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.国際  投稿日:2025/4/21

ベトナム戦争からの半世紀 その6 南ベトナム社会の魅力


内外透視963回       
古森義久

【まとめ】
・温かい人々との出会いと社会の腐敗。無垢な心と伝統文化に触れた南ベトナム。
・欧米文化が浸透する社会で、ベトナム人は共産主義を拒否する姿勢を示していた。
・共産主義の脅威に対しアメリカに依存する姿は、戦後の日本と似ている。

新聞記者として南ベトナムの首都サイゴンに赴任した私は戦争報道に主力を投入する一方、現地の多様な人たちとの接触も深めていった。ベトナム語を少しずつ覚え、取材の幅を広げる過程では人間同士の交流も広く、深くなった。ベトナムの人たちは日本人としての私、記者としての私を温かく迎えいれてくれた、と実感した。その背後にはベトナム社会では伝統的に日本や日本人に対して好感があったことをまもなく知った。

しかし政府や軍の組織には汚職が広範であることもすぐに実感させられた。民間でも金銭への執着や人をだますような慣行は想像を越えていた。なにしろ長年の戦争の中で一般の市民も文字通り、明日をも知れない日々を送ってきたのだ。同じ民族同士の戦いが人間不信を深める側面もあっただろう。目先の損得に追われ金銭万能に走るのもふしぎではない。そのうえに歴代の政権は軍人が主体だった。戦争の遂行がまず最高至上の目標となる。その姿勢が政治面での独裁や腐敗の傾向を生むことも一面、自然だったといえよう。

だがそれでもなおベトナム社会の根底には心温まる無垢な領域が広がっていた。ごく普通の人たちとの交流も深めていくと、戦争のなかで死と隣り合わせの生活をけなげに生きる男女の姿に好感を覚えていった。とくに平穏な日本社会からきたばかりの私はベトナムの人たちの戦時の身の処し方に魅せられていった。ふだんは口に出さなくても愛する家族を戦争で失った人ばかりなのだ。3人の息子をみな戦場で亡くした中年の父と母がいた。妊娠中に夫が戦死したというまだ20代の女性がいた。そんな薄幸な人たちがみな悲しみに耐えて、表面は明るくたくましく生きているのだ。

ベトナム社会では精霊への信仰や儒教の規範もなお健在だった。「カイルオン」と呼ばれる古典歌劇では義理の人情のしがらみが主題だった。女性主人公が家族への義務と恋人への恋情とに引き裂かれ、よよと泣き崩れながらも、決然と苦しい道を選ぶ。そんな話の展開は日本の新派大悲劇よりも純東洋的と呼びたくなるほどだった。日本の古い価値観ですべて理解できるような感覚でもあった。日ごろはしたたかに実利に鋭い街の人々がそんな悲劇に共鳴して涙を流す光景は当初は意外でさえあった。

その一方、ベトナム社会にはフランスやアメリカの文化も浸透していた。とくに80年ものフランスの植民地支配の文化や教育面での影響は大だった。豊かな層はその果実を受け、フランス制度の学校での教育を受け、完璧なフランス語を話す人たちも多かった。 

 そのうえにアメリカの大規模な軍事支援とともにアメリカの文化も洪水のように流れこんでいた。アメリカの音楽や映画はサイゴンの若者たちには大人気だった。英語を学ぶ風潮も全社会的だった。南ベトナムの政府や軍はアメリカで教育や訓練を受けた若手や中堅が主流となっていた。そんな文化の混在が年来の慣習と共存して、なんとも魅力ある文明社会をつくっていたのだ。

そのうち私は自分とほぼ同じ世代のベトナム人男女のグループと親しくなった。20代後半から30代前半、みな大学卒の若者たちだった。政府の職員、技師、医師、薬剤師、銀行員などだった。出身は中流の上という感じで、外国留学を経験した人たちもいた。この人たちは私を仲間扱いして、パーティ―やピクニックの招いてくれた。誕生日を祝う集いや結婚式にまで招待してくれて、親交を深めた。彼らはアジアにあって、欧米の学問や文化、価値観にも熱い視線を向けるという点で私にとっては日本での友人たちとも替わりなかった。

 これらベトナムの友人たちはベトナムの民族意識も確実に持っていた。当時のグエン・バン・チュー政権の政策を批判し、アメリカの支援の方法にも留保をつけることもあった。だが北ベトナムの革命勢力が支配する社会では生きていけないだろうという意識もはっきりとしているようだった。

だから南ベトナム、つまりベトナム共和国という国家も社会も、欠陥は多々あったにせよ、国民の自由や国家としての民主主義という支柱は保持していたのである。アメリカからすれば、そういう国家や社会をいわゆる自由民主主義陣営の一翼として守りたいと判断したということだろう。その判断にはイデオロギーや価値観があった。南ベトナム国民の側にそういうイデオロギーや価値観を保ちたいという願望があったからこそ、アメリカは要請を受けて、軍事的な介入をした、ということだろう。

アメリカ側にも当然ながら独自の自国中心の戦略的な計算があった。だが南ベトナムという国家を自陣営に保つという意思は共産主義のソ連との対決である東西冷戦という大きな国際的枠組みの一端でもあったわけだ。

私はベトナムでの生活を続けるにつれ、南ベトナムという政体は日本にも似た要素が多いと感じるようにもなった。共産主義の国の強大な軍事脅威やイデオロギーの挑戦を受ける。共産化の危険は目前に迫るが、独自に自国を防衛する能力も意思もない。だからアメリカに防衛をゆだねる。国内に米軍基地を設け、米軍に駐留してもらう。戦後の日本には南ベトナムと重なりあう、そんな特徴があるように思えてならないのだった。

(その7につづく。その1その2,その3その4その5

冒頭写真)1965年8月30日、ベトナムのサイゴンの町の風景
出典)Jero/Pix/Michael Ochs Archives/Getty Images 




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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