タイムパラドクス問題の現在(上) 「タイムトラベル論争」も時間の問題?その4
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・時間は過去から現在へ一方向に流れると証明されていないため、タイムトラベルをテーマとした娯楽や議論が絶えない。
・近年は理論上、未来へ行くのは可能だが、過去に戻るのは難しいとされる。
・一方、パラドクスはそもそも不可能だと考える学者も存在する。
誰しも自分の過去を振り返って、あの時こうした決断をしていれば(もしくは、しなければ)、今とは違う人生だったのでは……と思えることが、ひとつくらいはあるだろう。
タイムトラベルによって過去を変え、その結果として現在も変わってしまう、という設定のフィクションが、手を替え品を替え、繰り返し世に問われるのは、おそらくこうした心理のなせる技だろう。
1985年に公開され、大ヒットした映画『バック・トゥ・ザ・フーチャー』などが、典型的な例だと言える。
カリフォルニア州の片田舎(架空の新興住宅地)で暮らす高校生のマーフィーが主人公。マイケル・J・フォックスの当たり役となった。たまたま年の離れた友人のドクから、タイムマシンを発明したと聞かされ、実験を手伝うことに。実験場所は、ショッピングモールの広い駐車場。そこには、一台のデロリアンが停まっていた。
しかし、その燃料はプルトニウムで、ドクがリビアの過激派からだまし取ったものだった。カラシニコフ突撃銃で武装したリビア人に襲撃され、マーフィーはデロリアンに飛び乗って、駐車場内を逃げ回る。ところがそのデロリアンは、一定の速度を越えるとタイムマシンと化す機能が備えられていたのだ。
結果、彼は1955年にタイムスリップ。
そこで「未来の両親」に出会うわけだが、父親になるべき男子高校生はいじめられっ子。母親になるべき女子高生は、なんとマーフィーを好きになってしまう。
このままでは両親は結婚することなく、そうなれば自分も消滅する、という危機感を抱いたマーフィーの奮闘がストーリーの柱で、この年最大のヒット作となった。脚本の面白さとキャストの演技も高く評価され、1987年には日本アカデミー賞の最優秀外国映画賞にも選ばれている。
その後、どうにか「未来へ帰る」ことに成功した彼が、翌朝目を覚ますと、実家はすっかり様変わりしていた。
冴えない勤め人だった父親はベストセラー作家に、人生に疲れたような風情で、いわゆるキッチン・ドランカーに成り果てていた母親は若さと美貌を保っており、そして、ガレージには夢にまで見たトヨタのピックアップ・トラックが。
読者ご賢察の通り、この映画はいわゆるタイムトラベルものの中でも、過去が変われば現在や未来も変化する、との発想に基づく「タイムパラドクスもの」あるいは「歴史修正もの」と呼ばれるジャンルに属する。
この映画では一家族の歴史が変わっただけだが、前にちらと紹介した『バブルへGO』という邦画など、平成初期にタイムスリップした主人公らが、世に言うバブル退治を実現した政策決定を阻止してしまったため、ラストシーンでは東京湾に橋が3本も架かっているなど、ある意味で大変なことになっているものもある。
前に、物理学が発展して相対性理論の検証も進んだ結果、未来へのタイムトラベルは理論上可能だが、過去へと時間を遡るのは理論上も困難である、との学説を紹介した。
こうした学説が開陳されたのは比較的最近のことで、少し前までは過去へと時空を越えることも可能だと考える人たちが結構いたのである。
ごく簡単に述べると、相対性理論が正しいとして、光速で移動できる乗り物が発明されれば、その中では時間が止まるため、タイムトラベルが可能になる。ならば光速を超える速さで移動した場合には、時間を遡ることも理論上可能ではないとされていたのだ。
その場合、前述の映画のように過去に戻った人間の行為次第で歴史が変わる、ということもあり得るので、それは歴史や文化の連続性という観点からよろしくない、として、相対性理論をなんとかして否定しようと試みた学者たちまでいたと聞く。
シリーズ第1回で、今年になってから、量子モデルを用いて「時間の正体」に迫ろうとする研究が一定の成果を示し、検証次第で、2024年は物理学の歴史に特筆されるべき年になる、とまで言われている、と述べさせていただいたのは、話がここにつながってくる。
そもそも時間とはなにか、との議論を突き詰めないまま、タイムトラベルやタイムパラドクスの可能性を論じるなど、後知恵を承知で言えば愚挙でしかなかったのだ。
話をひとまずフィクションの世界に戻すと、タイムパラドクスはあり得る事だとの前提で、それを不正な商取引などに利用しようとする者を取り締まる「タイム・パトロールもの」と称されるジャンルもある。
株やFXから競馬・競輪に至るまで、結果をあらかじめ知った上で、過去にタイムトラベルして投資できれば、それこそ濡れ手に粟の大もうけとなる。これを、SFの世界では不正な商取引と定義するわけだが、歴史を変えてしまうリスクは、金儲けの問題にとどまらない。
幕末の動乱期に、幕府軍に機関銃を与えたら……などという話が、昭和の少年向け雑誌に掲載されたことは前にも述べたが、個人史だけではなく世界史敵な視野で見た場合も、
「あの時、歴史が動いていれば」
という話題は尽きないものだ。
さらに言えば、たとえば大震災の直前にタイムスリップして、人々に避難を呼びかけたとしよう。現実的に考えれば相手にされないだろうが、幾人かの命を救えた可能性はある。これは人道的な行為なのか、それとも歴史を変えてしまう不当な行為なのかと問われたなら、答えるのは容易ではない。
こうした議論の種が尽きないのは、とどのつまり、
「時間とは過去から現在、そして未来へと、弓から放たれた矢のように、一方向にしか流れないものである」
ということが、完全に証明されてはいないからである。
これまたシリーズ第1回で述べたように、ごく最近になって、この「時間の矢」という問題にも、量子物理学の観点からスポットを当てる研究がなされていることが明らかとなった。
そのまた一方では、タイムパラドクスというものは、そもそもあり得ないのでは、と考える学者たちもいる。
次回・最終回でその話を。
トップ写真:映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で、主人公のマーティ(マイケル・J・フォックス)がタイムトラベルした時の様子 出典:Photo by FilmPublicityArchive/United Archives via Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。