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スポーツ  投稿日:2015/7/30

[神津伸子]【代打の切り札 勝利を呼ぶ男】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 7~


 

神津伸子(ジャーナリスト・元産経新聞記者)

執筆記事プロフィールFacebook

ドラフト1期生。巨人軍での野球の神、天才との出会い。

江藤がドラフト一期生として巨人に3位指名で入団した。在籍したのは3年間、V9の2~4年目、黄金期のはしりだった。当時の監督は、”野球の神”川上哲治。新入団のキャンプミーティングでの話が忘れられないと、江藤は話す。約一時間ほどのミーティングでの川上の話を、江藤はずっとメモを取り続けた。この子供の頃から習慣づけられた”書く”という事が、江藤の人生も大きく変えていくことになるのだが、それは後述する。

ミーティングには、当たり前だが、長嶋茂雄、王貞治、金田正一という、とんでもない豪華メンバーも同席していた。が、緊張している間はない。川上の話の数々は、今の指導にも使えることが沢山あった。
例えば、正力松太郎の言葉を引用しながら

「大リーグに追いつき、追い越せ」
「野球は理屈ではない。理屈を越えたところにある」
「野球は理論ではない、実践である」
「壁にぶち当たったら、努力をしろ。必ず何かが見えて来る」
50年後の今でも、ピンと来る教訓ばかりだった。

江藤のデビュー戦は、忘れもしない。入団したその年の5月、ゴールデンウィーク中だった。2安打放ち、しばらくスタメンとして、起用された。興奮したことを、昨日の事のように覚えている。見回すと1塁には王貞治、3塁には長嶋茂雄、ショートには土井正三が守っている。やばい、これはエラー出来ないぞ、と。半端なく豪華な内野陣だった。一方で、
「同じチームメイトなのに、見ていて惚れ惚れしていました」
守備では、その後、土井正三と競い合うようになった。守備が鉄壁な絶対的二塁手には、かなわなかった。「打撃では負けていなかったのだが」。大学時代は1期上の立教出身で、学生時代はかなわないと思ったことがなかった土井は、プロに入団してから、とんでもない成長を遂げていた。だが、負けてはいられない。練習に励んだ。

当時の巨人軍の練習場であった、『地獄の多摩川グラウンド』(江藤)では、とにかく来る日も、来る日も練習、練習、練習であった。とにかく、皆一流だから、球が速さが半端ではない。江藤も必死に食らいついて行った。また、一流な人々の”自主性”は凄かった。トップの中のトップのそれは、見ている江藤を引き付けた。

江藤は、いつもめちゃくちゃ素振りをする王を尊敬していた。放っておいたら2000本でも振る勢いで、ひたすら振っている。しかも、正月返上で振っている。「王さんが、あの頃1年間の内休んだのは、多分1、2日だけだったと思う」江藤は、こう振り返る。年間55本のホームランを放ち、タイトルを取ったそのシーズンオフさえ、王は全く変わらなかった。「兄・愼一は遊んでいたが」(江藤)

どうしても間近でその王の様子が見たくて、あわよくば自分も習いたくて、当時、王と二人三脚を組んでいた打撃コーチの荒川博の家の門を叩いたこともあった江藤だった。

「王さんは、努力する様が見える天才。長嶋さんは感性が半端ではなかった。していただろうけど、努力しているように見えないタイプだった。野村さんや森さんは、本当に沢山の本を読んでいる理論派だった。今、思えば、自分には当時、そこまで出来なかった」
そのためか、転機は早く来た。

「”女神”呼ぶ代打男・江藤」バット1本に賭けたプロ人生。兄・愼一とのホームラン競演の試合が、最も思い出に残るシーンだ。

1969年、中日ドラゴンズに移籍。最初はレギュラーにも起用された。定位置は5番セカンド。満塁など、好機に強かった。スタメンが知らされるのは、当日。与那嶺要監督から「今日、行け!」と、実にシンプルに言われるだけだ。が、次第に調子が落ちて行き、「よかったのは、その年の5月2日頃までだった」

二塁手には、当時、高木守道がいて、レギュラーポジションは獲れなかった。ならば、バット1本で勝負してやろうと。代打の切り札を、目指し、実現した。当時の新聞には次のような見出しが次々と並んだ。

「”女神”呼ぶ代打男・江藤」、「代打江藤また快打」(中日スポーツ)
「代打江藤のニラミ千金」(中日新聞)、
「乗りに乗る江藤 打てばヒット、代打10割」(同)
「江藤”ひと振りに”専心」(名古屋タイムズ)
などなど。
嬉しかった。DSC01518

中でも忘れられないひと振りは、1973年4月18日、川崎球場での中日VS大洋(現・Dena)の、兄・愼一との競演アーチ。

この試合は大洋が先取点を取り、中日が逆転とシーソーゲームだった。6回裏に兄が中日・水谷寿投手から4-3とリードするソロホームランを放った。このまま勝負が決まれば、江藤愼一はお立ち台で、ヒーローインタビューの予定だ。が、最終回、省三は与那嶺要監督に呼ばれた。
「代打、江藤」

「痺れましたね」(江藤)

好投を続けていた大洋のリリーフ、平松政次。2ストライク2ボールからのスライダーを振り抜いた。打球はレフトを守る兄の頭上を越えて、左翼席中段へライナーで飛び込んでいった。
兄には、慶應の学費も出して貰っていた。いい恩返しが出来たと思った。大洋のロッカールームでも

「あいつが、オレのヒーローを帳消しにしやがった」
と、愼一は悔しがっていたという。

兄は、現役中に3回、首位打者を獲得した。長兄だったから、その稼ぎで、3人の弟たちの大学の学費を負担し、卒業させた。残念ながら、2008年に亡くなり、自分が再度、慶應のユニフォームを着たのは、見てもらえなかったのが、悔いが残ると省三は言う。

その後も、省三は代打に命を賭け、1972年には通算打率3割まで伸ばした。が、76年には、心身共に限界を感じ、引退を選択した。
引退を選択した理由は、いくつかあった。
当時の選手たちの引退のタイミングの平均が34、5歳で、自分もその年齢に達したこと。何より、調子が上がって来ても、一軍に引き上げられることがなかった。

通算11年の通算成績は、464試合、打率.267、65打点、12本塁打。

(8につづく。

【“24の瞳”少年・高校球児を指導する男】〜「野球は人生そのもの」江藤省三物語 1~
【誰にでも甲子園はある】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 2~
【教え子の一言に「ふるえた」。】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 3~
【教えは受け継がれてゆくものだから】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 4~
【甲子園春夏出場 父・兄の背中を見て始めた野球】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 5~

【輝く時 慶應義塾大学野球部選手時代】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 6~
も合わせてお読みください)

 

<江藤省三プロフィール>

野球評論家。元プロ野球選手(巨人・中日)、元慶應義塾大学硬式野球部監督熊本県山鹿市生まれ。
会社員(父は八幡製鐵勤務)の四人兄弟の三男として誕生。兄(長兄)は元プロ野球選手、野球殿堂入りした愼一氏。
中京商業高校(現中京大中京)で1961年、甲子園春夏連続出場。同年秋季国体優勝。
卒業後、慶應義塾大学文学部に進学、東京六大学野球リーグで3度優勝。4季連続ベストナイン。

63年、全日本選手権大会で日本一となる。
65年、ドラフト元年、読売巨人軍に指名される。
69年、中日に移籍。代打の切り札として活躍。76年引退。
81年、90年から2度巨人一軍内野守備コーチ。

以降、ロッテ、横浜でコーチ歴任。
解説者を経て、2009~13年、慶應義塾大学体育会硬式野球部監督。
10・11年春季連続優勝。
この間、伊藤隼太(阪神)、福谷浩司(中日)、白村明弘(日本ハム)のプロ野球選手を輩出。
14年春季リーグ、病床の竹内秀夫監督の助監督として、6季ぶりに優勝に導く。

*トップ写真:勝利の女神が微笑む”代打男”の活躍にファンは興奮した。
*文中写真:当時の活躍ぶりを報じる新聞をきちんとファイルして保存するマメさも、江藤の指導力につながっている。

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