平成13年の年賀状「車と私」・「人の心と会社経営」
年頭にあたり皆々様の御健勝をお祈り申し上げます。
昨年のご報告を一、二、申し上げます。
春。年末から正月を棒の如く貫いて、忙しく働きました。
夏。久し振りに車の運転をするようになりました。しかし、酒を飲まない日だけなので、限られたものです。
秋。漱石を、「三四郎」「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「心」「道草」と通読しました。何十年か振りです。「心」に出てくる先生の「記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて来たのです」という叫びが、中原中也の「あゝおまへはなにをして来たのだと…吹き来る風が私に云ふ」という一節を思い起こさせました。
冬。仕事の区切りがつくと散歩に出ます。「もしもステッキ買い込んで、黒い鞄をもったなら」と歌いながら、落ち葉を踏みしめます。
今年こそイスタンブールへ行って、金角湾に沈む夕日を眺めながら、小舟の上で揚げた魚のフライを食べてみたいもの、と思っています。
何卒本年も宜しくお導き下さいますようお願い申し上げます。
『車と私』
【まとめ】
・2000年夏ごろから再び車を運転するようになった。
・脱炭素・省エネの時代。世の中のため、自分自身の健康のため運転を廃そうか。
・かつて毎日曜日に家族4人でドライブに出かけた。良き父親であった日々が私にもあった。
「久し振りに車の運転をするようになった」のは平成12年、2000年の夏のことだったようだ。
私はよく覚えている。あの夏に私が再び車の運転をするようになったのは、三田にマンションを買ったのでそこからの通勤のためだった。三田にマンションを買ったのは、長男が慶応大学の専門課程に行くことになったのがきっかけだった。長男はそのマンションにガールフレンドを連れてきては二人でテレビゲームをやったりしていた。そこでは私と長男と二人、いろいろな話をしたものだった。たくさんの思い出がある。
私は三田にマンションを買ったのをきっかけに車で事務所に通うことになったのだったが、やがてマンションを持っている必要がなくなっていたところへ、隣人が売ってほしいとのことだったのでそれに応じて、もう何年も前に売ってしまった。イタリア大使館に隣接し、下に三井倶楽部の緑の広がっている、綱坂に面した素晴らしい場所だった。私は5階に住んでいたが、その上には丹下健三が住んでいたことがあるという曰くつきのマンションでもあった。
車については、最高の友人がいた。カーレースのレーサーとして何年も続けて日本一になったどころか、日本初のF1レーサーになったほどの男で、私がさて何を買ったものだろうとアドバイスを求めたら、ベンツ、の一言だった。
彼はとても親切で、いい車があるから一緒に見に行きましょうと国道八号線付近の外車の中古車屋さんに、自らの車の助手席に私を乗せて連れて行ってくれた。車についてまったく知識も興味もない私は、彼の車の助手席から降りて辺りを見回し、どうやらこの辺りにはそうした店が多いらしいなという程度の感覚だった。
白いベンツ、E200が一目で気に入った。前部のタイヤの上側の部分、フロントフェンダーの部分の盛り上がりが、鍛えられた女性の太腿の膨らみを思わせ、左右のその張り切った姿態がなんとも官能的に感じられた。そこに惹かれたのだ。白い色、そこに黒い革の内装が歯切れのいい印象だった。満点。彼に大いに感謝し、その場で買うことに決めた。出会いである。
三田の家から青山ツインまでの数キロ。快適な日々が始まった。自分がベンツを運転して事務所にかよう身分になっていることが不思議なような、こそばゆいような、うれしい思いがする寸刻だった。ほんの10分かそこらだったのだろうが、それでもいくつかの経路がある。何回かの試行錯誤を繰り返して、これが一番楽で速いという道を探し当て、そこを運転して往復する日々が始まった。
青山ツインの地下にある駐車場には、それまでにすでに馴染みはあった。1985年4月18日に青山ツインで働き始めたときの私にはネームパートナーがいて、その方は大変な金持ちと噂されている弁護士だった。自ら、あるいは専用の運転手さんが運転するベンツのS560という大きな車に乗っていた。弁護士会で同じ委員会に属していたから、その委員会に出たときには帰りに便乗させてもらうことがなんどもあった。
ビルの駐車場というものは、ビル自体とは違って、化粧仕上げのされていない、コンクリ―ト剝き出しの粗野な造りである。私はそのことにとても違和感があった。なぜビル会社は駐車場の見栄えを良くしようと考えないものなのかと不思議な気がした。今の山王パークタワーの駐車場は、出入口などがだいぶ立派にできている。仕事の関係で車に乗ってお訪ねするいろいろなビルもずいぶんきれいな仕上げになっているようだ。だが、やはり車が走行し駐車する部分はコンクリート剝き出しである。高級ホテルにしても同じこと。車のための走行、駐車スペースというものは、ほんの附属物に過ぎないということなのか。それとも車が相手の場所だから、ぶつけられたり擦られたりする機会が多く、そのうえ油も飛んだりもするから、上質な仕上げなど意味がないのか。わからない。車というものはもともと馬車から発展したものだし、馬車の時代には自分で運転する人はいなかったから、ビルの顧客自身が出入りすることはなかった歴史のせいなのか、などと考えてみたりする。
しかし、そういえばマンションの駐車場というのも、どんなに高級なマンションであっても同じ事情である。そこを大理石張りにしたところで建設コストを賄うことがかなわないのか、購入する人間がそんなものを求めないのか、よくわからない。
そういえば、私はエレベータについても同じ感想を持っている。
超高級のマンションであれば、個別の玄関とそのユニット専用のエレベータがあってもよさそうな気がするのだ。一度、ある大手デベロッパーが分譲したマンションの最上階を見に行ったときに、そうした配慮に近いユニットに出逢った。地下の駐車場は他の人と共通だが、そこから自分のユニット専用のエレベータがあって、そのエレベータの入り口にはそのユニットの人だけしか入れない。そして、それがそのままその最上階のユニットの玄関につながっているのだった。
100坪を超える広さのマンションだったから、管理費も相当な額にのぼったのだろう。そこにエレベータの維持管理費用を加えれば、それだけでふつう以上のマンションを借りることができるほどの金高になったに違いない。私は、親しい不動産業者に、買わなくてもいいから一度見て見てくれと言われて見ただけだから詳細は知らない。買う予定も予算もなかった。そのマンションは今でもあるから、そこに住んでいる方は、あの個別の地下エレベータで自室の玄関まで昇り、降り、そして巨額の管理費を負担しているのだろう。
写真)2003 Mercedes Benz E320 cdi Avantgarde(記事の内容とは直接関係ありません)出典)Photo by National Motor Museum/Heritage Images/Getty Images
ベンツの話の続きに戻ると、私はその白いベンツが大いに気に入ってしばらく乗っていた。ところがである。或るとき信号待ちで停車していたら、前の車が同じベンツではあってもSクラスなのである。SはEよりも少し大きく、したがって値段が高い。私は早速、例の友人に電話した。
「Tさん、ベンツ、Sに替えたいんですが」
「どうしたんですか?」
私は横断歩道での信号待ちの際に前にSクラスのベンツがあって惨めな思いをしたと告げた。
「Eもいい車なんですけどね。まあ、Sにしたいのなら、さっそく探してみましょう」
彼は、いつものように、とても親切だった。
そして、すぐに、「きっと先生の気に入りますよ、見に行きましょう」と電話してきてくれ、私を助手席に乗せて中古車屋に連れて行ってくれた。
ワインレッドの車体に薄いアイボリー色の革の座席。私はこれも一目で気に入った。
その車を横にした私が、2006年5月の『ゲーテ』誌に出ている。56歳の私だ。若い。なんとも若い。幻冬舎の見城さんが手配してくれ、私についての記事を出してくれたのだ。「愛車は友人である元日本一のレーサーの見たて」とキャプションが添えられている。そういえば、三田のマンションの書斎の写真も出ている。綱坂に面したベランダに立った姿もある。向かいの緑は三井倶楽部だ。事務所での写真も出ている。いま、17年後にも同じ場所で同じ机に向かっている。椅子も同じだ。ただ、机の上のリングファイルはもう無い。パソコンの横の書棚においてあるピエタ像の写真は次男がローマから買ってきてくれたお土産だ。この時にもうあったとわかる。雑誌の記事では、その下になんと石原さんの署名の写真がある。「石原慎太郎氏が牛島のために署名してくれたジイド『地の糧』の一節」との説明が付されている。最新刊の『我が師石原慎太郎』にも書いたが、揮毫用の台紙にその一節を印字して持って行き、石原さんに頼んで署名してもらったのだ。あの石原さんの独特の署名。その左下には花押もあるようだ。「ナタナエル」を「ナタニュエル」と、石原さんが手書きで訂正してくれているのもわかる。石原さんが「こんな文学青年みたいなことするなよ、と私をたしなめながらも、丁寧にナタナエルをナタニュエルと手書きで訂正までしてくれた。」とその本に書いている(13頁)
2004年に私は事務所を青山ツインから山王パークタワーに移していた。『ゲーテ』誌の記事は、石原慎太郎さんと会い、彼の小説のために、文学の師である石原さんとしばしば電話で話をしていたころのことだ。
そのワインレッドの車との別れはしばらくしてやってきた。運転しているとハンドルががたつき始めたのだ。当然、すぐにTさんに相談した。
「そりゃ大変だ。事故を起こす前でよかった。すぐにM君に言って代車を出させましょう。買い替えなくっちゃいけません」とのご宣託だった。M君というのはTさんご贔屓の外車ディーラーの方である。
それで私はまた白のベンツに乗ることになった。ただしSである。この時は新車だったのだが、それがどういうわけでかスタート時にエンジンがかからないトラブルが重なり、同じタイプ、同じ色の中古車に乗り換えた。
未だ終わりではない。
その車を運転していて擦ることやぶつけることが重なったのだ。
心配したTさんが、「先生、Eに戻しませんか。小さいと運転、楽ですよ。私も最近はEを運転するけど、とっても楽」
F1ドライバーにとってすら運転が楽だというのだ。私は直ちに彼のアドバイスに従った。それが今乗っている車である。よく平気で乗ってますねと言われてしまいそうなほど、前のバンパーのペンキが削り取られ、右後ろのフェンダーにも凹みがある。私は気にならない。一度など、たまたま私の車を見たTさんが、「先生、たまには車洗ってやりなさいよ、可哀そうじゃないですか」と忠告してくれたくらいで、私は洗車にも神経質ではない。「フランス人は車を洗わない。彼らにとって車は下駄と同じで、別段汚れていても気にすることがないのだ。その点、日本人は愛車をとても大事にして、少しの汚れもとどめない」と読んだことがある。下駄とあったのを奇妙に感じたので今でもおぼえているのだ。私はフランス風ということになる。
最近はほとんど毎日運転している。事務所までほんの少しの距離だから歩いてもよいのだが、仕事の書類をたくさん持っている身なので叶わない。
ところが、それが理由だったがもう今の時代は書類を持ち運びしなくなってしまった。だから歩くことも可能なのだが、やはり車に乗る。大昔、小田実がそのデビュー作『なんでも見てやろう』のなかで、アメリカ人の車についての習慣として、歩いて3分のところへ行くにも車に乗ると嘆いていたが、いまはアメリカ人の気持ちが分かる気がする。ここではアメリカ人風ということになる。
さて、この脱炭素の時代、省エネの時代である。私は、世の中のため、そして自分自身の健康のために車の運転を廃した方がよいかなと考え始めている。まあそのうち電気自動車に替わるだろうと思ってもいるのだが。
23年前の年賀状には車を運転するのは「酒を飲まない日だけなので、限られたものです」と書いている。そのとおりだった。検事の時代、酒酔い運転で何人かを死に至らしめた青年被疑者の事件を扱ったことを今でも覚えている。取り調べに、「やおう行こうや、と言いながら皆で飲み始めたのですが」と供述していた。やおう、というのはやわらかく、という意味である。しかし結果は悲惨で、取り返しがつかないものだった。彼は交通刑務所へ行ったに違いない。
ところが、私はこの1年ほど前から酒をまったく飲まなくなってしまった。別に医者に止められたわけではない。体調が悪くなったのでもない。ただ、美味しくなくなり、そうなると酔っている時間というのがいかにも無駄な気がしてきたのだ。
最後のころにも、やはり仕事をした一日の後のビールの一口は人生の生きがいの一つだな、などと感じていたのだ。今でも、いっしょに食事する方がアルコールを飲むのを眺めていると、それがビールでもワインでもシャンパンでも日本酒でも、羨ましい気がしないでもない。しかし、もうアルコールの匂い自体を受け付けなくなってしまった気がする。
ビットブルガーというドイツ製のノンアルコールのビールをオークラのソムリエに紹介してもらったのも、アルコールと別れるきっかけになった。なんとも苦みが強くて美味しいのだ。これを飲みなれた今では、アルコールの入ったふつうのビールを飲むと、甘い。甘ったるい。アルコールというものはこれほどにも甘いのか、と思わされる。ベルギーの同じノンアルコールビールのビア・デザミ・ブロンドというのは、キャピトル東急のオリガミで教えてもらった。同じホテルの中華、星ヶ岡でよく飲む。フルーティな香りがあって、これまた乙なのである。
時間は飛んでしまうが、令和4年、2022年の年賀状に、「最近はアルコールとの縁が薄れつつあります」と書いている。つまり2021年にはお酒との縁が切れ始めていたのだ。終わりの始まり。あれほど飲んでいたのに、「今や後日談」になってしまった。実のところ、少し寂しいのである。
4歳違いの二人の息子が幼いころのこと、「お父さんの匂いはジン」という兄と「お父さんの匂いはブランディ―」という弟に分かれていた。その違いができた過程は私が努力して生活を豊かにしていった過程なのだろう。これももう昔のことである。
それにしても、私は「久し振りに車の運転をするように」なった2000年以来、ベンツ以外の車種に乗ったことがない。そもそも車に興味がないのだ。そういえば青山に事務所を開いた時には日産のローレルに乗っていた記憶がある。車生活の最初は、父親から兄が貰い、それをさらに私が貰い受けたマツダのルーチェという車だった。その後にホンダのシビックになり、日産のブルーバードに替わり、そしてローレルになったのだったか。ちょうど独立したときだと覚えている。1985年のことだ。
思い出す。そうした国産車に乗っていた時代には後部座席に二人の小さな息子二人を乗せて、毎週の日曜日に家族4人でドライブに出かけていた。千葉方面が多かった。運転している後ろから大きな声で歌う二人の声が聞こえてくる。「ヤーレンソーラン北海道」ときて「牛の歌でないかい」と下の子どもが私の右耳元にまで口を近づけて大声を出したのには閉口したものだった。九十九里まで行って、簡素な海岸の家で海老やサザエを焼いたものを食べ、いっしょにラーメンを平らげた。いつの年のことだったか、こどもの日に千葉のこどもの国という遊園地へ出かけて当然のように大渋滞に遭い、真夜中になってやっと自宅にたどりついたこともあった。今となっては、ただただ懐かしい記憶である。良き父親であった日々が私にもあったのである。
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写真)東京。イメージ。
出典)Photo by Eric Lafforgue/Art In All Of Us/Corbis via Getty Images
『人の心と会社経営』
【まとめ】
・非上場の場合、会社の株の過半数を持っていなくてはいけない。
・浮利は自分の心を蝕む、食い殺す。
・「リスクを取れ」の真意はリスクは取れ、しかし浮利は追うなということであろう。
私は漱石の『心』の初版本を持っている。11年前、2012年の5月に買った。ただし、1979年7月に日本リーダーズ・ダイジェスト社が出した復刻本である。4000円だった。
頁を開くとすぐに気づくのは、漢字にルビが振ってあることだ。それも全ての漢字にである。復刻された奥付を見ると大正3年9月20日発行とある。「夏目漱石」と刻まれた縦長の四角い印が左上から右下にかけて斜めに押捺されている。なんと緑色の印肉だ。
主にちくま書房の全集と種々の文庫本とで『心』を何回も読んだ私は、それらでは以下の「序」に出逢っていなかったはずである。しかし、どこかで読んだ記憶がある。たぶん、岩波の全集で読んだのであろう。
「装幀の事は今迄専門家にばかり依頼していたのだが、今度はふとした動機から自分で遣って見る気になって、箱、表紙、紙、見返し、扉および奥附の模様、題字、検印とも、悉く自分で考案して自分で描いた。」(序の後半)
夏目漱石という緑色の印も漱石自身が考案して描き、色も自分で決めたのだろう。
この本は朱色石鼓文で名高い。その模様をみると誰もが岩波書店の本だと思うと、世に知られ権威のある作家が評したことのある模様である。
私はこの複製の初版本の事件に新米弁護士としてかかわったことがある。リーダーズ・ダイジェスト社が岩波書店ほかの出版社等に訴えられたのである。初版本を復刻して出すのは法律違反だという言い分だった。記憶では不正競争防止法が根拠の一つであった。私は、検事を1979年の3月末に辞めて二人のアメリカ人である準会員と日本人の弁護士とがいっしょにやっている弁護士事務所に入ったばかりだった。準会員というのは占領の遺産で、アメリカの弁護士資格を有しているアメリカ人が、日本の司法試験に合格することなく法律業務の一部を日本で行うことができる資格を与えられ、日弁連の準会員となっていたのである。
この事務所はもちろんリーダーズ・ダイジェスト側であった。決して訴訟実務に長けていたというわけではない。おそらくアメリカの本社が迷うことなく選任したのが私が所属することになった弁護士事務所だったのであろう。事務所にアソシエートとして入ったばかりだった私は、検事をやっていたのだから供述書が書けるだろうということでチームの一員に選ばれたのだった気がする。私がリーダーズ・ダイジェスト社の従業員の方の陳述書を作成するためにいろいろ質問をしたのを、その方が「味方の弁護士のはずなのにまるで取り調べのようだ」という苦情を、私の上司であるパートナーに言い立てるという一幕もあった。
出身高校の東京での同窓会で三大紙の一つの敏腕記者の方と話していたら、社会部でこの件を取材しているとのことで、リーダーズ・ダイジェストがおかしいよと言われたことが印象に残っている。それまで検事だった身には、おまえは変なことをやっていると言われたこと自体が心外だったのだ。
この方は高校の3年先輩で、この件の後もいろいろな事件が起きるごとにお世話になった。
「オマワリとブンヤはツブシが利かない」という言葉があるが、その最良の意味で新聞記者とはこうあるべし、という見本のような方だった。
その記者の方は、時代は下ってバブルの時代、『煮えたぎる乱銭列島』という題での連載記事を書いておられ、そのうちの一回として当時私が携わっていた仮処分事件を取り上げてくれたことがあった。
「俺が書くときは、こんなじゃないからな」と言って両手の人差し指と親指で四角をつくり、「これくらいにはなるんだよ!」と左右の二つの指でつくった四角を大きく引き伸ばして見せてくれた。そのとおりだった。それが、その連載記事だったのだ。裁判所の心証に大きな影響を与えたと思っている。大成功だった。私が裁判官とメディアの関係に目覚めた最初の事件だった。
最近、非上場の少数株主対策という講演をした。そのなかで、私は、「非上場の場合は、会社の株の過半数を持っていなくてはいけない。」と力説した。「特に、番頭的存在のナンバーツーが危ない」と説明した。私自身の職業的経験に基づいての解説なのだ。似たような件をいくつもやってきているのである。番頭だからとトップは気を許して使っている。怒鳴りつけなくてもなんでも言うことを聞く。しかし、気の利いた番頭は株を手に入れれば会社を乗っ取ることができると知っているのだ。番頭という言葉が流行らないということなら、管理畑の専務と言ってもいい。そういえば私の最初の小説『株主総会』の主人公は総務部の次長だった。創業者が技術者あるいはセールスのプロといった会社の場合は、経理や総務と言った仕事をバックオフィスの仕事とし、軽い扱いにしてしまう。その結果、そうした仕事は番頭に任せがちになるものなのだ。
それが創業者の息子の世代へ会社が引き継がれると、後継者がアッと驚くような事態が待っていることがある。いつのまにか株が番頭、管理畑の専務の手に移ってしまっていることを後継社長である創業者の長男は発見するのだ。その番頭にしてみれば、準備の時間はたっぷりとあったのである。あるいは初めからそう企んでいたのではなかったのかもしれない。もともとはそんな野心なぞ無かったとしても、創業社長が認知症気味になってくると良くない心がむくむくと頭をもたげる。「考えてみれば、社長は売って回っていただけで、この会社をしっかり管理していたのはこの自分ではないか。つまりこの会社を大きくするための経営らしいことをしたのはこの俺なのだ」と、自らを納得させる理屈はいくらでも心のなかに浮かんでくる。社長の決裁がなければ譲渡禁止の株を動かすことなどできない。しかし、その社長は自分が認知症気味であることを周囲に隠そうとしていたら?番頭にとっては、目の前に丸々と太った子羊がいたということになる。
漱石の『心』のなかに、こんな場面がある。
先生が、主人公である語り手の「私(わたくし)」に兄弟の数を訊いたうえで「みんな善い人ですか」とたずねる。「私」は、「別に悪い人間という程のものもいないようです。たいてい田舎者ですから」
先生はここに引っかかる。
「田舎者は何故悪くないんですか」
そして、「先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。
『田舎者は都会のものより、却って悪い位なものです。それから、君は今、君の親戚などの中に、これといって、悪い人間はいないようだと云いましたね。然し悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型にいれたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それがいざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断が出来ないんです』」
このやりとりあと、しばらく二人で緑のなかを歩く。「私」は我慢ができず先生にたずねる。
「さき程先生の云われた、人間は誰でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか。」
しかし、先生ははっきりと答えない。「意味といって、深い意味もありません。―――つまり事実なんですよ。理窟じゃないんだ」
「私」が執拗に「『事実で差し支えありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際ということなんです。一体どんな場合を指すのですか』
先生は笑い出した。あたかも時機の過ぎた今、もう熱心に説明する張合がないと云ったふうに。
『金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐに悪人になるのさ』
私は先生の返事があまりに平凡過ぎてつまらなかった。」(『心』二十九)
『心』を読んだ方は、先生が田舎で叔父にどんなにひどい目に遭わされたのかを知っているだろう。父親を亡くした先生の財産を預かって、勝手に使ってしまったのだ。その上先生にその娘、従妹を娶(めと)らせようとする。
いつでも、どこでも、いまこの瞬間にも、起きていることだと私も知っている。
弁護士である私はもっと知っている。金を見たときが借金の返済に苦しんでいるときであれば、ふだんであれば出てこない手が喉から出てくる。人の世は恐ろしい。人は恐ろしい。
芥川龍之介は『侏儒の言葉』のなかで言う。(ちくま文庫全集7巻 178頁)
「人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことがない。・・・しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、また存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後に、腸加太児(かたる)の起こることもあると同時に、また存外楽楽と消化し得ることもあるのである。」
世に盗人の種の尽きない理由である。どんな犯罪でも必ず処罰されるなら罪を犯すものはいないだろう。追い詰められて、必死になって我知らず敢行してしまった犯罪。犯人はその罪の意識にしばらくはおののいている。ところが、なんと誰もなにも気づかずに過ぎてしまうことがある。よくある。
そうなると、止める理由がなくなってしまう。心が麻痺してしまうという表現があるが、あれである。勝ち続けている賭け事から降りるのは難しい。完全犯罪が実行できてしまったら、それを繰り返さないことは困難極まる。一回目にはそれを決して繰り返すまい、一度限りと固く心中に誓ってみても、次の誘惑に打ちかつことは難しい。
なにも犯罪といった極端なことに限るわけではない。
たまたま或る事情で、たとえば社外役員になるのなら自社株を持ってほしいと言われて買った株が値上がりしたところで退任して売却が自由になり、たんまりとキャピタルゲインを得たとする。今度はそうした事情がなくとも株を買ってしまう人はいるのではないか。二度目もうまく行ったら?二度あることは三度あるとなる。
私が浮利を追うことを蛇蝎のごとく嫌うのは、それが怖いからである。もし上手く行ってしまったら又繰り返さない自信が持てないからである。もし二回目も上手くいってしまったら?きっと三回目もする。なぜなら、もう自分の心が腐ってきているからである。浮利は自分の心を蝕む、食い殺す。浮利が得られるならば勤労なぞバカらしくなる。自分の心、魂といえども、一度腐ってしまえば元に戻すのは難しい。
しかし、他方で、いまの世の中にはリスクを取れという言葉が満ち満ちている。もちろん、その真意はリスクは取れ、しかし浮利は追うなということであろう。では、リスクと浮利とを結果以外で区分けすることはできるものなのだろうか。
そこで社外取締役が役に立つ?つまるところ、衆議を尽くしてその結論に従う、ということなのだろうか。それは、要するに、過度なリスクは取るなということであり、それではそれまでの議論がなにが過度なのかという議論にすり替わったにすぎない。
「完全市場の土俵では企業が資本コストを超えるキャッシュ・フローを獲得するというのは不可能な願い」(『[新解釈]コーポレートファイナンス理論』宮川壽夫 189頁 ダイヤモンド社2022年刊)と言われてしまっては、どうしたら良いのか。
いや、すぐあとには「企業価値の拡大は企業が資本コストを上回るキャッシュを獲得する以外に究極的には起こらない。」とある。(195頁)さらに、「いくつかの企業が株主価値の拡大に成功し、一方で株主価値を棄損し続ける企業が常に一定数存在する、というのが本当のところかもしれない。」とある。(197頁)
どうやら、やはり会社は経営者次第ということが現実の世界なのだろう。完全市場は議論のための仮定に過ぎないのだ。そこに、現実世界のどの部分を追加して分析するのかなのだ。
宮川教授はシュンペーターの破壊的創造について触れ、「帆を張って風の向くまま走行していても向かう方向はみんな一緒で行きつくところは同じ場所だ。・・・自分の企業だけがエンジンを積んでみんなが向かう方向とは異なる方向に舵を切る野心と勇気がなければ企業価値の拡大はとてもむずかしい。」と結ぶ。(199頁)まことに明快である。しかし、みんなの帆はあっちを向いているのに、独りエンジンをかけて別の方向に走ることには、まことに「野心と勇気」が要るだろう。
エンジンのついたボートが浮利の港に向かっているのかどうか。やはり結果論のような気がしてならない。経営だけではない。人生はすべてそうなのかもしれない。結果論というのは分析と準備の虚しさの言い換えだろう。世の中はなべてそんなものなのだろうか?
トップ写真:東京の道路。イメージ 出典:Benoist STbire / Getty Images
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html