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.国際  投稿日:2023/6/4

「天下第1の村」華西村の光と影(上)


澁谷司(アジア太平洋交流学会会長)

【まとめ】

・「華西村」は中国唯一の「人民公社」の成功例。

・呉仁宝は華西村を窮状から脱却させた「ストロングマン」。

・「農業と工業の同時発展」および「集団所有」にこだわり、華西村を再建。

 

周知の如く、毛沢東時代の中国では「大躍進」政策が実施された。その際、1958年頃から全国で「人民公社」が組織されたが、ことごとく失敗に終わった。結局、1980年代に入ると、ほとんどすべての人民公社は解体され、姿を消したのである。

ところが、中国で唯一「人民公社」での成功例があった。それが「天下第1村」と謳われた華西村(かせいそん)(a)である。

華西村には、貧民は存在しない。銀行口座に1000万元入っていなければ、自らを「華西人」と言わない。どの世帯も小別荘を持ち、村にはあらゆる種類の高級車が停まっている。華西村では、小さな洋風の家が何軒も並んでいて、街角ではベンツやBMWがあちこちで見受けられる。

他方、華西村には、30億元の超高層ビルもある。かつて、華西村は想像を絶するほどの富を蓄えていた。

けれども、時を経た今、華西村は400億元(約8000億円)近い負債にさらされ、村全体が債務超過に陥っている。

さて、1960年代に建設された華西村は、江蘇省江陰市華西鎮にある。当初は、村全体が借金まみれの状態だった。村人たちは食べるのに困るほどであった。華西村の若者達は、あまりに貧しく嫁をもらうことすらできなかったという。

そんな中、華西村を窮状から脱却させた人物が現れた。「ストロングマン」の呉仁宝である。1961年、呉仁宝は華西村党書記(同村トップ)に任命された。

村人が毎日、米を食べられるようにするため、まず、呉仁宝は“農業の発展”を考えた。そこで、呉仁宝は村人を率いて発電所を建設し、水路を修復した。苦労の末、6、7年かけて、痩せた土地、1万ムー(667ha=6.67㎢)を良田に変えた。1972年、華西村の穀物収穫量が1ムー当たり1トンを超えたという。そのため、村人はもはや飢えることがなくなった。

華西村は衣食住の問題を解決しただけでなく、農村改造のモデル村となった。しかし、呉仁宝は、“農業の発展”は単に胃袋を満たすだけであり、人々が豊かになるためには、“工業の発展”が重要であることを理解していた。

そこで、呉仁宝は村民の先頭に立って副業を始めた。呉は、一方で、農業を行い、また一方で、小さな金物工場を設立している。

その工場は決して大きくはなかったが、生産開始後,村全体の収入が増加した。1976年、華西村工業の副業生産額は28万2000元に達し、村人1人当たりの所得が大幅に上昇したのである。

1980年、北京政府の農村改革(「契約責任制」)の実施に伴い、土地を各世帯に分配する必要に迫られた。だが、華西村は人口過多で土地が少ない。もし、一律に土地分配を行えば、各世帯に少しの土地しか配れない、と呉仁宝は考えた。

そこで、呉仁宝は華西村の実情に合わせ労働力を合理的に配分し、“農業と工業の同時発展”を目指したのである。

呉仁宝は20~30人の優秀な農業従事者に5~600ムーの土地を契約させ、彼らを農業への従事に特化させた。そして、残りの人材で郷鎮企業を発展させることにした。

その直後、呉仁宝は製鉄所や紡績工場などの建設に奔走している。同時に、呉仁宝は“集団所有”にこだわり、村民一人ひとりが村の企業に貢献することを奨励した。こうして、村民の労働意欲も高まった。 

1992年、鄧小平の「南巡講話」後、呉仁宝は、近い将来、“工業の発展”は必ず新しいピークを迎え、これもまた華西村発展のチャンスとなると考えた。

そこで、同年3月、呉仁宝は会議を開き、極めて重要な決断をした。江陰市銀行から1000万元を借り入れ、その全額で建材の原料を購入している(当時、1000万元といえば、天文学的な金額だった)。

ところが、2ヶ月も経たないうちに、呉仁宝の予想通り、これらの原材料価格が急騰し、華西村は巨額の利益を得た。これで華西村は金持ちになる道に一歩近づいている。

1994年、鉄鋼、繊維、化学工業など45社を保有した「華西集団」が設立された。これで、華西村の名声は一気に高まった。華西村に学ぶため、あるいは、観光するため、村を訪れる人が急増している。呉仁宝は観光業にも目を向け、ホテルや観光施設を建設し、外地観光客を誘致した。

中でも、華西村の各世帯から1000万元を拠出して建設された「龍希国際ホテル」(総投資額30億元)は有名である。観光、会議、娯楽等、必要なものはすべて揃っていた。

特筆すべきは、このホテルの60階に「時価3億元の黄金牛の像」があることだ。さらに、ホテル最上階にヘリコプター離着陸場もある。村はヘリコプターを2機購入し、観光客向けに「華西からの空撮」を専門に行った。

華西村の観光開発が進んでから、村は年間250万人の観光客を受け入れた。そして、鉄鋼、紡績、観光が当時の華西の三大柱産業となっている。

1999年、華西村は証券取引所への上場に成功した。その時、華西村企業の総資産は550億元に達していたという。 

(下につづく)

 

〔注〕

(a)『中国瞭望』「華西村の豊かさと衰退:一人毎のベンツや別荘から村全体400億元の負債まで」(2023年5月28日付)

(https://news.creaders.net/china/2023/05/28/2609608.html)。

**本記事は、上記事「華西村の豊かさと衰退:一人毎のベンツや別荘から村全体400億元の負債まで」(2023年5月28日付)の翻訳です。

トップ写真:江陰市華西村の龍渓ビルとタリン公園 出典:jia yu/Gatty Images




この記事を書いた人
澁谷司アジア太平洋交流学会会長

1953年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。東京外国語大学大学院「地域研究」研究科修了。元拓殖大学海外事情研究所教授。アジア太平洋交流学会会長。

澁谷司

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