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.社会  投稿日:2024/5/25

「知の巨人」横山禎徳氏を悼む


上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)

「上昌広と福島県浜通り便り」

【まとめ】

・社会システムデザインの第一人者、横山禎徳氏の49日法要に参列した。

・横山氏には、勉強会の講師をお願いし、会は19年間続いた。

・厳しいが、温かい人だった。心からご冥福を祈りたい。

 

5月22日、築地本願寺で開かれた故横山禎徳氏の49日法要に参列した。横山氏が亡くなったのは4月4日。葬儀・49日法要は家族と親しい知人だけで開催されたが、ご縁があり、私もご案内いただいた。

横山氏は、マッキンゼー・アンド・カンパニー(以下、マッキンゼー)の元ディレクター、東京支社長として有名な人物だ。福島との関わりは、東日本大震災後に国会に設置された「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)」の委員を務めたことだ。何度も福島を訪問し、現地で活動していた私たちのチームとも情報を交換した。

横山氏と私の交流は2005年に遡る。当時、国立がんセンター中央病院(現国立がん研究センター中央病院)に勤務していた私は、日本の医療制度の問題に関心を持つとともに、自分のキャリアパスについて悩んでいた。その頃、知人の戸矢理衣奈氏(現東京大学生産技術研究所准教授)から紹介されたのが、横山氏だ。それ以来、20年にわたり、公私にわたり御指導いただいてきた。今回は横山氏について書きたい。

横山氏のことを一言で称すれば、「厳しくて温かい人」だ。当初、私は横山氏に「マネジメントを教えて欲しい」とお願いした。横山氏は、少し話をするだけで、私の実力のなさを見抜いたようだ。「全く分かっていない」とお叱りを頂いた。第一印象は「おっかない人」だ。

横山氏には、1-2ヶ月に一回の頻度で、研究所で勉強会の講師をお願いした。写真1は、その光景だ。この勉強会は、それから19年間続いた。最後は今年の1月19日だった。

中身は、著書の『循環思考』、『組織――「組織という有機体」のデザイン28のボキャブラリー』、『豊かなる衰退と日本の戦略: 新しい経済をどうつくるか』で述べられている内容だ。

社会システムをサブシステムに分解し、悪循環を見つけること、そのような悪循環を良循環に変えるような仕組みを考えることを強調した。その際、「問題点の裏返しを答えにするな」と繰り返した。

例えば、少子高齢化対策の場合、少子化と高齢化は別の問題であると言った。前者は社会的問題、後者は医学的問題だ。少子化対策は、出産育児支援だけでなく、フランスで成功したような非嫡出子への差別解消が大きい。これは、社会の規範に関わる問題だ。また、高齢化社会の問題を解決するには、定年など高齢者への「差別」を改めるだけではなく、そもそも「年齢不詳社会」を目指すべきと主張した。従来の新卒一括採用、定年などの前提とした制度を、再デザインしなければならない。誰かの受け売りではなく、自分の頭で考えた横山氏の主張は、私にとって新鮮だった。

同時に、付き合いが長くなるにつれ、心の温かさを実感することが増えた。講義で厳しいことを言っても、その雰囲気には優しさを感じるし、勉強会に連れてくるマッキンゼーの後輩や元部下から、「随分、お世話になりました」という話を聞くからだ。

私は、このようなユニークな人材に出会うと、その人物が育った環境に興味をもつ。

横山氏についても、本人に聞くとともに、色々と調べた。

横山氏は1942年に広島市で生まれる。2才の時に被爆したそうだ。ただ、当時の記憶はなかったし、その頃のことを語る横山氏に悲壮感はない。広島出身で、マッキンゼー時代に部下だった堂前宣夫氏(良品計画社長)は、「お父上は地元を代表する実力者」と評する。横山氏も、「幼少時、父親を訪ねて任侠の人がやってきて、玄関で「お控えなすって」と挨拶している光景をみたことがある」と語っていた。恵まれた環境で、大らかに育ったようだ。

横山氏は、地元の名門広島大学附属高校から東京大学へと進み、建築学科を卒業する。当初、建築家として身を立てることを考えたようだ。米国に留学し、ハーバード大学デザイン大学院に留学する。これは1960年代の話だ。今と比べて、円が遙かに安い時期だ。

経済的負担は大きかっただろう。横山氏の留学を父上が支援したという。裕福で、教育熱心な父親だったのだろう。横山氏は「首から下は土方で、頭から上はインテリが理想」と言うが、それは私が抱く父親のイメージだと考えている。

当時、米国ではベトナム反戦運動が盛り上がり、横山氏が留学していたボストンにはヒッピーが大勢いた。「色んな連中と一緒に住んだが、不思議とヒッピーのような連中と気があった」という。詳細は省くが、そのような生活をしていたようだ。横山氏の人格形成には、当時の米国の雰囲気が影響している。

勉強会では、1968年にスチュアート・ブラントによって創刊された『ホール・アース・カタログ』が繰り返し紹介された。バックミンスター・フラーが提唱した「宇宙船地球号」に影響されたもので、既存の権力とは距離をおき、コミューン生活における自給自足に必要な道具、実用知識へのアクセスを提供することを目的としたものだ。ヒッピー思想との親和性が強かったと言われている。

横山氏は、『ホール・アース・カタログ』の共同編集者で、のちに『Wired』を創刊するケヴィン・ケリーの思想も繰り返し紹介してくれた。勉強会のたびに推薦図書をあげるのだが、ケヴィン・ケリーの『〈インターネット〉の次に来るもの』を繰り返し取り上げた。

横山氏が、当時の米国を評するときに強調するのは「豊か」だったことだ。1969年の映画『イージー・ライダー』でピーター・フォンダとデニス・ホッパーが演じる二人の主人公のような人物は、ボストンには大勢いたらしい。「あれでも食えるのが米国の豊かさ」と説明した。

その後、横山氏は建築家として、前川國男事務所に就職する。前川氏は、ル・コルビュジエなどの元で学び、戦後のわが国の建築界をリードした人物だ。この事務所からは、丹下健三など多くの人物が巣立っている。

横山氏は、建築家としての修行の日々をしばしば語ってくれた。そして、刺激を受けたルイス・カーン、イオ・ミン・ペイ、フランク・ゲーリーなどの建築の写真を、勉強会で繰り返し紹介した。一流の人物に囲まれ、楽しい日々を送ったようだ。ところが、程なく、建築家としての道を諦める。「建築は才能の世界。私にはなかった」と語る。

順風満帆な横山氏にとって、初めての挫折だったのだろう。ただ、この経験は無駄ではなかった。東京大学の学生時代から、米国留学、前川事務所勤務を経て、彼の頭の中には「デザイン」という考え方の枠組みが出来上がり、のちの「社会システムデザイン」へと繋がっていくからだ。

「社会システムデザイン」という考え方は、私にとって新鮮だった。人体は複雑系だ。介入がどういう結果を呼ぶかはやってみなければわからない。同じ薬を使っても、状態が改善する人も、副作用で亡くなる人もいる。臨床医は、人体をデザインしようとは思わない。やれることは「臨床試験」として、経過を記録するだけだ。

横山氏と知り合って以降、私は東京大学医科学研究所の研究室や、医療ガバナンス研究所の運営に関わった。悪循環・良循環に着目し、組織をデザインするという横山氏の教えは大いに参考になった。

話を横山氏に戻そう。建築家を諦めた後、横山氏は、1975年にマッキンゼーに入社する。そこで影響を受けたのは、1950〜67年までマネージング・ディレクターを務めたマービン・バウアーだ。マッキンゼー中興の祖として伝説的な人物で、コンサルタントの世界に、医師・弁護士・聖職者の世界で確立している「古典的プロフェッショナリズム」を導

入した。コンサルタントは、独自のスキルを顧客のために使う。顧客とコンサルタントには、情報の非対称が存在するため、強い職業規律を持たなければならない。そして、報酬は顧客からもらうというものだ。

横山氏が学んだハーバード大学は、ロー・スクールやメディカル・スクールなど、プロフェッショナル育成を目的とした職業訓練学校から始まっている。学問を追究する法学部や医学部ではない。ビジネス・スクールやデザイン・スクールも、その延長線上にある。

このような学校は、近代国家が誕生する以前に始まっている。プロフェッショナリズムを貫くことは、時に国家との利益相反になる。医療界で有名なのはナチスの人体実験だ。戦後、担当した医師は処刑された。組織の命令に従ったという言い訳は通用しなかった。

我が国は、コロナ禍でPCR検査を抑制したが、医療界から、「国家の都合のために患者の権利を抑制するのは怪しからん」という意見がでることはなかった。第二次世界大戦での陸軍防疫給水部隊(731部隊)の蛮行も独自に総括していない。

この差は歴史に負う所が大きいのだろう。欧米のプロフェッショナルの世界では、長い歴史の間に、世俗権力や国家権力との軋轢を数多く経験し、独自の規範を確立したのだ。我が国では、明治政府が欧米に倣い、東京大学を設置したが、仕組みだけを導入し、精神は受け入れなかったようだ。

私は、横山氏から教えて貰うまで、医師のプロフェッショナリズムについて考えたことがなかった。私が医学を学んだ東京大学医学部では「診療と研究の両立」は強調されるが、このことについて議論されることはない。

ところが、この問題について関心を抱くようになると、英国の臨床医学誌『ランセット』などが頻回に論考していることが分かるようになった。これまで、私は文字面だけを追いかけ、論考の主旨を理解できていなかったことを痛感した。

生前、遠藤周作がノーベル賞候補に上がったのも、著作『海と毒薬』や『沈黙』が、患者・信徒と組織の間で喘ぐ医師や聖職者を取り上げたからだろう。『沈黙』は、『沈黙-サイレンス-』というタイトルで、2016年にマーティン・スコセッシ監督が映画化している。遠藤周作の祖先は鳥取藩の御典医で、自身はクリスチャンだ。この問題について考える機会が多かったのだろう。

お恥ずかしながら、横山氏に会うまで、私は、「古典的プロフェッショナル」が抱えてきた問題意識を理解できていなかった。横山氏との出会いは、医師としての私のキャリアに大きな影響を与えた。私にとって、横山氏は、経験に裏打ちされた「知の巨人」であった。

横山氏を紹介するなら、これ以外にも、東京大学エグゼクティブ・マネジメント・プログラム(東大EMP)立ち上げなど、多くの実績がある。このような実績に加えて、私が最後にご紹介したいのは、後進に対して優しく、面倒見がよかったことだ。

横山氏は、しばしば医療ガバナンス研究所にマッキンゼーの後輩を連れてきた。多くの場合、病気の相談だ。後輩やその家族が病を抱えたとき、彼らはまず横山氏に相談するようだ。みなさん、「怖い上司でした」と口を揃えるが、その雰囲気から敬愛していることがよくわかる。厳しいが、温かい人だ。こうやって多くの後進を鍛え上げてきたのだろう。私も、その中の一人だ。心からご冥福を祈りたい。

▲写真 勉強会の光景。多くの若者が集まった(筆者提供)

トップ写真:横山禎徳氏を講師に招いての勉強会の様子(筆者提供)




この記事を書いた人
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長

1968年生まれ。兵庫県出身。灘中学校・高等学校を経て、1993年(平成5年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、1995年(平成7年)から東京都立駒込病院血液内科医員。1999年(平成11年)、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論、医療ガバナンス論。東京大学医科学研究所特任教授、帝京大学医療情報システム研究センター客員教授。2016年3月東京大学医科学研究所退任、医療ガバナンス研究所設立、理事長就任。

上昌広

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