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.社会  投稿日:2020/7/25

「またしても」中止?(中)嗚呼、幻の東京五輪 その2


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・80年前の「幻の東京五輪」は「皇紀2600年」の記念事業だった。

・当時、南半球やアフリカ大陸の都市が名乗りを上げていた。

・ヘルシンキに競り勝ち、アジア初の東京五輪開催が決定。

 

そう言えば、当時は猪瀬直樹氏が都知事だったか……

東京都が2020年の五輪誘致に成功したのは、2013年9月7日に開かれたIOC(国際オリンピック委員会)総会においてである。

決定の瞬間の、関係者の狂喜乱舞と、その前に行われた、滝川クリステルさんによる

「お・も・て・な・し」

という日本語を含んだフランス語のプレゼンテーションは。未だ記憶に新しい。

と言っても、当時生まれた子供がすでに小学生になっているわけで、時間の経つのは早いものだという感想も同時に持った。彼女も今や小泉進次郎・環境大臣の奥方だ。

開催都市が7年前に決められるようになったのは、実は第2次大戦後のことで、大会が回を追って大規模になり、当然ながらより長い準備期間が必要となってきたことに対応したものである。戦前は5年前に開催都市を決めていた

前回も少し触れた、80年前の「幻の東京五輪」は、1935年のIOC総会で一度は決定したものである。ちなみに当時の行政区分は「東京府東京市」で、版図はおおむね現在の東京23区と重なっているが、35区あった。

五輪の第12回大会が予定されていた1940年は、元号で言うと昭和15年だが、当時は「皇紀2600年」として、全国的に祝賀ムードが盛り上がっていた。神武天皇の即位から2600年目だということだが、今ではこれを史実と考える人はほとんどいない(そういう珍しい女性議員がいることは、前に紹介したが笑)。

しかし当時は、大真面目に語られていたことで、たとえばこの年に実用化された最新型の艦上戦闘機(空母で運用できる)は、2600年の末尾の数字から「零式」と名付けられた。世に言うゼロ戦である。

読者ご賢察の通り、この「皇紀2600年」を記念する事業として、時の東京市長らがぶち上げたのが「五輪招致」だったというわけだ。

▲写真 紀元2600年記念式典会場 出典:Wikimedia Commons; 講談社「明治百年の歴史 大正昭和編」より

日本政府はもとより、スポーツ界も大乗り気で、IOC委員で講道館柔道の創始者として知られる嘉納治五郎を中心に招致活動が始まった。

メイン会場として東京府荏原郡(現在は世田谷区の一部)にあった駒沢ゴルフ場の跡地に新しい競技場を造ることも決まり、1932年のIOC総会において、正式に招致の意思を明らかにしたのである。

記録によれば、東京の他にイタリアのローマ、フィンランドのヘルシンキ、ハンガリーのブタペスト、アイルランドのダブリン、カナダのトロント、ハンガリーのブタペスト、アルゼンチンのブエノスアイレス、ブラジルのリオデジャネイロ、エジプトのアレクサンドリアが立候補した。

当時のアジアでは、オリンピック委員会を組織し得る独立国は、日本以外に中華民国とアフガニスタンくらいしかなかったが、一方で南半球やアフリカ大陸の都市が名乗りを上げていたというのは注目に値する。すでに「欧米のスポーツ大会」ではなくなっていた、ということだろう。ただし現在に至るも、アフリカ・中東での開催実績はない。

当時はまた、夏季と冬季の五輪は同じ年に開催されることになっていたため、東京と並んで札幌市も冬季五輪の招致に名乗りを上げた。

かくして招致合戦が始まったが、1935年までには東京ヘルシンキ、ローマが有力候補として残った。ところがまず、ムッソリーニ政権となっていたイタリアがエチオピアに侵攻したことで、世界中から非難を浴びることとなる(1935年、第2次エチオピア戦争)。

実はこの時、大日本帝国はあえてイタリアを非難せず、見返りにムッソリーニから「東京開催を支持する」旨の言質をとった、との説が根強くあるのだが、確たる証拠まではないようだ。

▲写真 ベニート・ムッソリーニ 出典:Wikimedia Commons; Martianmister and Vps

1936年のベルリン大会開催をすでに決めており、ナチス政権のプロパガンダに大いに利用すべく準備を進めていた(実際その通りの大会となった)アドルフ・ヒトラー総統も、東京開催を支持していた。

この例でもよく分かる通り、五輪の招致活動や運営において、

「政治とスポーツは無関係」

というのは幻想にすぎないと私は断じるものだが、この問題は後でもう一度見る。

その評価はひとまず置いて、やはり選挙である以上、ライバルが不利になるような働きかけが行われるのは、致し方ないのだろうか。この時、東京開催に反対する意見とは、

高温多湿の土地柄で夏のスポーツ大会には適さない」

「ヨーロッパから遠く、旅費など参加費用の負担が大きい

というものであった。当時の日本政府は、まず前者には、

「フランスのマルセイユなどと比べたなら、むしろ涼しい」

と反論し、後者に対しては、参加を表明した国にはそれぞれ100万円の補助金を出すと発表した。当時の日本円の貨幣価値は現在の5000倍近いと言われているので、参加国が50か国あるかないかと予測された(1936年ベルリン大会への参加を表明していたのが49か国)大会規模に照らしても、巨額の支出であるには違いない。

カネがものを言うのも、80年以上前から変わっていないのだ。招致活動の費用だけで10万円以上かかったとされている。

かくして1935年7月末、ベルリンのホテルで開かれたIOC総会で、東京かヘルシンキかの最終投票が行われた。31日の投票直前の最終プレゼンテーションでは、講道館の嘉納治五郎が、

「ヘルシンキなど背負い投げー!」

とやって満場大爆笑……というのは大嘘で、本当は、

「東京が遠い、という理由で五輪開催が認められないのなら、日本が欧州での大会に参加すべき理由もない」

と演説したのである。これが当時どのように受け取られたか、残念ながら信頼すべき資料が見つからなかったのだが、今の感覚で言えば、ほとんど恫喝ではあるまいか。

▲写真 嘉納治五郎氏 出典:『教育研究』第482号、初等教育研究会、1938年

ともあれ、最終投票の結果、東京36票に対しヘルシンキ27票で、アジアで初めての五輪が開催されることが決定。日本国内は大いに沸き返った。

ところが、準備が始まるのと前後して、大会の前途には暗雲が立ち込める。

軍部が「開催反対」に回ったのだ。

その理由と経緯は、次回。

トップ写真:東京タワーの窓文字 出典:Flickr; t-mizo


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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