ベトナム戦争からの半世紀 その8 和平協定と米軍撤退

古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」
【まとめ】
・1972年、米ニクソン政権は北ベトナムとの秘密交渉を開始し、ベトナムからの撤退へ動いた。
・サイゴンでは和平交渉の噂が広がり、キッシンジャー補佐官が南ベトナム政府と調整した。
・1973年1月、「パリ協定」が締結され、アメリカ軍の撤退とベトナム戦争終結に向かった。
北ベトナム軍による1972年春季大攻勢は数ヵ月、激しく続いた。北軍は南ベトナム最北のクアンチ省を一時は完全に制圧した。だが南ベトナム政府軍もアメリカ軍の空からの支援を得て、反撃し、クアンチ省を奪回した。その後の南の各地での戦闘も少しずつおさまっていった。
その年の夏、アメリカのニクソン政権のヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官と北ベトナム労働党のレ・ドク・ト政治局員がパリで会談した。その内容は秘密のままだった。だがアメリカ国内ではベトナムへの軍事介入への反対がさらに激しくなっていた。ニクソン大統領はその世論に押されて、ベトナム撤退の基本へと動いていた。だが焦点はいかに撤退するか、だった。
なにしろアメリカは歴代政権がベトナムに大規模な軍隊を送り、10年余りにわたって、南ベトナム政権を支えてきたのだ。国民も社会もそのアメリカの支援に依存するようになっていた。そのアメリカの軍事介入は一時は54万人という巨大な規模にまで達していたのだ。その介入の背景には東西冷戦という大きな政治背景があった。共産主義のソ連や中国が北ベトナムの共産主義政権を支えていたのだ。その北ベトナムによる南ベトナムへの軍事攻撃は東西冷戦のなかでの共産側の膨張、アメリカ主導の自由民主主義陣営の後退を意味していた。
キッシンジャー氏といえばニクソン大統領の側近中の側近、他方、北ベトナムのレ・ドク・ト氏も政権の最高首脳部に位置する。両国が正面からベトナム戦争の行方を論じる超重要な交渉だった。アメリカの軍事介入の終わりを論じるのであれば、自然とこの秘密交渉はベトナム和平交渉と呼ばれるようになった。
私が暮らしていたサイゴンの街にも、「アメリカが北ベトナムと秘密の和平交渉」とか「南ベトナム政府の頭越しの交渉」といウワサが広がった。当初は政府にかかわる人たちの文字通りのウワサから、やがて地元の一部の新聞にまでそんな観測の記事が出るようになった。
その観測を裏づけるように1972年8月16日、キッシンジャー補佐官がサイゴンに飛んできた。パリでのレ・ドク・ト氏との会談を終えてすぐの来訪だった。私も他の外国記者たちとともにサイゴン近郊のタンソンニュット空港でキッシンジャー氏を迎えた。目の前に現れた同氏は身長が意外なほど低かった。
「いまは話せることはなにもないです」
キッシンジャー氏がドイツ語なまりの超低音の英語でこう繰り返すだけだった。サイゴン来訪の目的が北ベトナム側との和平会談の経過を南ベトナムのチュー大統領に知らせることだったのは明白だった。その後もキッシンジャー氏はパリでの北ベトナム側との会談を重ね、そのたびにサイゴンに来訪した。
私はサイゴン政界の多数の人たちに接触して、和平会談の内容を探った。その結果、明らかになった輪郭はやはりアメリカが北ベトナムとの間で米軍の全面撤退を始めとする停戦交渉を進め、南ベトナム政府にそれを呑ませようと圧力をかけているという状況だった。南政府側は必死で反対し、抵抗していることも明らかだった。その例証としてチュー大統領は10月24日、全国向けに2時間もの演説をした。
「いかなる現状停戦にも反対する」とか、「南領内の北ベトナム軍はすべて北へ撤退することが和平の最低条件だ」と、アメリカと北ベトナムの間でまとまりつつあるような合意には絶対反対とも受け取れる言葉を熱をこめて語った。だがその一方、「和平と停戦はやはり必要だ」とか「われわれは停戦を待ち望んでいる」などと前言とは矛盾するような言葉も発したのだった。
この演説はやはり当時の南ベトナム政府の苦境を明示していた。アメリカから本来は絶 対に拒みたい停戦や和平の条件と押しつけられ、必死に抵抗しながらも、最悪の場合に はアメリカから軍事援助を止めるとまで脅されて、やむなく停戦への合意に従うという苦境だった。
その2日後の10月26日、北ベトナム国営のハノイ放送が全世界を揺るがす重大情報を発表した。「アメリカと北ベトナムはベトナム紛争の解決への合意に達し、10月26日にパリでその協定に調印する予定だったが、最後の段階でアメリカは合意を破った」と 宣言し、その合意の内容を具体的に述べたのだ。その骨子は簡単にいうと、アメリカ軍がとにかく全面撤退し、北ベトナムはそれまで撃墜した米軍の北爆のパイロットなどの捕虜を釈放する。南ベトナムでは戦闘を停止し、将来の統治は南政府と南臨時革命政府と第 三勢力の三者が協議して、総選挙を実施する、とされていた。南領内に潜伏する北ベトナムの大部隊はすべてそのまま、という点で北側にはきわめて有利な協定だった。
北ベトナムがこの段階で一方的に交渉内容を暴露したのは、最終段階で米側が北側の要求の一部に反対して、調印を遅らせたためだった。アメリカもこの北の態度に強く反発して、交渉面での譲歩を求めた。同時にニクソン大統領は北ベトナムへの空爆をそれま でよりも大規模かつ激しく実施して、圧力をかけた。この圧力に北側はある程度の譲歩を して、最終合意が成立した。南ベトナムは自国に明らかに不利なこの合議条項を渋々と受け入れた。
その結果、1973年1月27日、アメリカ、北ベトナム、南ベトナム、南臨時革命政府と いう4当事者による「ベトナムにおける戦争終結と平和解決に関する協定」がパリで結ばれた。この協定は「パリ協定」と呼ばれた。その内容はハノイ放送が暴露した趣旨とほとんど変わらなかった。
ベトナム戦争が終結へと向かう歴史の曲がり角だった。だが当時の世界はその「終結」がわずか2年後に迫っていたことにはまだ気づかなかった。
(つづく)
トップ写真:1973年1月、ベトナム戦争中のフランス・パリで行われたパリ和平協定に出席した北ベトナムの指導者レ・ドク・トと米国国家安全保障問題担当大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャー 出典:Reg Lancaster/Express/Hulton Archive/Getty Images
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

