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.社会  投稿日:2022/4/12

「石原慎太郎さんとの私的な思い出 3」 続:身捨つるほどの祖国はありや 16


牛島信(弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・石原慎太郎氏が田中角栄氏について書いた『天才』が大ベストセラーとなった。

・団塊世代とは異なって、石原氏は祖国に対して誇りを持っている。

・本書の中で石原氏は田中角栄氏の名を借りて自身の心の内を表現していた。

 

 

石原さんが田中角栄について書いた『天才(幻冬舎 2016年刊)は大ベストセラーとなった。

石原さんと田中角栄について話したことはあった。しかし、石原さんから田中角栄について否定的な話を聞いた記憶はない。たとえば、石原さんがゴルフ場でコースから上がってビールを飲んでいたときのことだったか、通りがかった田中角栄が石原さんに話しかけてきたと聞いた。一度ゆっくり話をしたいと田中角栄が言ったというようなことだった。いまとなると、実は私ははっきりとおぼえていない。少なくとも、嫌な思い出ではなく、良い思い出として私に話してくれたことは確かだ。

ここで、石原さんという方は、『君国売り給うことなかれ』(月刊文藝春秋1974年、昭和49年9月号)という一編をものして、一連の田中角栄の金権批判を最初に始めた方だと言う事実を、ここでもう一度確認しておきたい気がする。立花隆氏や児玉隆孝也氏らの批判よりも前に、石原さんが矢を放ったことは、どういうわけかあまり注目されていないからだ。

もう一度という理由は、以前、「田中角栄×石原慎太郎に見る時代の刻印」と題して一文をものしたことがあったからである。(BUSENESS LAW JOURNAL誌 2016年5月号 『身捨つるほどの祖国はありや』(幻冬舎 2020年刊)228頁以下)

結局、石原さんは田中角栄が好きだったのだろうと改めて思う。いや、それ以上だったのではないか。私が石原さんと話したのは1998年よりも後のことだから、田中角栄が死んで5年以上は経っていた計算になる。

角栄論をしたわけではない。なん人かの政治家について石原さんが問わず語りに話し始め、その一人として出て来た気がする。もう一人、総理大臣だった故人について引用するのがはばかられる表現で、「だって、ね、そうだろう?」と同意を求められて困った記憶はある。

石原さんは、二人で話しているときにはその場にいない人について話すことに遠慮がなかった。

別の著名な、これも故人の作家について、「もう書くタネが尽きているんだ。オレに向かって、石原さん、政治家やっているんだからいろいろな経験をしているんだろう。わけてくれよって頼むんだ。まったく哀れなもんだよ」と評していたこともあった。

死の直前まで執筆をしていた作家にとって、ネタ切れの作家など想像もつかなかったのだろう。

『天才』の帯広告には、「反田中の急先鋒だった石原が、今なぜ『田中角栄』に惹かれるのか。」とある。まことにそのとおりである。

一読、私は、「ああ、石原さんは自分のことを書いているな」と感じた。

「この今はしきりに彼等に会いたいと思う。思うがとても出来はしない。いま俺の周りには正規の家族以外に誰もいはしない。昔の子分たちも秘書もいはしない。誰もいない。この俺以外には誰もだ。」

という一節である。(194頁)

彼等とは、田中角栄が「二号」との間にもうけた男の子二人と当の「二号」を指す。もちろん脳梗塞で倒れたあとの話である。

私は、大ベストセラーになったこの本のその部分を読みながら、石原さんが自分自身について語っている気がしてならなかった。胸を突かれる思いがした、と言ってもいい。石原さんにも婚姻外の子どもがいると知っていたからである。しかもその名は裕太というではないか。裕次郎と慎太郎を合わせた名前である。石原さんが名づけたのかと思うと、なんとも感慨がある。

石原さんは子どもを認知し20歳まで養育費を毎月20万円送り続けていたという。それはそうだろう。婚姻外であればあるほど、その子どもはいとしい、かわいい。肉親の情である。そのうえ、同じあの石原慎太郎の子どもでありながら、選挙に出ることもなく、テレビに出ることもなく、芸術家として取り上げられることもなかったその男の子が、実の父親としてふびんでならなかったろう。それだけに、いっそうかわいいと思わないではいられなかったはずである。

しかし、天下の石原慎太郎はそれをあからさまに言うことはできない。

「しきりに彼等に会いたいと思う。思うがとても出来はしない。」と、田中角栄の名を借りて、石原慎太郎の心のうちを表現するしかない。小説家の特権である。

石原さんが53歳のときの子どもだという。

そういえば、石原さんが政治の世界では印象的な出会いはなかったと言っているのも、この本のなかだったと、今回改めて読み返して、思い出した。

「自ら選んで参加し、長い年月を費やした政治の世界での他者との印象的な出会いはさして思いあたりはしない。」(216頁)と書いていたのだ。「人間の人生を形づくるものは何といっても他者との出会いに他ならないと思う。」とまで人生について述べている、その直後の部分での表白である。そうなのか、そうだったのか、と私は石原さんらしいと思った。

写真) ロッキード社から200万ドルの賄賂を受け取った罪で4年の懲役を言い渡され、東京地方裁判所を去る田中角栄首相(当時)

出典)Photo by Bettmann/gettyimages 1983/10/12  

石原さんが『火の島』(幻冬舎2 008年刊)を書いている途中、見城さんに頼まれて会社という社会制度の仕組みについて石原さんに何回か説明したことがある。この世には男と女しかいないんだよ、と教えてくれた方への、法人制度の説明である。

なんど説明しても、石原さんは会社について、自然人つまり個人とは別の社会的人格である法人制度、殊にその親子関係、経営と所有などについていま一つ解しかねている様子だった。これほどの頭の切れ味の持ち主が、と不思議な気がした。しまいに私は、「ゲラを見せてくださいよ。そこに手を入れてお返ししますから、それを石原さんの文章にされたらいい」と、大変失礼な、乱暴なことまで言った。

その折りのやりとりでだったか、石原さんの人柄をしめすとっておきの素晴らしい話がある。

私が石原さんのご自宅に電話をかけたときのことである。

「この電話、リビングでとったから、いまから書斎に移動します。あなたとはゆっくりと話したいので。」

と言われて、

「書斎に行くのに少し時間がかかるので、こちらからかけ直します」とおっしゃった。ごく自然な口調だった。

私が、「このままお待ちしますよ」と言っても、「いや、少し時間がかかるから、こちらからかけます」と繰り返し言われた。

石原慎太郎という方は、そういう、とても礼儀正しく、丁寧な、几帳面な、優しい、情理をわきまえられた方だった。

石原邸が、「とても広い家で」「父の書斎、アトリエ、書庫、サロンなど、ほとんどは父だけの為の空間が占めてい」たということは、最近、ご子息の石原延啓氏の『父は最後まで「我」を貫いた』という文章を拝読して、初めて知ったことである。(月刊文藝春秋2022年4月号103頁)

そういえば、石原さんは私の事務所に電話をかけてこられるときも、必ず自分でかけてこられる。さほどの社会的地位にない知り合いでも、なかには秘書にまず電話させて私を電話口に呼び出したうえで、秘書に本人とかわります、と言わせる人間もいる。

しかし、天下の石原慎太郎はそうではなかった。

「石原です」と、いつもの柔らかく包みこむような声が受話器から響く。少しも偉ぶったところなどない。年下の友人に話している感覚である。

事務所の秘書のなかには、「大変です!大統領から電話です」と大声を出すものもいたから、固定電話に自分で電話してこられたのだろう。私の秘書がとって、それから私に回したのだったのだろう。

最近、平川祐弘先生の書かれた『昭和の大戦とあの東京裁判』(河出書房新社)を読んでいて、石原さんについて、はたと思い当たることがあった。

「私の少年時代は、日本人が劣等感を抱かずに胸を張っていた時代である。毎夏、房総半島へ避暑に行くと 、帝国海軍の軍艦が何隻も沖に見えた。日本は世界の三大海軍国の一つであった。誇り高い少年として育ったことが、私の人格形成と関係しているように思えてならない。」(143頁)

平川氏は1931年の生まれ、そして石原さんは1932年の生まれである。

なるほど、と私は悟るところがあったのだ。

石原さんは、敗戦のすぐ後、相模湾を一望できる丘に登って、海を埋め尽くしてしまうほどにたくさんのアメリカ軍の艦船が、湾に浮いているのを見たと書いている。中学1年生のときのことであろう。日本について誇りを持った少年であったのだ。

そうでなければ、東京裁判を観に行って下駄ばきで階段を歩いていたことを咎められたことを書きとめはしない。逗子の街中で、通りすがりのアメリカ兵にアイスキャンディーで顔をはたかれたことに触れたりもしない。

既に、その年齢で、石原さんのアイデンティティの一部としての、誇り高い祖国としての日本が確立していたのである。

私は、このことに気づいてから、たった3年遅れで生まれた大江健三郎氏について、そういうことだったのかとつくづく考えた。それは、先年私が出した『身捨つるほどの祖国はありや』の元となった歌をつくった、同じ1935年生まれの寺山修司についてもあてはまる。

つまり、10歳は自分と祖国の関係についてアイデンティティが確立するには幼過ぎたのだ。だから、大江氏は日本について石原さんのような誇りをもつことがなかった。『遅れてきた青年』と考えざるを得なかったのである。

寺山修司は?

身捨つるほどの祖国はないと、たぶん、みなし子のように感じたのではないか。

10歳と12歳。

自分のことを思い返してみる。

私は10歳まで東京にいた。豊島区の大成小学校というところに通っていた。小学校5年生になるときに広島に転居した。父親の転勤があったからである。一家6人の、国鉄の貨車を使っての引っ越しだった。引っ越し前に家に何人もの男が入ってきて、金づちと釘を使って木の枠をつくり、箱に組み上げて、そこに箪笥や冷蔵庫を入れるのだ。それが近くの駅に運ばれ真っ黒なワムと呼ばれた型式の貨車に載せられた。コンテナのない時代である。

私が受験を意識し始めたのは、広島に移ってからのことだった。東京では友だちとの野球に興じていた子どもが、引っ越しを境に塾に通い始める。目的は一つ。東大に合格する生徒の数の多い中高一貫の学校に入ることである。

祖国は?

私について、中学校1年生、12歳から33歳までの歴史意識を調べ、博士論文に仕上げた方がいる。藤井千之助という名の、私の中学高校での社会科と歴史の先生である。後に広島大学の教授になられた。その先生が出された『歴史意識の理論的・実証的研究』という本(風間書房 昭和60年刊)に、私とわかる少年が青年になる過程でどんな考えを抱き、変化していったのかが記録されているのだ。

驚くべき偶然ではある。私は藤井千之助先生がそんな大それた野心的な計画のもとに調査をしているのだとは思いもしなかったのである。

中学を通じて、私は「社会科の成績が特に優秀であった」そうだが、国家については中学1年生のときから否定的だった。(237頁)おそらく家では朝日新聞を読み、非武装中立論者であった父親と話すことが多かったからだろう。

つまり、少年だった私は祖国について誇りをこめたアイデンティティを持つことはなかったのである。1949年に生まれた少年は、1932年に生まれた少年と異なり、1935年に生まれた少年たちと同じく否定的な国家感を抱くようになっていたのだろう。たぶん、団塊の世代の多くに共通していると感じている。

ちなみに、高校時代に私は加藤周一の『羊の歌』が、「直接にではなく、間接的にであるとは思われるが、重要な影響を与えていると思う。」と記してもいる。(306頁)大江健三郎についても肯定的な評価をしている。

私は、後年、社会にでて仕事をするようになって、自力で加藤周一的世界を克服したのだ。

石原さんが書いていたことで、国家との関係で強く印象に残ってることがある。

沖縄の老人と話したことについて、石原さんが書いているのだ。

その老人の子どもは、青年のときにアメリカ兵に射殺されて死んだ。アメリカ兵に暴行されそうになった女性との間に入り、そのアメリカ兵に銃で胸板を撃ち抜かれて殺されたのだという。

父親は、しかし、石原さんに、あの子は男が当然すべきことをして死んだのだ、私はあの子を誇りに思っている、と述べたという。石原さんは必ずしも釈然とはしない。しないが、父親のその気持ちの真っ当さを正面から受け止めている。男はそのように生き、死ぬべきものなのだ、と。

 

トップ写真)C40 大都市気候サミットソウル2009で首相として登壇する石原慎太郎氏 (当時)

出典) Photo by Chung Sung-Jun/Getty Images  2009/05/19 

 

 

 




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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