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.社会  投稿日:2022/11/18

雑誌メディアはデジタルの世紀においても夢と時代を運ぶ宝船なのか その歴史から紐解く(上) 


松永裕司(Forbes Official Columnist)

「松永裕司のメディア、スポーツ&テクノロジー」

【まとめ】

・1731年発刊の『Gentleman’s Magazine』は200年近く刊行を続け、雑誌としての体裁を具現化し、世界の大きな足跡と功績を残すに至った。

・日本では江戸時代には活字印刷が可能でありながら、活版印刷が導入されるまで250年間、定期刊行物が成熟しなかった。

・1968年に創刊された米ヒッピー向け雑誌『Whole Earth Catalog』は日本の出版文化に影響を与えた。

 

雑誌」はいったい、どこへ行くのか……。

デジタルメディアに四半世紀ほど身を置きつつ、「三つ子の魂百まで…」、今は亡き雑誌たちからメディア稼業をスタートさせた身としては、常に気になる難題だ。ここでは雑誌の歴史を紐解きつつ、その行く末を案じてみた。

■ 世界初、雑誌の誕生

ヨハネス・グーテンベルグが1438年頃から活版印刷技術を世に広めると、ヨーロッパ各地で勃発する動乱、戦争などの模様を伝えるため、16世紀の終わりまでには各国に『ガゼット(新聞』市場が確立された。

この流れは、いずれイギリスにも届き1731年、『Gentleman’s Magazine』がエドワード・ケイブという人物の手により発行された。これが42ページの月刊誌(あえて紙ではなく、誌と記す)で、世界で初めて「Magazine」という名を冠した刊行物となった。しかし概念上、新聞と雑誌は区別されていたわけではなく、月刊誌の体裁を取った印刷物には『ジェントルマンズ・ジャーナル』と名乗った刊行物もあり、マガジンもジャーナルも当時、その体裁に差異はなかった。

▲図 エドワード・ケイブ 出典:Photo by Hulton Archive/Getty Images

その証として1776年、アメリカの独立宣言を取り上げた新聞2紙の名称は、サムエル・アダムズ(現在、大手クラフト・ビールにその名を残す)の『ボストン・ガゼット』とトーマス・ペインの『ペンシルベニア・マガジン』。つまり当時は、「マガジン」と名乗る新聞さえあった。

『Gentleman’s Magazine』が果たしたもっとも大きな役割は、この雑誌が1922年まで200年近く刊行を続けた点。つまり、発刊当時は雑誌も新聞も区別はない状況だったが、200年続いた歴史によって、本誌が雑誌としての体裁を具現化し、世界の大きな足跡と功績を残すに至った。

そもそも、英語の「magazine」は、アラビア語の「makhazin (makhzan 複数形)」が語源とされる。1580年代には倉庫、特に弾薬庫を意味し、中世フランス語では「magasin」、イタリア語で「magazzino」となった。1868年までには弾倉を意味する「マガジン」へと転じて今日、英語でマガジンと言えば、弾倉もしくは雑誌を意味するのは、そんな語源による。この「倉庫」から転じ、商店の意味も有し、フランス語で「grand magasin」と言えば、デパート、百貨店を意味するようになった。

「マガジン」の意は、武器は武器でも、人類の武器となる「知識」が詰まった庫裏へと転じた。それが「雑誌」だ。

こうした時代の変遷から、19世紀には定期刊行物の発行部数増に伴い、それが細分化。特にアメリカでは、ピューリッツァー賞にその名を残す、ジョゼフ・ピューリッツァーウイリアム・ランドルフ・ハーストなどジャーナル界の巨人の登場により、市場の成熟に拍車がかかった。

イギリスでは週刊誌が生まれた。2020年の今日(こんにち)、米大統領選さえも伝える『エコノミスト』は1843年の創刊。フランスは「ベル・エポック」の時代に突入。言論の自由を体現する雑誌が次々と世に送り出された。

19世紀から20世紀初頭は、まさに戦争の世紀。その戦況が市井の人々に行き渡るに、印刷物の果たした役割は大きかった。タイプライターや輪転機の登場など、技術革新もこれを後押しした。

20世紀に入ると、雑誌文化は大きく花開く。

1922年には、デイヴィッド・ウォーレスが『リーダーズ・ダイジェスト』を創刊。23年には週刊誌『タイム』が登場。36年には、フランスの『ヴュ(Vu)』を模す形で『ライフ』が発刊を開始。雑誌は新聞社とは異なる「出版社」という業務形態として確立され、ジャーナリズムだけではなく、広告を含めた文化の発展を担った。

20世紀、過去4世紀に渡る印刷文化は頂点へと達した。

■ 日本における雑誌の誕生

世界から日本へと目を向けよう。

日本初の雑誌は1867年の『西洋雑誌』。世界初の雑誌が1663年とされるだけに、およそ200年遅れての誕生だ。

日本の印刷技術がヨーロッパに劣っていたからか…というと、これまたそうでもなく興味深い。奈良時代、8世紀半ばには木版印刷でありながら、100万部印刷されたという「百万塔陀羅尼経」があり、うち2000巻が現存するとされる。この巻物は、現存する最古の印刷物。

活版印刷はグーテンベルグによるルネサンス期の世界三大発明品のひとつでありながら、実は金属活字そのものは13世紀に朝鮮半島で使われており、豊臣秀吉による朝鮮出兵、1592年の壬辰の乱の際、この活字技術は日本に持ち帰られた。また鉄砲伝来とともにヨーロッパ式印刷技法も1590年前後には日本に伝わっていた。

しかし、残念なことにこの印刷技術は、キリスト教布教に付随する技術でもあったため、徳川幕府のキリシタン禁制によって、実用が広まらぬという、副作用を産んだ。幕藩体制における、上層部ではこうした印刷物による教育がなされながら、市井に拡がる芽を摘んでしまった。

日本では江戸時代には活字印刷が可能でありながら、グーテンベルグ式の高度な活版印刷が導入されるまでの250年間、定期刊行物が成熟しなかった。江戸の街では、かわら版が配られていながら、印刷刊行物には発展しなかったという、歴史の妙だ。

また、ヨーロッパでは定期刊行物が発行形式によって、新聞と雑誌に枝分かれしたのに対し、日本国内は、初の雑誌が1867年だったのと比較し、新聞の歴史のほうがわずかに若い。1861年には英字新聞、1862年にはオランダ新聞の邦訳が発刊されるものの、正式な日刊新聞発刊は1870年の「横浜毎日新聞」「東京日々新聞(現在の毎日新聞)」とされる。ヨーロッパの印刷紙同様、1894年の日清戦争以降、戦争の時代に入ると、人々の戦局への関心から新聞は一気に部数を伸ばした。

さて今一度、雑誌に戻ろう。『西洋雑誌』は柳川春三という日本マスコミ史上に名を残す先駆者の手により創刊された。「雑誌」という翻訳語を作り上げたのも彼の功績とされる。残念ながら『西洋雑誌』は6号をもって終焉を迎えるが、今度は1868年には『内外新聞』が創刊されている。

続いて1874年、福沢諭吉、西周ら当時、インテリが所属した「明六社」にちなみに『明六雑誌』が創刊。志あらたかに、巻頭には「一は以て学業を研鑽し、一は以て精神を爽快にす」とあったそうで、現在の商業雑誌とは隔たりを感じざるをえない。

今日まで続く雑誌の代表は、かの『中央公論』。現在は読売新聞の子会社「中央公論新社」が発行を続けている。もともとは西本願寺の機関紙『首巻号』として1887年8月に創刊され、雑誌として定期刊行が始まったのは同年12月。誌名を『反省會雑誌』と変更。仏教学府の学生の反省がテーマだったとか。99年1月に誌名をさらに『中央公論』へと変更、現代に至る。

この頃、創刊され、現在も続く雑誌としては、1895年の『東洋經濟新報』(現『週刊東洋経済』東洋経済新報社)、1903年の『婦人之友』(婦人之友社)、1904年の『新潮』(新潮社)、1905年の『婦人画報』(現・ハースト婦人画報社)、1913年の『週刊ダイヤモンド』(ダイヤモンド社)といったあたりだろう。

第二次世界大戦の暗黒期を乗り越えると、戦前から続く新聞社系週刊誌が、業界をリード。

朝日新聞社より『旬刊朝日』として1922年に創刊され、第5号より『週刊朝日』となった同誌を、ひと月ほど遅れ毎日新聞社の『サンデー毎日』が追従。戦中「敵国語」に指定され『週刊毎日』に変更されたものの、戦後1946年には元の誌名に返り咲いた。1950年頃から、『週刊サンケイ』『週刊読売』『週刊東京』の新聞社系週刊誌が続々と創刊。1956年、新潮社が『週刊新潮』を創刊したことで、出版社初の週刊誌が誕生。これにより、「週刊誌は雑誌の花形」という潮流ができあがった。

1957年には、河出書房から『週刊女性』が登場。翌年には光文社が『週刊女性自身』(以後『女性自身』と表記)を、文藝春秋も1959年、御成婚と重なったことから美智子皇太子妃の姿を表紙に『週刊文春』を創刊。1963年には『女性セブン』(小学館)が創刊され、女性誌も出そろう。残念ながら雑誌の歴史においても、女性誌はやはり後追いとなった。

■ Amazon、Googleの原型!?  『Whole Earth Catalog』の登場

こうしたドメスティック出版文化とはまったく別の潮流が日本にも注入される時代がやって来る。1968年、アメリカでヒッピー向け雑誌『Whole Earth Catalog』(以下『WEC』)がスチュアート・ブランドの手により創刊された。当時のアメリカの若者は、ヒッピー文化に染まっており、「ヒッピーでない者は人間にあらず」という時代だったそうだ。

▲写真 Whole Earth Catalog 1970年秋号 出典:Glenn Smith / gettyimages

WECはそのヒッピーたちを読者としたカタログ雑誌。不定期刊行であり、その公式発行期間も1968年から74年とわずか6年に過ぎない。72年に発行された『The Last Whole Earth Catalog』の前年には、休刊イベントを開催しているため、実質的に「72年までの4年」との考え方もみられる。しかしその後、アメリカ社会に与えた影響は現代にまで続く。

 (に続く)

トップ写真:雑誌を立ち読みする女性(イメージ) 出典:Moment/GettyImages




この記事を書いた人
松永裕司Forbes Official Columnist

NTTドコモ ビジネス戦略担当部長/ 電通スポーツ 企画開発部長/ 「あらたにす」担当/東京マラソン事務局初代広報ディレクター/「MSN毎日インタラクティブ」プロデューサー/ CNN Chief Directorなどを歴任。


出版社、テレビ、新聞、デジタルメディア、広告代理店、通信会社での勤務経験から幅広いソリューションに精通。1990年代をニューヨークで、2000年代初頭までアトランタで過ごし帰国。

松永裕司

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