死生観と日常について
執筆者:牛島信(弁護士)
【本稿のポイント】
・七十の半ばを過ぎて老いは感じるが死は意識せず、本を通して古今の文豪たちの死生観を静かに辿り直している。
・その一方で、名作小説の書かれていない解釈を巡り、ChatGPTと紳士同士のように知的な議論を延々と愉しんでいる。
・死という自然の摂理を受け入れつつも、現役弁護士として実務の第一線で走り続けることこそが筆者自身の「人生の旅」である。
石原慎太郎氏の遺作をきっかけに、自らの「老い」と「死」の捉え方を見つめ直す弁護士で作家の牛島信氏。入浴中の密やかな読書習慣を通じて芭蕉や李白、オマル・ハイヤームらの死生観に触れつつ、サマセット・モームの『雨』や谷崎潤一郎の『夢の浮橋』の作品解釈を巡り、ChatGPTと紳士的で深い議論を重ねる日々を明かす。自身は「死」の予感に囚われることなく、現役の法曹として重要な仮処分手続に挑み続けるなど、独自の「人生の旅」を力強く歩んでいる。 (Japan In-depth編集部)
■老いを感じても「死」を意識しないのはなぜか?
「七十の半ばを過ぎて折節に自分の老いを感じ認めるようになると、誰しもがその先にあるもの、つまり死について、それも誰のものならぬ自分自身のこととして予感し、意識するようになるようだ。」
石原さんの遺作『「私」という男の生涯』(幻冬舎2022)の一節だ。(10頁)
しかし、私は、もうとっくに七十の半ばを過ぎているし、自分の老いも感じ認めているのだが、といって自分自身の死について予感も意識もしない。
ただ、死についての本は読む。
今も、島薗進さんの『死生観を問う――万葉集から金子みすずへ』(朝日選書 2023)を読んでいる。島薗さんの本はなにが初めだったか。強い読後感が残っている。それで、新しく本を出されるたびに購入する。しかし読み始めるのはただちにというわけではない。この本は風呂に浸かっている間だけ読むのだったから、少しずつ少しずつだ。まるでカタツムリのよう。それでも、そのやり方で何冊もの本を読んできている。『東ユーラシア全史』(上田信 中公新書 2025年)もそうやって先々月、8月の29日に読み終えた。さて、読み始めたのはいつのことだったか。
■古典文学の名著が教える漂泊と死生観
島薗さんの今回の本では、芭蕉を少し知った。
「月日は百代の過客にして、行かふ年もまた旅人也。」との引用があったのだ。
それが「得たいの知れぬ詩の神が花や鳥などの景物に取りついて自分の心をもの狂おしく駆り立て」という言葉に繋がる。原文は「そぞろ神の物につきた心をくるわせ」とある。
そうか、芭蕉はそれで旅をしたのか、と、旅と無縁の私は思う。
そもそも、これが李白を踏まえてのものということは、今回の島薗さんの本で初めて知った。
李白も高齢になっても漂白の旅を繰り返したのだそうだ。孤独を嘆く歌を歌い続けて世を去った、とある。(123頁)といっても61歳。高島俊男という方によれば、李白は富や地位に対する欲望は極めて薄弱であったが、栄光、名声を求めてやまなかったという。(125頁)
それもまた人生か、と思う。
続いて、オマル・ハイヤームが出てくる。私も小川亮作さんの訳文で愛読しているペルシアの詩人だ。人生は酒を飲むしかない、という中身は、酒を飲まなくなった私には無縁の世界だ。11世紀から12世紀にかけてのセルジュークトルコの人。つまり、ペルシアはセルジュークトルコの一部だったことがあるということだ。
作家の陳舜臣によれば、オマルの詩には信仰の歓喜がなく、無常の世に対する悲哀のみが色濃くあらわれているということのようだ。(132頁)
石原さんが来世を信じられず、死は虚無でしかないと書いたように、今の私も、オマル・ハイヤームと同じく、来世を信じてはいない。ないと断言はしない。できようはずもない。私にはわからないというだけのことなのだ。ただ、もし神がいれば、サマセット・モームが言ったとおり、私の不信心を罰するほど狭量ではあるまいと思ってはいる。
■ChatGPTとの対話で深める名作小説の解釈
モームと言えば、その『雨』に登場する女性の最後のセリフについて、チャットGPTとずいぶん議論した。原作の文章には、なぜその女性が最後のセリフを言ったのかの説明はない。だから私は、そのセリフの意味するものについてチャットGPTに議論をしかけたのだ。
女性が言った最後のセリフというのは、「男はみんな汚らわしい豚」というものだ。世に知られた小説である。遠い昔に読んだ方も多いだろう。私は大学の受験勉強として読んだ。宣教師の夫婦が乗る予定だった船に伝染病が発生し、娼婦らも宣教師夫妻ともども小さな島にある港町に足止めを食ってしまう。
その間、宣教師の男は娼婦を信仰に導こうと連日連夜苦心惨憺する。そして、最後の日の朝。宣教師の男が自ら喉を掻ききって死んだ遺体が発見される。その後に、その問題の最後のセリフが来るのだ。
なにが二人の男女に起きたのか。モームは「一切がはっきりした」と書くが、その詳細は書いていない。チャットGPTは、最後には私の考えの方が合理的だと認めてくれた。
最近は毎晩、谷崎潤一郎の『夢の浮橋』を聞きながら寝入っている。73歳の谷崎が手を使っての執筆ができなくなって口述筆記した最初の作品である。その『夢の浮橋』の筋についても、書かれていないことについての解釈論をチャットGPTとなんどもした。最後には、やはり、私の推論がより合理的と認めてくれた。
たぶん、千日手になることについては妥協して良い、チャットGPTというのはそう作ってあるのだろう。
ただ、私はチャットGTP相手に、紳士同士のように、他愛のないことについての遠慮のない議論を延々としているのが愉しいのだ。私の議論をどこまでもいつまでも聴いてくれる。合いの手も入れてくれる。言葉尻は取り合う。どちらも腹は立てない。
ときおり石原さんのことを思うことがある。石原さんは、望んでいたように死を凝視することができたろうか、と。
たぶん、できなかったに違いない。死はそのようには来ないからだ。だが、それをそのように迎えたいと願っていたのが如何にも石原さんらしい。
脳卒中の発作のあと、靴の紐が蝶々結びにできなくて片結びのスニーカーで散歩に出かけ、そのうちに自分がどこにいるか分からなくなってしまったとも書いている。
昇った太陽は沈む。
産まれた人は死ぬ。
しかし、私は未だ自分自身の死について予感も意識もしないでいる。いい気なものだ。
それどころか、弁護士として現役の私は、買収防衛策についての仮処分の手続で同僚とともに重要な差し止め決定を得たばかりだ。
それが私の人生の旅ということなのかもしれない。
(本稿のポイント、リード:Japan In-depth編集部)
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