夢想的な平和主義者ではなかったネルソン・マンデラ〜武装組織への上手な処遇が生んだ安定政権
清谷信一(軍事ジャーナリスト)
先ごろ南アフリカ初の黒人大統領、ネルソン・マンデラ氏が95歳で無くなった。追悼式典には世界から国家元首や首脳級の要人が集い、その死を悼んだ。筆者はまだアパルトヘイト体制の残っていた1991年から現在に至るまで南アフリカの二年に一度の頻度で取材に訪れて、南アの変遷を定位置観測してきている。その経験からマンデラ氏とANC政権について述べてみようと思う。
南アは1994年に全人種参加の総選挙が行われ、ネルソン・マンデラ氏率いるANCが勝利し、マンデラ氏が大統領に就任した。恐らくマンデラ氏以外ではこれ程平和的に全人種の融和を行うことができかっただろう。マンデラ氏はアパルトヘイト時代に残虐行為を行った白人に対しても事実を話せば許すといった、非常に寛大な措置をとった。
これが凡庸な大統領であれば黒人層の不満を抑えられなかっただろう。隣国ムガベ大統領がその好例で、人気取りのために白人から土地を取り上げるなどしたが経済は破綻し、国際的にも孤立している。だが1980年以降国家元首(当初は首相、後に大統領)に就任し未だその地位にしがみついている。また1960年代に独立した多くのアフリカ諸国では部族間の対立などによる内戦や政府の腐敗で窮乏している国々が多い。
1994年以降のマンデラ氏以降の南アの政治の舵取りはこれらのアフリカ諸国と比較するならば大成功を収めたといってよい。実際にマンデラ氏に合った人物によると、この人のためならば死んでもいいと思わせるような非常に強力なオーラを持った人物であったという。恐らくはマンデラ氏以外ではこのような平和な形での政権交代は不可能だったのではないだろうか。
マンデラ氏の政治家、リーダーとしての手腕は並外れたものだったと言って良いだろう。マンデラ氏はこの功績のために聖人君子、あるいはガンジーのような平和主義者、非暴力主義社のように思われていることが多いが、それは誤解だ。マンデラ氏はANCに参加後ANC副議長就任、その後1961にANCの軍事部門であるMK(ウムコント・ウェ・シズウェ、民族の槍)創設し、初代司令官になった。ゲリラ部隊の指揮官だ。だが1962年に逮捕され国家反逆罪終身刑となった。その後白人政権との和解で1990年に釈放された。
マンデラ氏は軍事組織の指導者であり、かなりの軍事に関する見識もあった。彼の非暴力的な考え方は長い獄中生活において涵養されたのだ。1994年の総選挙後のANC政権初の防衛相、ジョー・モディセ氏はマンデラ氏の後を襲ってMKの司令官で、マンデラ氏の部下だった人物だ。マンデラ氏は国防大臣として元軍人を起用している。
筆者はモディセ氏と歓談したことがあるが、実直で気さくな人物だったが大政治家、という趣はなかった。また、民主化の後の南ア国防軍にもMKのメンバーが下は兵士から上は将官まで多数が編入されている。筆者はその再教育を取材したことがある。マンデラ氏もANC政権も夢想的な平和主義者ではない。
ANCの武装組織のメンバーの処遇を上手にこなしたことも政権の安定に大きな要因であったと言えよう。
【あわせて読みたい】
- 民主主義・法治の危機〜国家安全保障会議(日本版NSC)と特定機密保護法は警察官僚に支配される(清谷信一・軍事ジャーナリスト)
- 未熟で知名度の低い金正恩の宣伝に日本のテレビメディアを利用する北朝鮮〜北朝鮮の対日メディア工作に応じてしまう日本の一部テレビの不可解(朴斗鎮・コリア国際研究所所長)
- 「政治家は当選すれば独裁的権力を持てる」という理屈を国民は身をもって体験している〜議会制民主主義を「期限を切った独裁」と応えた菅直人と石破茂は同根か?(角谷浩一・政治評論家)
- 防衛省は自衛隊の戦力を過小に見せる世論操作をしている?〜知られていない『防衛大綱』の不正確な記述(清谷信一・軍事ジャーナリスト)
- 中国の武力的「冒険主義」を思いとどまらせるのは「外交」しかない〜12月ASEANの首脳会談でのアジェンダ(藤田正美・ジャーナリスト/元ニューズウィーク日本版編集長)
- 毒にも薬にもなる「国際協力」のありかた〜なぜルワンダの「国際医療協力」として「教育」にこだわるのか(青柳有紀・医師)