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.国際  投稿日:2024/1/29

ニューヨークの非常階段から転落した話


柏原雅弘(ニューヨーク在住フリービデオグラファー)

【まとめ】

・アパートのドアの錠が壊れ、家から出られなくなった。

・非常階段から外に出ようとし、地面に飛び降りた際にけがをした。

・けがの代償として得たものは非常階段を使った「避難」を経験できたこと。

 

いきなりアパートの「非常階段」から脱出せざるを得ない状況になってしまった。

ニューヨークでは、日本では起き得ないようなことが時々起きる。

私達家族が居住するアパートの部屋(2階)のドアの錠がいきなりぶっ壊れてしまった。鍵が開かないのとはちょっと状況が違う。部屋の中にいて、外に出られなくなってしまったのだ。何故かドアノブがロックされてしまい、びくともしない。部屋にある工具で可能な限り分解してみたが、ドアノブを外すことができたものの、それ以上はどうにもならない。部屋から外に出られない。お手上げである。

アメリカのドアは日本とは逆で、ほぼすべて内開きである。これは、玄関で靴を脱ぐ習慣がないアメリカならではの構造で、不審者が訪問してきた時、力ずくでドアを閉めることができる、という防犯上のメリットもある。NYで、もし日本式の外開きのドアだった場合、犯罪が多い土地柄、不審者にドアを引っ張られて侵入される、というリスクがある。

調べたところ、ドアは日本と逆構造であることもあって、日本式の非常時の開け方は通用しないことがわかった。アメリカのやり方も調べたが、強力な工具がない限り、どう考えても中からは開けられない、ということもわかった。

どうすべきか考えた。

自分たちでできる手段が無いならば、助けを求めるしか無い、と思い、アパートの管理人に電話してみたが休日と言うこともあってか、連絡が取れない。

時間だけが過ぎて行く。もし、今、部屋で火事でも起きればドアから脱出できず、家族全員、逃げられない事態となる。警察か消防に助けを求めるか?大騒ぎになること必至である。

そうだ、と思いついた。

脱出。

古い我がアパートの窓には、外に脱出できる非常階段(避難階段)があるのであった。そこから出てドアの外に回り、外から鍵でドアを開けることができるかもしれない。

2つ大きな問題があった。

まずここは2階であること。

もう一つはNYのほぼすべての外付け非常階段の地上へ到達する部分は外部からの侵入を防ぐために地面まで届いていないということ。

非常階段は本来、避難時には、ハシゴを操作して地上まで降りられる仕組みになっているのだが、NYの非常階段の99.8%は我が家同様、地上部分へのアクセスは機能していない。それを知ってはいたが、まさか自分が「本番」で使うことになるとは思ってもいなかった。

とりあえず、窓から非常階段に出た。地上まで約2.5メートル。

還暦過ぎた爺に飛び降りる芸当ができるか?気持ちに決心がつかず。

迷いながら非常階段をうろうろするこの状況を他人に見られたら泥棒に入ろうとしている不審者そのものである。

逡巡しても選択肢が無いので、決心してそろりそろりと非常階段を降りる。そしてハシゴの最後の部分に懸垂状態でぶら下がった。

▲写真 一般的なアパートなどに設置されている非常階段。最後のハシゴ部分が地面にまで達していない。使用時にはハシゴを持ち上げればロックが外れる仕組みだが、どのアパートのハシゴも、ほぼ100%錆びついている(筆者提供)

調べてみたら、NYのアパートの外についているこの非常階段は、まだビルに避難通路を設けるという発想がなかった時代に、ある悲惨な事故が起きたことがきっかけで、設置が義務付けられ、今日に至ったということを知った。

1860年2月2日、現在のチャイナタウンの北側のエルム・ストリート(現在はハワード・ストリートになっている場所)の貧民街のビルで、1階のパン屋を火元とする大規模な火災が発生した。建物には24家族が居住しており、ハシゴが届かなかった4階以上に住む10人あまりの女性と子供が命を落とした。ハシゴ車はおろか、消防車とかない時代のことである。

この火災はマスコミでセンセーショナルに取り上げられ、2ヶ月後には非常階段の設置を義務付ける法律が施行された。だが、どのビルもそう簡単に設置できるものではなく、多くのビルは設置に消極的であった。

その後、1901年により厳格な法律が定められ、ようやく、現在使われている非常階段の原型が出来上がったという。

1911年にはワシントン・スクエア・パーク近くの縫製工場で火災があり、アメリカの産業事故で最大の死者(146人)を出す事態になった。

▲写真 火災が発生時、ワシントン通りとグリーン通りにあるアッシュビル(トライアングル・シャツウエスト社が入っている)の上層階に消防ホースが放水している(1911年3月25日アメリカ・ニューヨーク)出典:Keystone/Getty Images

この事故は、火災時の避難に対する意識の低さが安全基準を大幅に見直すきっかけとなり、特に他の都市より多くのビルが存在していたニューヨークでは、世論にも煽られ、他の都市より対策が急がれたと思われる(この火災現場は、その後、国定歴史建造物に指定され、事故を忘れないための記念のプレートが埋め込まれている)。

ニューヨークの非常階段は「非常時の避難に使う」という本来の使われ方以外にも使用されてきた。エアコンもなかった時代、暑い夏の夜をやり過ごすために人々はここで寝た。洗濯物を干したり、天気が良いときにはバルコニーの代わりに、古くは子供のジャングルジムの代わりに使われたりもして、市民の生活に密着して、やがてニューヨークの風景の一部となった。

ニューヨークの非常階段であまりにも有名なのは、映画「ウエスト・サイド物語(1961)」で主人公、マリア(ナタリー・ウッド)とトニー(リチャード・ベイマー)が密会するシーンである。

▲写真 映画『ウエスト・サイド・ストーリー』の一場面でのナタリー・ウッドとリチャード・ベイマー 出典:Donaldson Collection/Getty Images

当時の映画のポスターにも非常階段が描かれている。映画の舞台となった「ウエストサイド」のスラム街は当時、リンカーン・センターを建築するために取り壊される運命にあり、映画のバックグラウンドにはその工事の瓦礫や取り壊し前のウエストサイドの様子が写っている。(2021年度版のスピルバーグ・バージョンの映画ではより工事や、瓦礫が強調されている)

不良少年の集まりであるジェッツ団は既存勢力の白人のグループとは言え、ポーランド系移民の少年たちの集まり。新規移民で、新たに力をつけてきた、対立するプエルトリコ系移民の非行グループ、シャーク団と、共にウエストサイドの支配権を競い、結果、人命を賭けてまでの争いに発展してしまう。

映画の後日譚として捉えても良いかと思うが、史実として、リンカーン・センターの建設という巨大権力によって、彼らが住んでいたこの土地の貧民街は実際に一掃されてしまった。

架空の話とは言え、移民でもあった彼らは、支配権を争うまでもなく、共に住み着いた土地を追われてしまったのだ。

▲写真 筆者が飛び降りた非常階段。ボロボロ、サビだらけ。腐食した部品が地上に落下したり、階段ごと外れてけが人が出るなどの事故も起きている(筆者提供)

このような背景を知って映画を鑑賞すると、映画がより切なく感じられるかもしれない。

現在の「ウエストサイド」はリンカーンセンターの西側に当時の痕跡が多少残る程度で、貧民街があったなどと微塵も感じさせない佇まいである。

だが、映画の舞台となったニューヨークのアパートの非常階段は今でも健在である。

懸垂状態で非常階段にぶら下がった私であるが、歳のせいか飛び降りた時、着地地点を見誤って転倒、左手に結構な出血を伴う怪我を負ってしまった。

これでは非常階段をうろつく不審者どころではなく、NYという場所柄、通行人に見られたら、人を殺めてきたとも思われかねない。

人目を避けてすぐさま、玄関に回り、鍵でドアを開けようと試みたものの、やはりドアは開かず。その後、アパートの管理人が駆けつけてくれて工具で錠を派手に破壊、ドアノブごと新品に交換してくれたが、怪我の代償として得たものは「本番」で非常階段を使った「避難」を経験できたことだろうか。

何故か家族は誰も同情してくれない。

トップ写真:ニューヨークのアパートの外階段。昔と比べて住民救出の技術が向上したため、地上につづくハシゴは緊急避難用としての役目を期待されていない。むしろ外からの侵入を可能にするなど防犯上の危険性が指摘されている(筆者提供)




この記事を書いた人
柏原雅弘ニューヨーク在住フリービデオグラファー

1962年東京生まれ。業務映画制作会社撮影部勤務の後、1989年渡米。日系プロダクション勤務後、1997年に独立。以降フリー。在京各局のバラエティー番組の撮影からスポーツの中継、ニュース、ドキュメンタリーの撮影をこなす。小学生の男児と2歳の女児がいる。

柏原雅弘

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