根性論が通用しない時代の到来
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
日本のスポーツ文化はある種、日本社会を反映しているようなところがある。
トレーニングにおいての日本的根性論とは、諸所の問題に対し量の拡大で対応しようとすることである。バッティングがよくないとなれば、1日何時間もバットを振ってスランプを脱しようとし、世界で勝てなければ世界中の誰にも負けないぐらい練習(量)をして戦おうとする。
マラソンや演技系競技(シンクロなど)はある程度量があることで、技能が洗練されたり、また長時間の走行に耐えられるようになるから量が有効な場合も多いのだろうと思う。けれども多くのスポーツでもそうとは限らないし、また量が大事だという思い込みが強い文化では、量には耐性がないが、質では成長できる選手を潰すことになる。
なぜ、日本のスポーツ界が量をこれほど好むのかというと、日本人の性質というところにいくのかもしれないが、ここ最近で感じるのは、量で問題を解決した成功体験が多すぎるのではないかと思う。
確かに技術革新のペースが遅く、参加者が少ない世界では、結局のところトレーニング量で勝負が決まるようなところがある。スポーツの感覚でいけば1930-80年代ぐらいまではそれが通用したように思う。ところが様々なデータが取れるようになってくると、戦略で優位に立てることが増え、いかに正しいところに努力を投下するかという戦いが増えてきた。多少正しくなかろうが努力量さえ投下すれば勝てるというレベルではなくなってきてしまった。
量の拡大は結局人間の時間が356日24時間しかないことを考えるといつか限界がくる。よく努力には限界がないというが、スポーツの世界ではだんだんと量が拡大して行って、いずれトレーングのしすぎで自分の努力で自分の体を壊すことができるようになる。量の確保で勝負をしてきた選手はこの辺りで脱落する。
本当の意味では根性論は結果だけではなく、勝利への至り方にもこだわりが強い。変な話ではあるが、犠牲を払わずに勝ってしまうことを嫌がる傾向にある。満足を、疲労感や、トレーニングの量によって測り、いかにそれでパフォーマンスが上がったかでは計っていない。クタクタにならないと罪悪感さえ抱いてしまう。
量の拡大ではない戦い方をするには、情報(データ)を集め、勝負を決めているのは何か、どこに努力を投下すべきかを考える必要がある。むしろ考える作業の方が大事でそれを実行するのは二の次になる程だ。そして、考え続けることよりも、むしろ決められたことを淡々とこなすことの方がむしろ楽な時がある。スポーツの現場では根性を出して頑張っているのではなく、時々苦しくて根性に逃げていることすらある。
とは言ってもこの世界は、誰もが全力で頑張っている世界の話で、そうではない世界では結局量の拡大を限界まで行い、気合いと根性でいけばある程度勝負に勝てるのだろうと思う。
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この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役
1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。