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.社会  投稿日:2021/12/31

忘れ得ぬ昭和の正月風景 年末年始の風物詩について 最終回


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・高度経済成長期の年末年始は「NHK」「食材まとめ買い」「おせち料理」「人生ゲーム」。

・当時、サラリーマン家庭の子より商店や町工場経営の家の子の方が「お年玉」の羽振りは良かった。

・先の見通しが立たない昨今の世相にせめてコロナ禍収束を願う。

 

昭和と一口に言っても、アジア太平洋戦争をはさんで63年余の長きにわたる。したがって昭和に生まれた世代も、戦前派、戦中派、戦後派、戦無派などと分類されるが、今なお在世の昭和生まれの中では戦後派がもっとも多い。大半が昭和20年代に生まれた、いわゆる団塊の世代がその中核をなしているからである。

この点、私のように昭和30年代に生まれた者は、いささか立場が弱い。昭和40年以降に生まれた世代は「新人類」などと呼ばれ、我ら30年代生まれは、

「団塊の世代と新人類とのミッシングリンク」

などと、ひどい言われようなのだ。

ミッシングリンクとは、ダーウィンの進化論に従うならば、すべての生物は適者生存の原則に従って進化してきたはずなのだが、たとえばヒトの場合、類人猿と原人とでは外見・生態ともに違いすぎる。両者の中間的な存在があって然るべきなのだが、化石などまったく見つからない。進化の連鎖が断絶している、ということである。最近の研究では、ホモ・サピエンス以外にも複数の原人が生まれたが、結局はヒトの先祖が生き残ったのだと分かってきたので、この言葉自体が死語になりつつあると聞くが。

余談はさておき、私がここで語らせていただく「昭和の正月風景」とは、もっぱら30年代末から40年代の高度経済成長期における、東京の一角に限定された話題であることを明記しておく。そもそも雪深い北海道・東北から温暖な南九州・沖縄まで、南北に長い日本列島において、正月風景などとひとくくりで語れるはずもない。

当時の年越しは、NHKとともにあった。おおむねどこの家でも、大晦日の夜は紅白歌合戦を見て過ごし、続いて『行く年来る年』を見ている間に日付が変わる、というパターンである。『紅白』はギャラが安いのだが、とにかく出場すれば大変な名誉で、その後10年くらいは営業に不自由しない、という知識は、早くも中学生の時に仕込んだ。今はそんなこともないのだろうが。

▲写真 イメージ 出典:Shoko Shimabukuro / Getty Images

平成になってからは、私の両親が他界したという事情もあって、親戚の家で年を越すことが多くなったが、昭和世代は相変わらず『紅白』だが、ほとんどBGMみたいなもので、平成生まれの子供たちは、別室で『笑ってはいけない』シリーズを見て笑い転げているという具合になった。

昭和の時代、末期のバブル景気の当時までは、複数のTVがある家など、そう多くはなかったと思う。

いずれにせよ平成以降は年末年始の番組も多様化し、さらにはTV以外の媒体も増えて『紅白』の視聴率は長期低落傾向にある。

ジェンダーフリーが推奨される時代に、男女対抗という番組の形式自体いかがなものかとか、いろいろなことを言う人もいるが、私の個人的な意見としては、今や「除夜の鐘」みたいなものであるから、年に一度くらい、視聴率がどうの受信料がどうのと言わずに放送を続けてもよいのではないだろうか。そもそも「見ない自由」は万人にあるわけだから。

TVもそうだが、もっと変わったのが年末年始の買い物事情である。

昭和の時代には、年末に食材のまとめ買いを怠ると、独り者(単身生活者)などは飢え死にする危険性がある、とさえ言われた。

今では信じがたい話かも知れないが、飲食店と言わず食料品店・スーパーと言わず、本当にありとあらゆる店が休んでいたのだ。私の実家から徒歩10分弱のところには、都内有数の商店街があったのだが、正月だけはシャッター通りであった。もちろん当時、そんな言葉はなかったし、たかだか4~5日の断食で餓死の危険性まではないと思うが。

そう言えば、おせち料理の定番(これまた地方によって様々だが)である、蒲鉾、塩数の子、昆布巻きなどは、いずれも保存食だ。やはり、正月は市場も店も閉まることと、無関係ではあるまい。

▲写真 おせち料理と子ども(イメージ) 出典:Yuji Arikawa / Getty Images

これも今や、コンビニをはじめ年中無休という商店が増えて、便利になったのか風情がなくなったのか、という話になっている。ただし令和になってからは「働き方改革」とやらで、大手スーパーなども元日は休むようになってきている。

正月風景と言えば、若い読者でも『お正月』という唱歌くらいはご存じではあるまいか。

「お正月には 凧あげて こまをまわして遊びましょ」

というのが歌詞の一節だったが、当時すでに、都内の住宅地は電線が張り巡らされていて、凧あげなどできはしなかった。もっとも、同じ板橋区内でも田舎の方、もとい、荒川土手まで歩いて行けるようなところで育った旧友の話では、凧あげが正月に限らず遊びの定番だったそうなので、一概には言えないようだ。

他に羽根つき、双六、福笑いというのが、正月の遊びだったようだが、これまた、いつの時代の話だろう。

羽子板というのは売っていたが、実際にあれで羽根をついて遊んでいる子供は見た記憶がない。

福笑いというのは、若い読者はピンとこないかも知れないが、要はのっぺらぼうの顔がプリントされた紙があって、目隠しをして目や鼻のパーツを並べて遊ぶのだ。それの何が面白いのか、と言われると困る。私自身、一体何が面白いのか分からなかった。と述べると、経験があることは認めることになるが、当時の小学生がよく購読していた『X年の科学』『同・学習』といった雑誌の付録になったことがあったのだ。

双六とは、バックギャモンと同じく二人で遊ぶ対戦型のボードゲームで、我が国には飛鳥時代に渡来したとされるが、賭博の逸出としてたびたび禁止令が出たらしい。後に子供の遊びとして普及したのは、サイコロを振って出た目の数だけ駒を進める「絵双六」の方だろう。

昭和の小学生には、これの現代版とでも言うべき「人生ゲーム」が人気を博していた。1960年に米国で発明され、我が国では68年以降、タカラトミーから発売されている。

たしか、とても小さな「ドル札」を賭けてあそぶようになっていたはずで、私が通った小学校では、まさか賭博と見なされたのではないと思うが、校内持ち込み禁止となったのを覚えている。推測だが、この手のゲームは高価だったので、生徒間に「持つ者と持たざる者」という関係性が生じ、学校側が敏感に反応したのかも知れない。

▲写真 お年玉をもらう子ども(イメージ) 出典:kohei_hara / Getty Images

子供にとって正月の楽しみと言えばお年玉だが、私の記憶では親戚一人につき、最初は500円から1000円。当時は500円札があり、ちゃんと折りたたんで袋に入っていた。学年が上がるにつれて増えていったと記憶しているが、さすがに1万円もらった記憶はない。

これも高度経済成長期の一側面なのか、まあ私の記憶だが、サラリーマン家庭の子よりも商店や町工場を経営している家の子の方が、羽振りが良かったと思う。

あれから半世紀。

すでに還暦を過ぎた私など、

「正月や 冥土へ旅の 一里塚」

という川柳が似合う。とりわけ先の見通しが立たない世相となった昨今、来年の今頃、自分はどこでなにをしているのだろう、などとつい考えがちだ。

せめて新型コロナ禍が収束し、安心して出歩ける日々が戻るよう祈ろうと思う。

読者の皆様も、よいお年をお迎えください。

その1その2その3その4。全5回)

トップ写真:正月の買い物風景(東京・浅草) 出典:Karin Slade / Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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