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.社会  投稿日:2023/12/13

平成27年の年賀状「もうすぐコーポレートガバナンスが日本を変える」


牛島信弁護士・小説家・元検事)

平成27年の年賀状

「もうすぐコーポレートガバナンスが日本を変える」

六十五歳になりました。他人事のような気がします。

でも、還暦と古希の真ん中の年齢はとても快適でもあります。未だ体も使えます。

精密検査をしたお医者さんから「もう十年は国のために働いてください」と言われました。頭・ローマ時代のキケロの言ったとおり、経験と判断力が豊かになったつもりでいます。

とても幸運なのだと思います。

弁護士の仕事も三十五年を超えました。働くのが楽しくてなりません。

文章を書くのも愉しい時間です。

いつも、五百年後の世界から見ると、現代はどんなに見えるのだろうかと思いながら生きています。今、私がマキアヴェリの生きた時代を眺め返しているように、五百年後の人々も、そうやって我々を見るのだろうと考えるからです。

毎晩モンテーニュの『随想録』を読みます。彼の「クセジュ」(私は何を知っているか?)という問いが、夢のなかにまで私を追いかけてくるのです。

平成27年(2015年)

「もうすぐコーポレートガバナンスが日本を変える」

【まとめ】

・海外勢による「同意なき買収」を覚悟する時代。「コーポレートガバナンスに拠る」が原則に。

・コーポレートガバナンスとは何か。未だ社会の心をつかんではいない。

・かつての終身雇用や年功序列に匹敵するなにかを我々は生み出しつつあるか。数年で見えてくる。

 

「五百年後の世界からみると、現代はどんなに見えるのだろうかと思いながら生きています。」と書いている。気軽に「五百年後の人々」と書くことができたのは、1523年から500年が経過した時点である今を生きているからである。その間に経った500年の流れを大筋知識として知っているつもりだったからである。紆余曲折はあっても、時間は流れ、人類は続く、と。

しかし、我々の「五百年後の世界の人々」はどんな人々なのだろう。AGI(汎用人工知能)のことを思うがゆえに持つ疑問である。私は、きっと人類は汎用人工知能に征服されているに違いないとしばしば考える。それどころかネアンデルタール人のように、その新しい汎用人工知能に滅ぼされて絶滅して存在してなぞいないだろうとすら思うことが多い。

もう止まらないのだ。ChatGPTの騒ぎを見ても、そう思う。それでも今回のAI騒ぎは、台風一過に終わるだろう。4回目のAIブームにすぎなかったということでいったん消え去る気がしてならない。

それほどに、人間の身体は、ことにその心は複雑すぎてかなかなか人工的には対抗しきれないのだと思っている。

それでも、500年は長い。日本に銃の伝わったころである。それからしばらくして日本は世界で最も銃がたくさんある国となり、したがって豊臣秀吉の明攻めは決して無謀な作戦ではなかったとも聞く。

だが、そののち火縄銃は核兵器になった。いまや地球の周囲を人工衛星が何千個も飛んでいる時代になっている。そしてサイバーである。ウクライナでの戦争はそれを実感させる。

「要するに、人間の想像を超えた世界になるんだよ」と尊敬するビジネスマンにいわれたのが最近のことだった。「それはどんな世界なんですか」ともういちど尋ねずにおれなかった私は、「だからね。想像ができない世界なんだから、今の時代の人間が考えても仕方がないんだよ」とぴしゃりと蓋をされてしまった。

不思議である。

500年前の鉄砲伝来からの急速な発展は、いまを生きている私なりに、当時でも未来を想像できたのではないかという気がする。火縄銃がライフルになったこと、滑空銃と銃身溝に螺旋状の溝を掘った銃との威力の違いは明治維新ころの戦いで実感しているところである。そして自動小銃、いわゆるマシンガン。

高校生のときに世界史の先生に、「米軍は自動小銃を撃つので、こちらはせめてと小さな機関銃を手に取って身構えて撃ってみるんだ。だけど撃ち続けると反動でどんどん体が上に向いてしまって対抗できなかった」と教えられたことがあった。

そして原爆。

沈黙の艦隊』(かわぐちかいじ 講談社刊)を読んだ。飛び跳ねるように頁を繰り、飛行機の乗り降りの間にも分単位の時間を盗みながら、文字どおり寸暇を惜しんで読みきってしまった。キンドルで読んだから可能だったのである。劇画はキンドルに限る。何冊もの本の束を抱えて移動することなぞできはしない。

読後感は?

痛快だった。1988年にスタートして1996年まで連載されたと聞くと背景の時代を思う。88年は未だバブルの真っ最中である。95年に円はもっとも価値を持っていた。

あの劇画の哲学は私の防衛論と一致する。ただし、私のは一国平和主義である。原潜を7隻造って、いつも最低一隻が世界のどこかの海に潜んでいる。誰にもその一隻の所在が分からないところがミソである。したがって、日本を核攻撃した国は日本を灰燼に帰することはできるかもしれないが、そのときには日本の原潜からの徹底的な核報復を受ける。日本を攻撃するものは、自らも灰燼に帰すことを覚悟しなくてはならないという一種の恐怖の均衡論、核抑止論である。

イギリスのサッチャーが提唱したと聞く。イギリスは実行しているのだろうか。いったい一隻の原潜に搭載することのできる量の核兵器でそうした反撃が実行可能なものかどうか。わたしには詳しいことはいっこうにわからない。

私に多少ともわかるのは、親子上場している子会社の親会社による100%子会社化の際のあるべき手順である。

それにしても、日本では敵対的買収と過去呼んでいたものが「同意のない買収」になった。どうやらそれがありふれた経済現象となりそうな勢いである。第一生命によるベネフィット・ワンに対する買収提案は、経営陣の賛成を条件としているとはいえ、時代を画するに違いない。日本は、上場会社である限りいつ『野蛮人が玄関口にやってくる』かもしれないことを覚悟しなくてはならない国に急速に変化しつつあるようだ。

国策である。

経済の弱い国は、結局軍事力でも外交力でも生き残ることはできない。そうした冷酷な現実への自覚が政府の政策に見え隠れしている。平和主義と少しも矛盾しないどころか平和を願えばこそである。平和は、念じるだけでは侵略を招くことがあると自覚するからこその経済振興策であると考えている。

丹呉3原則

私の書いた『日本の生き残る道』(幻冬舎)を読んだ丹呉泰健元財務次官の送ってくれた励ましのメッセージである。政治頼みでなく、コーポレートガバナンスに拠り、海外の資本を歓迎する。先日、経団連で講演の機会をいただき、この丹呉3原則という言葉を使った。丹呉泰健元財務次官の単語である。

それは、日本の上場企業の海外勢力による同意なき買収を受け入れることを意味する。

裁判所が理解してくれるかどうか。それは弁護士にとっての大きな課題であり、また使命であると思っている。

明治時代になって、扇を頭の上にかざして電信線の下を歩いた神風連のような真似を裁判所にさせないこと。それは弁護士にとってなんともやりがいのある仕事である。どちらの味方に就くかは、法の支配を信じている法律専門家なのだ、二次的なことに過ぎないだろう。

8年前の年賀状に弁護士として「働くのが愉しくてなりません。」と書いたのは、どうやらダテではなかったということのようだ。

であればこそ私は、日本の格差拡大とそのなかで下にいる人々の生活がどうなっているのか、気になってならない。なぜなら、それが我々の子であり孫の世代だからである。いいかえれば、どうもコーポレートガバナンスが上からの改革であることが気になってならないということである。社会の大部分は指揮命令されて働く人々である。その人々にとってコーポレートガバナンスとは何であるのか。かつて古い日本が保証した終身雇用や年功序列に匹敵するなにかを我々は生みだしつつあるのか。

コーポレートガバナンスについて考えるとき、私はいつも小熊英二氏の言葉を思い出す(『日本社会のしくみ雇用・教育・福祉の歴史社会学』小熊英二、講談社、2019)。

弊著『身捨つるほどの祖国はありや』(幻冬舎 2020年)のなかで小熊氏の言葉をなんども引用してもいる。

「社会の合意は構造的なものであって、プラス面だけをつまみ食いすることはできないのだ」(小熊氏の上記本579頁)

「日本の経営者が、経営者に都合の良い部分だけをつまみ食いしようとしても、必ず失敗に終わる。なぜなら、それでは労働者の合意を得られないからだ。逆でも、経営者の合意を得られないから、同じことである。長い歴史過程を経て合意に到達した他国の『しくみ』や、世界のどこにも存在しない古典経済学の理想郷を、いきなり実現するのはほとんど不可能に近い」(同書571頁)

「年功賃金や長期雇用は、経営者側の裁量を抑えるルールとして、労働者側が達成したものだった」(同書573頁)

という小熊氏の分析は、著者の冴えを感じさせる。なぜなら、「日本の労働者たちは、職務の明確化や人事の透明化による『職務の平等』を求めなかった代わりに、長期雇用や年功賃金のルールが守られていることを代償として、いわば取引として容認されていた」からである(同書574頁)。

「日本は、職員というエリートの特権だった長期雇用と年功賃金を労働者にまで拡大させ、『社員の平等』を志向した。(中略)企業横断的な基準がないのが日本なのである」(『身捨つるほどの祖国はありや』476頁)

そういう現実がかつてあったのだ。社会とは労働者、勤労者、大衆である。コーポレートガバナンスは未だその心をつかんでいない。それどころか、そうでありながら「人的投資」などと平然として表面的な議論に熱中する。いったいなんのことだろう。なにが起きようとしているのだろう。

なにはともあれ、私は時間の経過、それも数年といった時間がことを成就させると思っている。安倍元総理がコーポレートガバナンスを提唱して8年。もうすぐ10年になるではないか、と積極的に考えているのである。

トップ写真:東京実景(イメージ)出典:Photo by Frédéric Soltan/Corbis via Getty Images




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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