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スポーツ  投稿日:2014/6/14

[神津伸子]<原貢と辰徳、竹内秀夫と惇>今、野球界を盛り上げている2組の父子鷹


神津伸子(ジャーナリスト)

執筆記事

今、野球界を盛り上げているのは2組の父子鷹。その物語を追う。

「自分の監督像の原点は、父にある」(巨人軍監督・原辰徳氏)

一組目は、甲子園の父子鷹として一世を風靡したと言っても過言ではない、原貢・辰徳氏親子だ。心筋梗塞で倒れ、先月末に帰らぬ人となった東海大系列校野球部総監督原貢氏(享年・79歳)。直後は、チームの指揮を川相昌弘ヘッドコーチに任せ病院に駆けつけたが、その後は球場を離れることはなかった原辰徳監督。 東海大相模の監督・花形選手として甲子園を盛り上げた二人の雄姿は、40年を経た今も、多くの甲子園ファンの胸にしっかりと刻まれたままだ。

辰徳氏高1の夏、あのエース定岡正二率いる鹿児島実業との延長15回の熱闘を続けた伝説のラジオ放送は長年、高校野球ファンによって語り継がれている。翌年は埼玉県代表・上尾との準々決勝で破れた。最後の夏は、2回戦で、栃木県代表・小山の黒田投手が打ち崩せず。最高位は選抜の、高知高校に敗れた準優勝だった。のちに日本ハム、巨人軍に進んだ4番津末英明も、現・東海大甲府監督のエース村中秀人ももちろん大活躍したスターチーム。

当時の、新聞紙面や野球雑誌には“父子鷹”の3文字が躍っていた。 そして、辰徳氏の高校入学と共に、父は息子と親子の縁を切り、誰よりも厳しく指導したことも、当時よく報道されていた。 貢氏を一躍有名にしたのは、福岡県代表・三池工業を率いての夏の甲子園初出場初優勝だ。

「三池工業の優勝は、残念ながら自分が小さかったので記憶にありません。あの縦縞のユニフォームが、自分には全てで、本当に興奮しました」(53歳・女性会社員)

など、女性ファンも本当に多かった甲子園アイドルの原点、とも言える。

もう一組は、つい先日閉幕した東京六大学野球の主人公に躍り出た、神宮球場をベースにする父子。

慶應義塾大学は東京六大学野球6季ぶり34回目の優勝を今月1日に決めた。 しかし、指揮官であるはずの慶大竹内秀夫監督(59歳)は、今春季シーズン、神宮球場のベンチにはなく、入院中だった。 そして、息子の慶大二塁手・惇(まこと)選手は、父への熱い思いを胸に、ナインと共に闘い続けた。

「病床の父に、いい報せを届けるために」

大学4年生、二塁手・6番打者である惇選手は、小学3年生で野球を始め、慶應義塾高校2年生で春の選抜高校野球大会にも出場している。今シーズンまで3年間全くノーヒットだったのが、今春タイムリーを連発して、リーグ優勝の立役者の1人となった。

竹内監督は昨年12月に、元プロ野球選手だった江藤省三氏から監督を引き継いだが、今年2月に内臓疾患のため、チームを離脱。手術後も、入院したまま現在に至っている。 息子の属する慶大野球部は、その父の魂が乗り移ったかのように、快進撃を続けた。

「『監督の息子だから使われている』と、言われないように結果を残したい」

そう、息子・惇選手は言い続け、実践した。リーグのベストナインにも、初選出された。

「今春、神宮で10試合観たけど、詰まった当たりがポテンヒットになったり、外野フライかと思ったらホームランまで持っていったり、もう、竹内監督が乗り移っているとしか思えませんでした」(48歳・自営業)

と、熱烈慶大野球部ファンの一人もその豹変ぶりを描写する。

「竹内君の気迫にやられた」

と、明大・善波達也監督。

「勝ちたいという強い意志が、攻め、守りを通じて慶應の方が表れていた」

早大・岡村猛監督も、脱帽した。

父・秀夫氏監督は、慶応義塾大学硬式野球部で4年間助監督を務めた。自身も、社会人野球の明治安田生命でエースとして活躍した生粋の野球人。2005年から09年まではその後、同社で監督も務めていた。

「自分が選手と監督をしていた社会人の世界は、勝負の世界として非常に厳しいです。試合がトーナメント方式なので、一回負けたら終わりの勝負。そういう厳しい面を、大学野球にも生かしていきたいなと思っています」(慶應スポーツより)

と、昨秋、竹内監督は就任当時に熱く語っていた。 惇選手は父の思いを背負い、チーム一丸となって、春秋リーグ連覇を目指す。 あまりに日本的と言えばそうなのだが、野球ファンの心を捉えて離さない父と息子のストーリー。

今春シーズン初戦の日、竹内父から息子に届いた3文字の短いメール。

「頑張れ」

十二分に応えた、惇選手。 秋は、共に神宮の社で闘いたい。

物語のクライマックスは、まだまだこれからだ。

今月1日、東京・神宮球場で東京六大学野球閉会式終了後、記念撮影する慶應義塾大学硬式野球部の選手たち。病床にある竹内秀夫監督の背番号30番のユニフォームも、写真におさまった。

今月1日、東京・神宮球場で東京六大学野球閉会式終了後、記念撮影する慶應義塾大学硬式野球部の選手たち。病床にある竹内秀夫監督の背番号30番のユニフォームも、写真におさまった。

 

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【執筆者紹介】

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1983年、慶應義塾大学卒業後、企業勤務を経て、87年産経新聞社入社。94年にカナダ・トロントに移住し、フリーランスとなる。 以後、数々の出版・企画・編集に携わっている。2013年から朝日新聞出版「AERA」を中心に取材・執筆。現在に至る。

[主な著書(含編集)]角川書店「もうひとつの僕の生きる道」、晶文社「命のアサガオ 永遠に」、学研「東京お散歩地図」、双葉社「アイスホッケー女子日本代表の軌跡 氷上の闘う女神たち」

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