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.社会  投稿日:2023/9/13

平成24年の年賀状「リチャード・W・ラビノウィッツ先生のこと」・「様々な葬儀のこと」 


牛島信弁護士・小説家・元検事)

年頭に当たり皆々様の御健勝をお祈り申し上げます。

 昨年もいろいろな方にお世話になりました。お礼の申し上げようもありません。

 春夏秋冬、仕事に明け仕事に暮れました。三月十一日にも小舟のように揺れる会議室にいました。その時に何が起きていたのかを思うと、胸が痛みます。

 毎月、鞆の浦に参上しました。故郷広島へのささやかな恩返しです。

 毎日のように本を買い、深夜、時間を盗むようにして読み耽ります。自分でも『この時代を生き抜くために』というエッセイ集を幻冬舎から出しました。日経ビジネスオンラインには『あの男の正体』という小説を連載中です。どちらも締め切りあればこそ、です。

 毎晩、決まって漱石の『』を読んで眠りに入ります。

 

 徳島へ行ったとき、お腹を空かした猫に出逢いました。今頃どうしていることか、ふと思い出すことがあります。アラカンの弁護士のような、まだ名前のない猫かと近寄っていくと、「余計なお世話。私はハナコ、2歳です」と鳴かれて逃げられてしまいました。

『リチャード・W・ラビノウィッツ先生のこと』

【まとめ】

・師ラビノウィッツ弁護士の口癖は「私は世界のどこへでも出かけていきます。ただし、仕事の必要があれば」。

・私は今も人生を見つけたという気がしていない。

・罪の意識は一定時間働けばその後つかの間だけは消える。私は、その間に、時間を盗むようにして文章を書く。

 

そうだった、2011年3月11日の地震の瞬間、私は「小舟のように揺れる会議室に」いたのだった。永田町にある山王パークタワーの12階の会議室で、インドから訪ねてくれた弁護士さんと話をしていたのだった。

彼は、「いつも日本ではこんなに揺れるのか?」とたずね、私は、「いや、こんなに強い地震は珍しいよ。」と答えた。

船酔いしそうな揺れが、ゆっくりと大きく、長く、いつまでも際限なく続いた。ちょうど秘書がお茶を運んできてくれた時だった。しかし、彼女も私も彼も、テーブルの下に隠れることもなく、座ったままでいた。

私は、揺れを感じながら、秘書に、「ずいぶんゆっくりと揺れるね。どこが震源地なのかな。」と話しかけた。もちろん、彼女が知っているはずもない。黙ったまま微笑んでかぶりを振った。

インドの弁護士さんは、揺れが収まると落ち着かない様子で立ち上がり、角部屋であるその会議室の窓二つ、首相官邸側の窓と溜池側の窓越しに熱心に遠く、近く、外の風景を眺めていた。

私も立ち上がって窓際に行き、私たちはそこで立ったまま会話を続けた。

 

エレベータは停まってしまっていたとの報告を受けた。

「12階からだから、歩いても大したことはないだろう」と私は彼に言った。

だが、間もなくエレベータは復旧した。彼はなにごともなかったようにエレベータのなかに入って行き、ドアは当たり前のように閉まった。いつもどおりだった。

「先生、このビルは地震になると有難味がわかりますよ。共同事業者であるオーナーの方が非常にビルの強度についてうるさい方でしてね」と三菱地所の専務だったM氏が、私がこのビルのスペースを借りた当初に言っていたことを思い出し、なるほどこういうことかと感心した。現に、借りているスペースで壊れたところはほとんどなく、レセプションの天井に少しだけヒビが入った程度のことだった。

 

どこか、東京以外のどこかで大きな地震があったのだろうと漠然と考えていた。しかし、震源地がどこであるにせよ、あの津波は予測できようはずもなかった。

夕方近くになると、こんどは人の津波がビルを襲った。目のまえの外堀通りが、帰宅を急ぐ人々で埋まり始めたのだ。

「帰宅できない人たちが20人くらいいます。」と事務方の責任者が私に状況を報告してくれた。その人たちには今晩はこのビルに泊まってもらいます」とのことで、すべて秘書の女性たちとのことだった。私は、先ず、水と食料が非常用に備蓄されていることを思い出して少し安心した。だが、寝具は望むべくもなく薄い掛物があるくらいのことだった。

 

あれから12年になる。

2万人が亡くなった。

その前は、1995年の1月17日だった。28年前のことである。私は南青山のツインビルにオフィスを構えていた。独立して10年。未だ45歳だった。もちろん関西での地震は東京のビルを揺らすことはなかった。ただ、高速道路が根本から折れてしまった画像を覚えている。

 

次は、いつ、どこで?

わかろうはずはない。わからないままに、毎日を平穏に暮らしてきた。これからも、防災にさらに気を配りながら、平穏に生きてゆくことを願うしかない。訪ねてきた日本の法律事務所で大地震に遭ったインドの弁護士さんからは、後日、無事に帰国したとの連絡があった。

 

そういえば、ニューヨークに滞在中に古い高層ビルのエレベータが停まったことがあった。44階だったかにあるアメリカの法律事務所を依頼者とともに訪ねていた折だった。

あれは地震だったのか、それとも停電かなにかだったのか。その法律事務所がビルのオーナーの顧問弁護士事務所だからと特に頼んでくれて、荷物用のエレベータで無事降りることができたのを覚えている。

他にもニューヨークでは、ホテルのエレベータに閉じ込められてしまったことがあった。非常用のボタンを押して、電話で助けを求めるしかなかった。以来、いつもエレベータに乗ると床の大きさをつくづくと眺める。横になることができる広さかどうかが気になるのだ。生きているといろいろな目に遭うと知っている。

 

鞆の浦に通うことになったのは、旧知の湯崎英彦広島県知事からの電話がきっかけだった。風光明媚の地である鞆の浦に橋を架ける埋め立て計画があり、裁判所が埋め立て免許を差し止める命令を出したのだ。10月に広島地方裁判所の判決があって、11月に湯崎さんが知事に初当選したばかりだった。長い間の懸案だったが、これまで埋め立て賛成派と反対派が同じ席に就いて話し合ったことがない。だから、その話し合いの場を設定するので進行役をしてほしいという依頼だった。

もう一人の進行役、大澤恒夫弁護士と2年間、毎月一回鞆の浦に通った。彼は静岡から、私は東京からだ。

私は、故郷広島に恩返しせよという天の声だと感じていた。

まことに「ささやかな恩返し」だった。

 

私は湯崎知事の発想、これまで話し合ったことのなかった埋め立て賛成派と反対派の両派が話し合うことのできる場所を初めて設定し、それを県ではなく第三者である進行役に委ねるという発想に感嘆した。素晴らしいと思った。そうした場に立ち会える機会を、私自身にとっては天命だと感じた。当時、大阪の橋下徹知事がメディアで絶賛されていた。動と静。私は、目の前の湯崎知事が橋下さんの動に対する静の知事として、同様に優れたリーダーだと感じ、そう口にもした。

 

しかし、お役に立てたのかどうかは今でも半信半疑である。私は検事を2年やってビジネスの弁護士をやってきたに過ぎない。とにかく、当事者ではない第三者であることが大切なのだと毎回自分に言い聞かせていた。

鞆の浦のどこにも素晴らしい人々がいて、なるほど世の中はそのように出来ているものなのかと思わされた。日本の津々浦々、どこも同じに違いない。私のように、ビジネスの観点から物事を眺め、常々、世界は東京とニューヨークとロンドン、それにその他と思って仕事をしてきた人間には、鞆の浦では学ぶことばかりだったような気がする。

 

このころも、今と同じく、「毎晩、決まって漱石の『心』を読んで眠りに入」っていたのだ。いや、今は読むのではなく、聴きながらいつともなく寝入ってしまっている。私のひそやかな世界が増えた。画期的に増えた。散歩中も聴く。

 

徳島に行ったのは、弁護士会の用件だった。外国弁護士制度についての説明に、日本弁護士連合会の外国弁護士委員会の委員長をしていたので、徳島の弁護士会の方々にその話をしに行ったのだった。

「徳島に行ったら、大塚美術館を訪ねるといいですよ」と私に教えてくれたのも三菱地所の専務をしていたM氏だった記憶だ。

「陶器のタイルで、世界の名画を再現しているばかりか、システィナ聖堂にいたっては、そのままが建物ごと大きく造られているんですからね」という触れ込みだった。そのときだったか、丸の内のオアゾにピカソのゲルニカがありますよ、とも教えてくれた。

鳴門海峡の渦潮はどんなだろうという思いと興味もあった。

 

そう書いていて、不思議の感に打たれる。

今の私は、徳島に行くことはできるが、美術館を訪ねにはいかない。鳴門の渦潮も拝む気になれない。

そうだった、私の師匠だったラビノウィッツ弁護士の口癖が、「私は世界のどこへでも出かけていきます。ただし、仕事の必要があれば」だった。名所旧跡にはなんの興味もないと言っていた。私はラビノウィッツ先生の下でまる6年間働いた。

私がロンドンに出張と決まると、ここでこの人、あちらでこの人に会ってこいという指示をくれた。もちろん私が担当していた依頼者である。

 

山中湖を見下ろす大きな別荘地の一角に、窓枠がそのまま富士山の絵の額縁になっている別荘を持っていて、自分が使わないときに若い弁護士だけで出かけて使うことを許していた。パートナーのアーサー・K・毛利が別荘開発会社をやっていて、その特別な一角なのだという話が伝わっていた。

別荘を使わせていただくとき、オフィスの廊下で私に向かって立ったまま、

「ラビノウィッツは、ほら、こう指先が不器用ですから」と、自らモンキージャパニーズと称する日本語で呟きながら、キーホルダーから別荘の鍵を取り分けて渡してくれた。アメリカ人と日本人の夫婦とその間の子ども、日本人同士の夫婦とその間の子どもの6人が一晩、その絶景の別荘に遊んだのだった。子どもが一人だったころのことだから、私は未だ30歳そこそこだったことになる。

 

ラビノウィッツ先生は、今となるととても懐かしい。私がラビノウィッツ先生と仕事の話をしたのは、1985年が最後だろう。なぜなら、その年の4月18日にはすでにアンダーソン・毛利・ラビノウィッツ法律事務所を辞め、新しい事務所で働き始めているからだ。私は35歳、ラビノウィッツ先生はたぶん60歳くらいだったろう。

どうして自分の事務所から弁護士が次々と辞めてしまうのか不思議でならないと言って、辞意を告げた私をランチに誘ってくれた。ところが私が移る先の事務所がコンペティターだと分かると、突然秘書を通じてランチの約束をキャンセルされてしまうということがあった。そういうものなのかと納得するほかない。私はもうかわいいアソシエートではなくなってしまったのだから。

 

飛び切りの思い出は、民法の解釈を巡っての日本人弁護士4,5人との議論のときの彼の言動だった。彼の広い部屋で民法の議論していたのだった。

日本人の弁護士が、条文上はそう書かれていても、こう解釈するんですよ、と言って議論を打ち切ろうとする。しかし、彼は納得しない。

時間が経っていく。8時は回っていたろう。H弁護士が腹が減ったのか、やにわにコーヒーテーブルの上に置かれた砂糖の袋を掴み上げると破り開け、ザーッと口のなかに開けた。妙に印象に残っているシーンである。

ラビノウィッツ先生は、自分の大きな机の上に置かれた六法全書、未だ一冊本だった六法全書を掴み上げ、強い近眼の目から眼鏡を外し、民法の該当条文の頁に目をこすりつけるように近づけて、「でも条文はこうなっているじゃないですか」と日本語で読み上げた。私はラビノウィッツ先生が、日本法の問題なのだからといって日本人の弁護士に任せきりにしない態度に素朴に感動した。法律家の鏡だと思った。

 

若かった私は、毎夜、帰宅すべく東西線の浦安駅を降りてからの15分、独り歩きながらラビノウィッツ先生と英語で仮想問答をしていた。人影のないのを幸い、声を出してラビノウィッツ先生に英語で事実関係を説明し、ラビノウィッツ先生の質問も自分で考えだして英語で喋るのだ。そんなときがあった。検事で2年遅れたという焦りが私を駆り立てていた。

そういうことがあって、その時はそれなりに夢中になっていて、そして多くのことが記憶の闇に潜り込んでしまう。二度と浮かび上がっては来ないだろう。そして私の死とともに永遠に消え去る。

 

ラビノウィッツ先生は人生を楽しんでいたのだろうか?時間が空くと気軽に若い日本人弁護士に声をかけ、運転手さん付きの白いトヨペット・クラウンでアメリカン・クラブへランチに乗せて連れていってくれた。そして、「僕はね、若いときには学者になりたかったんだよ。そのために勉強していてね、それはそれは楽しかったな」と何回か言われた。週末ごとに山中湖の別荘で樵のまねごとをしているのだと噂を聞いたこともあった。

 

ラビノウィッツ先生に弁護士業の手ほどきを受けた私だが、学者になりたいと思ったことはない。もちろん樵のまねごとはしたこともない。すると、私は人生を愉しんだことはないということになるのだろうか。確かに私にとって仕事は、家族を養うための金を稼ぐことと自らの能力の証明のためにあった。その他の時間は?仕事をしない時間は、すなわち罪を犯している時間だという潜在意識がいつも付きまとっていた。まるでマックスウェーバーのプロテスタンティズムの倫理である。

10代のころ、人生は東大に入ったその後から始まる。どんな人生が?そいつは東大合格以前に考えても意味のないことだ。そんな風に考えて受験勉強をしていた。すると、昭和44年、1969年には東大入試が中止になってしまった。

 

私は今も人生を見つけたという気がしていない。そもそも人生というものが、そのように、見つけることのできるものとしてこの世に存在し得るのかどうか。それすらも分からない。

私にとって確かなことは、目の前の仕事を片付けるのは罪の意識を免れる唯一の方法であるということである。鷗外流に言えば「日の要」ということになるのだろう。或いはこれも一種の人生観ということになるのだろうか。はた迷惑な人生観なのかもしれない。

幸いなことに、罪の意識は一定時間働けばその後つかの間だけは消える。私は、その間に、時間を盗むようにして文章を書くのである。

 

 

『様々な葬儀のこと』

【まとめ】

・いつも、なにかしらが起きていて、誰かしらにお世話になっていて、誰かしらに不本意ながらご迷惑をかけて、生きのびて来ている。

・いろいろな葬儀に出席したが、いろいろな物語があった。

・コロナになってからは葬式というものが流行らなくなってしまった。これは過去の時代の物語。

 

おや、この年の年賀状には「昨年もいろいろな方にお世話になりました。」と2行目に書いている。一見なんのことはない数行である。一般的には年賀状にあって少しもおかしくない文言でもある。

しかし、私にはわかる。それまでの年賀状には見かけない記載であって、奇妙であることが。私の年賀状の書きぶりではない。記憶にはないのだが、きっとあの方とあの方に大変お世話になったという具体的な方々の顔を思い浮かべて、年賀状を通じて謝意を表したいと考えた末、敢えてそう書いたのだろうか。

もしそうなら、「お礼の申し上げようもありません」というほどのお世話になったということがあったに違いない。それなのに、もう思いだすことができない。ほんの12年前のことである。2011年になにがこの身に起きたのか。感謝しなければならないと強く感じるようなどんなことが起きたのか。

あるいは、面と向かってお礼を申し上げることがはばかられるような事情、たとえば私立学校の理事長に知り合いの入学の世話を頼んだら、合格となった、しかし、それは相手もそんなことで礼を言われてもなんのことか分からない振りをするしかない、と言ったたぐいのことだったのだろうか。

思い当たることはない。そんな真似をしたことはない。

では、なにを?

 

なにはともあれ、いつも、なにかしらが起きていて、誰かしらにお世話になっていて、誰かしらに不本意ながらご迷惑をかけて、生きのびて来ていることは間違いない。

それどころか、私のことを「あいつ死ねばいいのに」と思っている人も何人かいるのかもしれない。こちらには心当たりはないのだが、弁護士という仕事をしているから代理人に過ぎないにもかかわらず恨まれることは何回もあった。

そういえば、昔、若い検事だったころ、若い裁判官と話したことがある。彼が或る年配の検事を批判し、「あいつ死ねばいいのに」と非難の言葉を口にしたのだ。私が驚いて「え、裁判官がそんなこと言っていいの」と問い返すと、「いいんだよ。殺すとは言ってないだろう、死ねばいいと言っただけだ。それは許される範囲だろうさ」と答えた。私はその機知に納得し、大いに感心もした。あの男も、もう裁判官はしていない。

 

2011年の年賀状が存在しない理由は、2010年に父親が亡くなったからだ。95歳だった。喪に服して賀状を遠慮するのは、広く行われた慣習だった。喪に服するというからにはなにかの信仰のあってのことかというと、そういうわけでもない。ただ、世間でそれが行われているからというだけ事情だろう。

私の母親は2005年に亡くなった。87歳だった。だから2006年の年賀状も存在しない。

母親の葬式は広島で営んだ。私は55歳。友人のメディア・コンサルタントの方が新聞に働きかけてくれ、母親の死去を死亡広告として掲載してくれる運びになった。

それだけなら何ということはなかったのだが、秘書を通じて長年の依頼者の一部に知らせた。その結果、広島での母親の葬儀に副社長さんが二人もご出席くださることになってしまった。

私は少なからず慌てた。世間ではそういうことが起きてしまうのだと反省した。大変申し訳ないことをしてしまったと今でも思っている。東京から朝の飛行機に乗って葬儀会場に駆けつけてくださったのだ。私が秘書を通じて依頼者の一部に母親の死去を伝えたのは、花輪を出していだたければありがたいという考えがあったからだろう。これも今思えば恥ずかしいことである。母親が亡くなってしまったのは、もちろん子どもである私には悲しいことだった。だが、仕事のうえでお付き合いさせていただいている方々には何の関係もないことである。それを、わざわざ知らせれば、それも葬式に間に合うように知らせれば、放置するわけにはいかないと考えてくださった会社があったということだ。

もちろん、今でもどこの誰、あそこのあの方とよく覚えている。帰りの飛行機便が羽田上空で待機を余儀なくされ着陸がひどく遅れてしまったというアクシデントもあった。二重にご迷惑をかけてしまった。よく覚えている。

 

葬式といえば、こんなことがあった。

或る顧問先の会社の社長のご母堂が亡くなられた。このときには会社のほうから、葬式の日時を知らせたうえで、出席の要請があった。未だ若い弁護士だった私は、わざわざ知らせくださっただけでなく葬儀への出席まで期待してくださったことが嬉しかった。喪主である社長がキリスト教徒であったから、キリスト教式の葬儀というものに初めて出席したのだった。私にとっては、妙なことだが、晴れがましい式だったということになる。

以来、何回仕事で存じ上げている方のご母堂の葬儀に出席したことか。どういうわけかご母堂ばかりだった気がする。列に並んでいると会社の方が私の存在に気づいて、「先生、こちらへ」と声をかけてくださることが多い。すると、前に並んでいる方々に頭をさげて先導された格好で急ぎ手を合わせて早々に退出することになる。

 

盛大な式だったのは、河村貢先生の葬儀だった。

河村先生には生前可愛がっていただいた。ご尊父以来の三菱地所の顧問弁護士でおありになり、また日本生命の社外役員でもあられた関係で、いろいろ仕事の面でお教えを乞うことが多かったのだ。もちろん、三越事件の本は興味深く拝読した。

また、あるときには、私の事務所が当時あった青山ツインタワーの地下1階でお姿をお見かけしたことがあった。私がご挨拶すると、強制執行の現場に立ち会っていらっしゃるというお話だった。私が少し驚いて、「え、先生のような大先生がそんな事件でご出馬になることがあるんですか」と申し上げたら、河村先生は、「私は弁護士ですから、どこへでも行くんですよ」と、さらりと仰られた。私はなるほどと感心した。どんなに弁護士として名声を博していらしても、自分は弁護士であるから仕事をする人間なのだというお気持ちが痛いほど伝わってきた気がしたのだ。

その河村先生のご葬儀は上野寛永寺で、いわば三菱地所葬といったもののように執り行われた。私の存じ上げている三菱地所の方々のお顔を何人も拝見した。もちろん、日本生命の方々もいらした。河村貢弁護士の会社法務における偉大な存在感が横溢した葬儀だった。

 

こんな葬儀にも出たことがある。

或る顧問先である。著名な会社で、会長が亡くなられたので青山葬儀場で大きな社葬が営まれたのだった。私にも出席の要請があり、当然のように出かけた。もちろん、黒服に黒ネクタイである。青山1丁目の駅から葬儀場まで人の波が途切れることなく続いていて、私はさすがにこの会社ともなるとこんなに参列者がいるものなのかと感心してしまっていた。

ところが驚いたことに、会場へ着くととても高い席を指定された。喪主を含めて3番目だった。2番目は社長である。どう考えても一顧問弁護士に過ぎない私が就くべき席ではない。私は戸惑いながら、隣の社長と二言三言話した。そして、どうして私が立場に不相応な順序の席に座ることになっているのかを考え、すぐに私なりに悟った。

社長が私を社内に最高の権威ある顧問弁護士として扱って見せつけることを必要としたのである。社長は未だ就任して間がなかった。その会社では数年前に権力をほしいままにしていた社長が突然亡くなるということがあったのだ。それで、その亡くなった社長によって会長に祭り上げられてしまって実権を全く喪失していた会長が勇躍蘇りかけた。ところが、社内力学はすでにその会長が社内で実権を再び振るうことを許さない状況になっていた。集団指導体制の一人として、会長は新しい社長を選ぶことに甘んずる他なかったのである。

そうして決まった新しい社長の下では、会長、社長、そして専務が実力者であり、かつ、その下の常務3人も一定の発言権を有していた。

しばらくはそうした集団指導体制が続いた。一種いびつなトロイカ方式といってよかった。私が顧問弁護士になったのはその体制下だった。しかし、顧問就任のための面接は会長によってなされ、その後に鰻料理専門の料理屋にご招待いただいた。そののちに、社長には別の料亭で、専務にはご自宅での手料理までご馳走になった。

 

その後、どうやら起死回生のクー・デ・タに打って出たのが会長だったようである。自分が社長になる力はないことはわかっている。しかし、社長の首を挿げ替えることなら、なにか名目を設ければできないわけではないと考えたのだろう。

そこで、なんらかの事情を構えて社長に退陣を迫るとともに、常務取締役に過ぎなかった腹心の男を社長に強く推挙した。それだけの力はトロイカの中で維持していたということである。

私は、新社長になることが決まった方と仕事を通じて個人的にも仲良しだった。新社長就任が公表される前に、仕事で会社に来ていた私を見送る廊下で歩みを止めると脇に寄り、小声で「実はこの度社長になることが決まりました」と嬉しそうに、まことににこやかな顔で私に打ち明けた。

その結果が、葬儀での私の異例に高い席次だったのである。もちろん、すべて私の推測に過ぎないが、まったく根拠がないわけでもない。

 

自分を社長にしてくれた会長が亡くなってしまったのだ。新社長の会社内部での地位は未だ安定していない。会長が後ろ立てで初めて安定した立場にあったのだ。

だとすれば、そう、あの顧問弁護士を会長の忘れ形見のような置物として使うに限る。そう社長は思ったのであろう。もちろん私への事前の相談などはない。私は、ただ呼ばれて葬儀に出席したら奇妙にも異常に高い席次の場所に案内され、その席次にふさわしく振舞っただけである。他にどうすることができよう。

新社長の作戦は成功した。私はその会社ではただの顧問弁護士ではなく、亡くなられた前会長が全幅の信頼を置いていた別格の顧問弁護士になり上がってしまったのである。

 

葬儀で思い出すことは未だある。                          

独立して弁護士になってすぐのころ、共同経営者である方のご尊父が亡くなられた。東京近郊の代々の名家の方ではあったが、それに留まらず亡くなられた方は大変金儲けがうまく、都内にいくつものビルを所有していた。どのビルにも社名の看板が高々と掲げられていた。バブル華やかなりし時代のことだったから、総計は1000億を当然上回ると言われていた。

その方の葬儀が芝の増上寺であって、私も参列しなくてはならないことになってしまったのだ。

それはそれでいいのだが、問題は寒い季節に風の強く吹く屋外で長い時間立っていなければならなかったことである。寒かった。震えが止まらなくなってしまう寸前になるほどに寒かった。よくぞ無事でいたものである。若かったのである。

後になって、次男である私の共同経営者は、長男である、亡き父親の資産の大部分を相続する兄に対して、張り合って見せる必要があったらしいということがわかった。それが、寒風のなかで彼の支配下にある弁護士が何人も立ち尽くしていた葬儀とならなければならなかった理由である。

昨今の酷暑を思えば、冬で未だよかったのかもしれない。

 

もっとも、コロナになってからは葬式というものが流行らなくなってしまった。これは過去の時代の物語ということになる。

トップ写真:山梨県山中湖畔の富士山(2020年3月)(イメージ ※本文とは関係ありません)

出典:Korekore/Getty Images

 

 




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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