福島県相馬野馬追、地域力の強さを象徴
上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)
「上昌広と福島県浜通り便り」
【まとめ】
・福島県相馬野馬追に県関係者が招待されないのは、相馬の歴史を反映。
・福島は明治政府が作り上げ、内務省が仕切った国と県の組織と、市町村は全く別もの。
・地方の活性化は喫緊の課題。野馬追は日本の地域力の強さを象徴している。
7月29日〜30日、福島県相馬地方で開催された野馬追(のまおい)を見学してきた。東日本大震災から13年連続13回目の見学だ。戦国時代の鎧兜をまとった約370騎の騎馬武者が街中を行進し(御行列)、南相馬市内の雲雀ヶ丘祭場では、鎧兜を着けたままで競馬(甲冑競馬)や、打ち上げられた神旗を奪い合う騎馬戦(神旗争奪戦)を繰り広げる。
一度でも見学すると、その迫力に圧倒される。ハリウッド映画顔負けの一大スペクタルを、地方都市が単独で提供するなど、私は相馬以外では知らない。
野馬追は相馬の歴史を反映している。今年の野馬追には、大学時代の剣道部の一年後輩で、総務省大臣官房審議官を務める中井幹晴氏を誘った。勇壮な騎馬武者姿に衝撃を受けたそうだが、彼の官僚らしいコメントが興味深かった。
彼と私は、土曜日に相馬市が主催した前夜祭に参加した。その場には西村康稔経済産業大臣など、多くの著名人が参加していた。ところが、中井氏によれば、「大臣や国会議員、さらに各地の市長は参加しているのに、知事はもちろん、県庁関係者はほとんどいない」というのだ。
内堀雅雄福島県知事は、中井氏の総務省の先輩だ。野馬追でお会いしたら、挨拶でもしようと考えていたのだろう。彼の予想は外れた。
▲写真)中井幹晴氏、南相馬市内の御行列を見学しているところ(執筆者提供)
私は13年間、野馬追に参加しているが、このことに気づいたのは初めてだ。ただ、中井氏の発言は、相馬という土地の特徴を端的に言い表している。なぜ、福島県庁関係者が野馬追に招待されないのか。これこそ、相馬の歴史を反映しているといっていい。本稿で論じたい。
相馬の歴史は苦労の連続だった。戦国時代、相馬家は伊達家と抗争を繰り広げた。伊達家は60万石を誇る強大な大名だ。その武力は相馬家(6万石)とは比較にならない。伊達家に周囲の小大名は全て滅ぼされた。独立を保ったのは相馬家だけだ。相馬家は生き残りに懸命だった。彼らは、軍事力を強化せざるを得なかった。最終的に、伊達氏とは通算30回以上も戦い、その軍門に下らなかった。
当時、伊達家と対抗するため、相馬家が頼ったのは常陸(現在の茨城県)を治めた佐竹氏だった。ところが、関ヶ原の合戦では、佐竹氏と共に中立を守った。戦後、石田三成と親密だった佐竹氏との関係から、西軍に加担したと見なされ、改易された。訴訟を起こし、徳川家康の謀臣本多正信の取りなしもあり、本領を安堵されている。
その後、本多氏が失脚すると、譜代の名門土屋氏から養子を貰い、幕府との関係強化に努めた。第19代相馬忠胤(1637-73)の頃の話である。これ以降、相馬家は「譜代並み」の扱いを受けることとなり、第23代相馬尊胤(1697-1772)の代に、正式に譜代大名へと昇格した。
その後も相馬藩は何度も危機を経験する。日本近世史上、最大の飢饉と言われる天明の飢饉(1782-88)では壊滅的なダメージを受けた。死者は1万6,000人にのぼり、領内の人口は3万4千人にまで減った。赤子を葬る間引きも流行したという。
この状況に危機感を抱いた相馬藩は、他国の農家の次男・三男を移民させて農業の復興をはかろうとした。呼びかけに応じたのが、越中の浄土真宗の門徒たちである。今でもこの地には「番場」など北陸の姓が多いのは、このためだ。
その後、天保の飢饉(1833-9)でも打撃を受けた相馬藩は1845年、二宮尊徳が唱えた「二宮仕法」を導入した。中心的な役割を担ったのは、尊徳の弟子で相馬藩士だった富田高慶である。その中心的思想は質素倹約、協働、互助。これ以降、相馬藩の窮状は急速に改善し、1849年(嘉永2年)には報徳金1,700両が家臣団救済のために貸し出されるまでになったという。
余談だが、明治となって二宮一族は逼迫した。相馬藩は尊徳の孫にあたる二宮尊親一族を相馬へ迎え、相馬の農地改革を委ねた。その後、尊親は1897年(明治30年)に北海道開拓移住団を組織し、現在の中川郡豊頃町に二宮農場を開いた。二宮尊徳の取り持つ縁で、相馬市と豊頃町は姉妹都市となっており、豊頃町からは毎年、野馬追に見学者が訪れる。
幕末でも相馬藩は苦労する。会津藩を筆頭に、東北地方の雄藩は戊辰戦争で敗れ、その後の戦後処理で憂き目を見る。その影響は現在も残る。
相馬藩はそつがなかった。積極的に戦う姿勢を示すことはなく、上手くやり過ごした。仙台藩からの圧力もあり、奥羽列藩同盟に参画したものの、新政府軍が浜通りを北上し、相馬領に近づくといち早く降伏した。戊辰戦争後、軍資金1万両を新政府に献上し、所領は安堵された。
この時も相馬家は独自のネットワークを使った。頼ったのは久保田藩(秋田藩)だ。戊辰戦争の際、久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱し、新政府軍に参加した。久保田藩は庄内藩、盛岡藩などと戦い、領内は大きな損害を蒙ったが、新政府軍にとって精強な庄内藩と盛岡藩を引きつけてくれた久保田藩の存在は大きかった。明治となり久保田藩は厚遇される。
実は、最後の久保田藩主佐竹義堯は相馬中村藩の出だ。相馬中村藩第11代藩主相馬益胤の三男である。相馬家は戊辰戦争の窮地を戦国時代以来の佐竹家の縁にすがって生き延びたという見方も可能だ。
1869年(明治2年)、相馬藩は中村藩となり、第13代藩主の誠胤が知事に任命された。1871年(明治4年)の廃藩置県で知事を免職となるが、相馬誠胤は子爵に任命され、貴族として生き残った。
現在も相馬家は、この地域の精神的支柱だ。例年、野馬追の総大将は相馬家の男子が務める。今年は相馬中村藩主相馬和胤氏の長男である相馬言胤氏(14)が務めた。
これが今にいたるまでの相馬の歴史だ。繰り返し訪れた危機に、独自のネットワークを活用し、生き延びてきた。多くの徳川家の旗本や譜代大名たちが、徳川家の権威を頼り、幕末から明治にかけて何もしなかったのとは対照的だ。自力で活路を切り拓いた。この伝統は今も引き継がれている。
福島第一原発事故の被災地は、その大部分が旧相馬藩領だ。この地域は、鎌倉時代以来、様々な困難を克服しながら、強い地域コミュニティを作り上げてきた。阪神淡路大震災と比べて、東日本大震災後の浜通りで孤独死が少なかったのは、このような地域力のためだ。
岸田政権は福島第一原発の汚染水の放出をきめた。折角、復興しつつある浜通りの漁業は、深刻な風評被害を蒙るだろう。ただ、持ち前の地域力を活かして、やがて克服するはずだ。
この地を訪れると、国と地方の関係を考えざるを得ない。江戸時代まで幕藩体制という分権制だった日本は、明治維新で中央集権国家となった。明治政府は内務省が地方を統括した。県知事は中央から派遣され、初代福島県知事(県令)は土佐藩出身の清岡公張だ。第5代の三島通庸は薩摩藩出身で、高圧的施策で福島事件を起こしたことで知られている。
官選知事時代の44人の知事のうち、30人が西国出身だ。うち11人が薩長土肥の出身者である。福島県が中央に「隷属」していたことがわかる。
福島では、県と市町村の間に大きな溝がある。明治維新で、歴史的に別の地域であった会津・中通り・浜通りを合体させた福島県は、150年以上が経過した現在も、いまだ一体化していない。福島では、明治政府が作り上げ、内務省が仕切った国・県という組織と、村落共同体に根ざす市町村は、全く別ものなのだろう。歴史的経緯もあり、相馬は福島県に依存していない。だからこそ、野馬追に県庁関係者が来ていない。総務官僚である中井氏は、このあたりを敏感に感じ取った。
統治体制の変遷とともに、国や県という行政機構は変わる。一方、村落共同体は、そこに人が住み続ける以上、永久に続く。野馬追が1000年にわたり継続されているのは、その証左だ。人口減が続く我が国で、地方の活性化は喫緊の課題だ。野馬追は、日本の地域力の強さを象徴している。地方活性化の参考になる。
トップ写真:相馬野馬追祭の様子 2004 年 7 月 24 日 福島県 相馬
出典:Photo by Koichi Kamoshida/Getty Images
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この記事を書いた人
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長
1968年生まれ。兵庫県出身。灘中学校・高等学校を経て、1993年(平成5年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、1995年(平成7年)から東京都立駒込病院血液内科医員。1999年(平成11年)、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論、医療ガバナンス論。東京大学医科学研究所特任教授、帝京大学医療情報システム研究センター客員教授。2016年3月東京大学医科学研究所退任、医療ガバナンス研究所設立、理事長就任。