無料会員募集中
.社会  投稿日:2022/10/30

ザ・ドリフターズの功罪(上)娯楽と不謹慎の線引きとは その4


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・10月20日、ドリフターズの仲本工事氏が亡くなった。

・日本のザ・ドリフターズの名は、漂流者より各地の会場やTV局に出没する売れっ子になるように、との意味を込めた。

・ドリフは、お笑いの世界にとどまらず日本の社会に、よくも悪くも多大な影響を与えた。

 

10月20日、ドリフターズの仲本工事氏が亡くなった。享年81。

すでに大きく報じられているが、この日の朝、横浜駅近くの交通量の多い道路を横断中、車にはねられたもの。現場には歩行者横断禁止の標識もちゃんとあった。

つまり本人の落ち度もないとは言えないのだが、逆に考えれば防げた事故であったはずだ。それを思うと無念もひとしおである。ご冥福をお祈りいたします。

昭和の時代に一世を風靡した5人組のザ・ドリフターズだが、今や2人になってしまった。

旧メンバーであった荒井注氏も、2000年に他界されている。

そもそもドリフターズとは、流れ者・根無し草などと訳されるDrifterの複数形で、米国に同名のコーラス・グループがあった。1953年に結成され、ヒット曲のひとつであるSave the Last Dance for Meは、そのまま『ラストダンスは私に』(日本語詞・岩谷時子)というタイトルにて越路吹雪がカバーしている。

ただ、日本のザ・ドリフターズ(以下、ドリフ)の名は、漂流者より各地の会場やTV局に出没する売れっ子になるように、との意味を込めた、オリジナルであるらしい。

このネタ元はどこかと言うと、昭和の時代、小学校で配布されていた(本当は保護者が定期購読したのだが)学習雑誌の記事であった。

彼らの代名詞ともなった『8時だヨ!全員集合』は、子供に見せたくない番組のワースト1に幾度も選ばれていたが、その反面、学習雑誌までが取り上げるほど人気を博していたというわけだ。ちなみにこの記事を書き始める直前、たまたま女子中学生と話す機会があったのだが、今の中学生はドリフの番組など見たことなどあるのか、と尋ねたところ、

「私は、お父さんが大好きだったので、めっちゃよく見ましたけど……知らない子も多分いると思いますよ」

とのことであった。昭和は遠くなりにけり、どころか相手は21世紀生まれだ。ジェネレーション・ギャップという言葉が裸足で逃げ出すが、その話はさておき。

以下、敬称略とさせていただくが、もともと彼らはミュージシャンで、1956年にマウンテン・ボーイズと東京ウエスタンボーイズというふたつのバンドが合体して結成された。しかし、この時期のバンドは離合集散を繰り返しており、ドリフのメンバーも幾度となく入れ替わっていた。初期メンバーの中には、坂本九山下敬二郎もいたという。1964年にいかり長介がリーダーとなり(3代目)、メンバーもほぼ固定された。それまでは前リーダーの個人事業扱いだったが、この年から渡辺プロダクション所属となる。

その後1979年に、当時のマネージャーだった井澤健が独立してイザワオフィスを立ち上げた際に移籍した。渡辺プロダクションの先輩でもあり、ドリフの面々が「師匠」と呼んで慕っていたのがクレイジーキャッツのリーダーであるハナ肇で、クレイジーキャッツの「真面目にふざける」という芸風を学んで後のドリフが出来上がるのだが、正式な師弟関係ではない。ただ、メンバーの芸名はハナ肇が名づけた。

いかりや長介は、本名・錨矢長吉だが「ちょうきち」が発音しにくいからか「ちょうすけ」と呼び習わされていたのである。姓は碇矢が難読なので開いた(ひらがな表記にすること)らしい。選挙ポスターなどでおなじみの表記法だ。

加藤茶(本名・加藤英文)と荒井注(同・荒井安雄)も、それぞれ「カトちゃん」「アライちゃん」という呼び名に強引に漢字を当てたものだが、さすがにそこはひとひねりあって、当時の芸能界では

「水にちなんだ芸名をつけると売れる」

というジンクスがあった。水原弘、水前寺清子、舟木一夫あたりからの着想だろうか。

仲本工事の場合、本名は仲本興喜なのだが、理由は不明ながら「コージ」と名乗ることが多かった。工事という漢字を当てたのも、本人であるともハナ肇であるとも言われる。

高木ブー(本名・高木友之助)は、今さら失礼ながら見たままの命名だが、当人は後に、

(一生この名前で呼ばれるのか)

と思ってひどく落ち込んだと、色々な場で語っている。我々も、世紀を超えてこの芸名で親しんできたので、なんの違和感もないが、今なら一種のパワハラ案件になったかも知れない。志村けんについては、後で触れる。

1966年、ビートルズが来日。6月30日と7月1日の公演で前座を務め、一挙に注目度が高まった。嘘か本当か知らないが、ポール・マッカートニーが日本のバンドを初めて見た印象を聞かれ、

「コミカルなステージをやった連中が一番よかった」

と答えたそうである。他に尾藤イサオ、ジャッキー吉川とブルーコメッツなどが同じステージに立った。

彼らは、1960年代にエルヴィス・プレスリーらの影響を受けたロカビリー歌手(バンド)だが、このビートルズ来日公演以降、その音楽スタイルからヴィジュアルまで真似た「グループサウンズ」と称するバンドが次々に世に出て、楽曲もカバーからオリジナルへと変わり、日本独自の洋楽=今で言うJポップが次第に市民権を得て行くのである。

次第に、と述べたのは、そこには苦難の道のりがあったからだ。長髪が汚らしいとか、ロックが好きな子供は不良になるとか、当初は散々な言われようで、NHKなど長きにわってグループサウンズの出演を認めなかった。唯一の例外がジャッキー吉川とブルーコメッツで、その理由は彼らが七三分けにスーツ姿で演奏していたからだと言われている。

いずれにせよ、ビートルズの前座を務めたことでドリフの知名度も一挙に上がったのだが、彼らは「グループサウンズ路線」をよしとせず、演奏しながら笑いを取る、クレイジーキャッツ直伝のコミック・バンド路線をひた走った。もっとも、リードヴォーカル兼ギターの仲本工事、ドラムスの加藤茶らは音楽へのこだわりを捨てきれず、一時は独自のバンド活動をしたこともある。しかしその後、コントで人気が爆発したため、歌や楽器はネタの一部に過ぎなくなった。

そして1969年10月4日、TBS系列で『8時だヨ』の放送が始まる。

最盛期には視聴率50%を記録し、放送終了(1985年9月28日、最終回)から40年あまり経つ現在に至るも、この数字を超えるバラエティ番組は現れていない。

その人気の源泉は、当時の演芸番組(バラエティという言葉が定着するのは、もう少し先の話)としては異例の、回り舞台などを備えた大がかりなセットを組み、そこで緻密に練り上げられたコントを演じたことにある。

1時間の生放送に備えて、計12時間を超すリハーサルを重ねることも珍しくなく、メンバーの時間的・体力的負担は大変なものであった。

結果、最年長メンバーだった荒井注(公式プロフィールでは、いかりや長介より3歳若いことになっていたが、実は7歳もサバを読んでいた)が、体力の限界を理由に脱退を申し出る。1974年3月31日に脱退が決まり、翌4月1日、ボーやだった志村けんが正式メンバーに昇格した。

読者の大半が記憶しているドリフとは、おそらくこれ以降の5人組だろう。ボーヤというのは、付き人とも称されるが、要は雑用係兼見習いといった存在である。

意外に思われるかも知れないが、もともとは新聞業界から出た言葉で、英米の新聞社では雑用係の若者をコピー・ボーイとか単にボーイと呼んでいた。日本では、これが「坊や」とか「子供」になったわけだ。知り合いの新聞記者に聞いてみたところ、今でもそうしたスタッフはいるが、単に「バイト」と呼ばれているらしいが、これは余談。

ドリフにも、複数のボーヤがいたのだが、その中から志村けんが抜擢されたのは、加藤茶が彼のセンスと真面目さを高く評価していたからだと聞く。

荒井注についても、メンバー交代を発表した際のいかりやの口上は、

「荒井はしばらくお休みをいただきます」

というもので、その後も在籍扱いとなっていた。現在に至るも公式には解散していない。

そのドリフは、お笑いの世界にとどまらず日本の社会に、よくも悪くも多大な影響を与えた。

具体的にどういうことかは、次回。

(続く。その1その2その3

トップ写真:加藤茶氏芸能生活50周年祝賀パーティーに出席する仲本工事氏(東京 2011年3月1日) 出典:Photo by Sports Nippon/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

copyright2014-"ABE,Inc. 2014 All rights reserved.No reproduction or republication without written permission."