、アジアの国々が自力で独立を果たし、同時に欧米で人種差別がなくなっていくところを見てきました。だから、今の国際社会は良い国際社会だと思っていますが、中国人はそうではない。

 中国人は19九世紀末から20世紀初頭の欧米列強の世界から戦争を吹っ掛けられ、領土を削られ、帝都北京を蹂躙(じゅうりん)され、軍閥割拠や国共内戦に苦しめられ、最後に日本と戦争し、やっとの思いで成し遂げた中華人民共和国成立後も、毛沢東の大躍進や文化大革命といった過酷な体験をしています。古森さんがおっしゃるように、中国人はまだ心のどこかで「散々ひどい目に遭ってきた。やっと中国は強くなったのだから、もう何をしたっていい」と思っているのです。

古森 言わば怨念(おんねん)や復讐心ですね。昨2021年3月に開かれた米中外相会談では、ウイグルでの人権問題を追及したアメリカ側に対し、「アメリカにこそ根深い人種差別がある」と反論しています。

兼原 文化大革命によって、中国では10年間(1966~77年)にわたって大学が閉鎖されました。習近平国家主席の世代は、本来なら高等教育を受ける年齢にもかかわらず、その機会を奪われたのです。10年間となると、小学校卒業から大学を卒業するまでの間。その大事なときに「毛沢東万歳!」を叫び続けるだけ。世の中を見る視野が狭くなるのは当然のことです。

古森 文化大革命を経験した中国人は、歪(ゆが)んだ人生観や社会観を持って成長したともいえそうですね。

兼原 皮肉なことに理系の世界では〝空白の10年〟は決してマイナスに働いていないのです。上につっかえている頭の古い高齢の科学者がいませんから、最先端の技術を持った若い科学者や技術者がどんどん這(は)い上がるチャンスがある。それが中国の強みにつながっています。

 しかし文系の世界では、文化大革命に翻弄(ほんろう)された視野が狭い世代が共産党幹部に居座るようになってしまった。習氏は、日本で学んだ蔣介石(しょうかいせき)のように、国際的視野が広い指導者ではありません。温家宝(おんかほう)前首相のように、伝統的な中国宮廷官僚然とした深い教養があるわけでもない。共青団出身のエリートである李克強首相は、本音では「習さん、もっと広い視野持ってよ……」と思っているでしょう(笑)。

古森 20年ほど前にも、当時外務省の局長クラスだった王毅氏と話したことがありますが、彼も文化大革命の影響でほとんど勉強してこなかった世代です。しかし彼は、そのことを誇りにするようにもみえました。

兼原 文革世代は「強い者は何したっていい」という歪んだ考えを持っていると思います。彼らは、今後10年間は中国政治の実権を握っている。この10年が日本にとって正念場です。

▲写真 1949年に中華人民共和国が建国されてから70周年を祝うパレード (2019年10月1日、中国・北京・天安門広場) 出典:Photo by Kevin Frayer/Getty Images

古森 歴史を振り返れば、中国という反日モンスターをつくりあげたのは、戦後日本の外交政策です。

 まず中国が貧しい1970年代末から、日本は巨額の経済援助をODA(政府開発援助)という名目で与え続けた。日本からの対中ODAは40年間に総額3兆6000億円にも達しました。中国の軍事力の増強にも直接といえる寄与をしています。

 天安門事件の後、孤立した中国を西側に引き戻そうと一番努力したのは日本でした。天安門事件における自国民虐殺で制裁を受けた中国政府は、日本の天皇の来訪を突破口にして制裁打破へと動くことに成功したのです。そのことは、外務大臣(当時)だった銭其琛(せんきしん)が回顧録で自慢げに明言しています。

兼原 私は中国に駐在した経験はありませんが、出張で訪れた80年代の中国は、毛沢東が死に、文化大革命が終わっていまだ10年くらいで本当に貧しかった。日本は、戦争に対する贖罪意識から対中援助に動いた面もありますが、当時はなによりソ連が敵だった。中国は敵の敵で味方でした。また戦後、吉田茂が最初は北京との国交正常化を考えたように、中国が成長を遂げる前に友好関係を築いて反日の芽を摘もうという計算もあったと思います。

 さらに、衣食足りて礼節を知る、ではありませんが、中国が経済発展をすれば日本のように成熟した国家になるという希望的観測もありました。だからこそ日本は、中国に数兆円規模の経済支援も惜しまず、WTO(世界貿易機関)への加盟に大きく貢献したのです。

古森 ODAだけではなく、旧大蔵省と輸出入銀行から「資源ローン」などという名称で総額3兆3000億円を援助しています。ODA総額を合わせると、じつに中国への援助総額は7兆円を超える。普通では考えられない額ですよ。

兼原 日本は、大躍進と文化大革命後で経済開発に大きく後れを取った中国を「かわいそう」と上から目線で眺めているところがありました。ドイツのロシアに対する目線と似ています。その中国が巨大化して日本を見下すなどと考えもしなかった。

(その4につづく。その1その2) 

**この対談は月刊雑誌WILLの2022年4月号からの転載です。

トップ写真:1950年代の毛沢東初代国家主席 出典:Photo by adoc-photos/Corbis via Getty Images




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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