『日本解凍法案大綱―同族会社の少数株、買います!』2章 墨田のおばちゃん その1
牛島信(弁護士)
あらためて大木に誘われたのをしおに、高野は急いで訪問しなければならなかった用件をやっと切り出した。
「母親に友だちがいてね。なに、同じような年寄りだ。だが、いまどきの老人は元気だからな。特に女ってのはな」と説明を始めた。
「ああ、そうそう。いい時代だよ。100歳が珍しくなくなった。歳をとっても幸せに暮らせる。いろいろ理屈はあるが、なんといってもそいつこそが文明ってものだ。豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗なんかではない」
大木が相づちを打つ。高野が苦笑いしながら、
「西郷の台詞だな。オマエ、相変わらずだな。今日の話は、そう幸せじゃないってこともあるって話なんだ」と真面目になったときの癖で、眉間に皺を寄せた。68歳の男にふさわしい、深い溝が眉と眉の間にくっきりと現れていた。
「俺も昔からよく知っているおばあさんなんだ。墨田のおばちゃんて呼んでた。墨田区で亭主が小さな鉄工所みたいなものをやっていて、とっても金回りが良かった。50年以上前の話だ。昭和30年代のことだ。そういう時代があったじゃないか。高度成長ってやつだ。その墨田のおばちゃんが、つい最近俺の母親に泣きついてきたって言うんだよ。株を買ってくれって、拝むようにして頼まれたっていうんだ。俺の母親ってのは小金を貯めていてね。だから株ってのが嫌いじゃない。だから興味半分、くわしく話を聞いてみたそうだ」
「ふーん」
大木は、高野がひどく急かすようにして平日の昼間に大木の事務所にやってきて、いったい何の話をするのかと思っていたのだ。急ぐというのでランチの約束をキャンセルし、サンド・ウィッチを2つ用意させた。赤トンボのサンド・ウィッチだった。その甲斐があって、どうやら愉しい話になりそうな予感がした。
「母親、墨田のおばちゃんが『助けてくれ』って、いまにも泣き出しそうだったっていうんだな」
「そりゃ大変な事態だ」
「オマエ、茶化すなよ。俺も大げさなと思ったよ。俺の母親ってのは、オマエも知ってるとおり何でも大ごとにしてしまう。そういう女だからな。ところが話を聞いて見ると違ったんだ」
高野の母親なら大木もよく知っていた。高野も大木もまだ高校生だった気の遠くなるほどの昔、碑文谷にあった高野の家に行くとよく夕飯を食べさせてくれた。料理自慢で、確かにそれだけのことはあるという気が少年ながらしたものだ。なぜか美味しいと感じさせる味だったのだ。なんの変哲もない魚でも、大した肉でなくてもどこか美味しいのだ。
「ダシが違うのよ、私のは昆布と鰹節だから。それも羅臼の昆布と枕崎の鰹節だからね。君には未だわからないだろうけど、男は胃袋をつかまれると弱いものなのよ」
と高校生だった大木にはわけのわからない説明をしてくれたことがあった。68歳になった今でも、あのときの高野の母親の得意げな表情を覚えている。形のよい小鼻をぴくぴくさせていて、成熟した女性の色気が大きく膨らんだ胸元からむんむんとあふれていた。中年にさしかかった女性のものとは信じられないほど白い肌がしっとりとして美しかった。高野の母親は38歳だったのだ。
若いころには体が弱かったと聞いたことがあった。
「おでぶなのに、それはそれは貧血がひどかったのよ。日によっては起き上がれないこともあったくらい」と言っていた。だから料理には関心を持たずにはいられなかったのだとも言っていた。
あれから50年が経ち、高校生だった高野も大木も老人にさしかかっている。高野の母親は88歳になっているはずだった。もう長いあいだ会っていない。だが、どうなっているか大木なりに想像することはできた。奇跡のような美しい老女であるに違いないと思っていた。
大木は高野の母親を思い出してみる。すると、すぐにある感情がほんの少し胸のうちによみがえる。甘酸っぱいような、まぶしいような感覚。少年だったころのその思いは、今も心のどこかに残っている。68歳になった大木の心は、少年のころと同じなのだ。そういう心はふだんは奥底にひっそりと隠れている。そいつがこんな機会にときどき頭をもたげるのだ。
大木は間近にすわっている高野の顔を見つめ直した。そこには、まちがいなく68歳の老人になり始めた男の顔があった。その顔に向かって話かけた。
「ま、オマエが買おうって株がそういうわけありの地雷みたいな株かどうかは知らんが、いずれにしたってオマエ、その株買えないよ。むりだな」
大木はかすかに微笑みながら高野にさとすように話しかけた。
「高野、日本じゃ非上場会社の株は買えないんだよ」
「え、どういうことだい?」
「日本では、非上場会社の株は会社の承認がないと買えない」
「じゃあ、株を持っていても売れないってことか?ひどいじゃないか」
「そうは言ってない。売れるが、売りたい相手には売れないってことだ。つまり、会社はわけの分からない奴が株主になることを防ぐことができるようになっている。実際には会社が一方的に指定する先に売ることにしかならないことが多い。会社による。会社に公私混同なんておかしなことは一つもないっていうオーナー経営者なら、承認したって、今までどおりの公明正大な経営を続ければいいだけだ。ただ、そういう会社は微々たるものだ」
大木の口調はなんども同じ説明を繰り返しているといったものだった。こういうことだった。
「株を売りたい、買いたいってときには、会社に承認してくださいって言わなきゃならない。あらかじめ、だ。すると会社はこう答える。『売りたいのは分かった。しかし、売るのなら会社か会社の指定するこの買い手に売れ』。会社は、自分でなきゃ会社にとって都合のよい人間を買い手に勝手に指定できるんだ。買いたいっていうときも同じこと。事前の承認を会社に求めれば、同じ答えが会社から帰ってくる」
「そうなのか。自分の株だから誰にでも売れるのかと思っていたよ」
「そうだろうな。たいていの人はそう思っている」
大木が手元の茶のウェッジ・ウッドのティーカップを皿ごと引き寄せた。カップにはまだ半分ほどの紅茶が残っている。大木の好きなアールグレイだ。大木は午前中はコーヒーを飲み、午後は紅茶に切り替える習慣なのだ。アール・グレー、ダージリンのセカンド・フラッシュ、そしてファースト・フラッシュの順になる。色の薄いダージリンのファーストは物足りない。だが、その物足りなさが気分にしっくりくる午後もあるのだ。どれも葉っぱは銀座のリーフル・ティーハウスで買う。誰かからのいただきものをすれば、それを試してみることもある。気に入れば、しばらくそれを飲むことになる。ティーバッグの紅茶は、真夜中、自分で淹れるときにしか飲まない。
視線を高野から外さず、右手で支えたカップを口元へ運ぶ。一口含むと飲み込み、カップを皿に戻した。冷めた紅茶でこそ紅茶の味の真実がわかると大木はつねづね思っているのだ。
「誰だって、自分の会社に見知らない人間に入り込んでほしくない。隠したいことのない会社なんて、ひとつもない。いや、なにも悪いことをしているからっていうだけじゃない。新製品の開発や得意先との関係、製造や仕入れの原価とか、秘密にしておきたいことはいくらでもある。累積投票の制限ってのも、そのためも目的の一つだ。取締役会に反対派に入られちゃ困るからな。株主になるのも、似たところがある」
「累積投票って、なんだい?」
「済まない。余計なことを言ってしまったな。実際上はなんの意味もない制度だ。なんにしても、見知らぬ人間が株主ということになれば会社にとっては大事だ。たった一株でも株主総会で勝手な発言ができるからな。それどころじゃない。3%あれば会計帳簿の閲覧までやる権利がある。法律に書いてある。だから、昭和41年、1966年に法律が変わって、いま説明したように窮屈なことになったんだ」
大木の静かな声だけが二人切りの会議室に響いた。
「それにしても、非上場の会社の株を買うなんて、オマエ、いったいどうしたっていうんだい?」
「言ったろ、母親が買ってくれって頼まれたんだ」
「そうだったな。それなら買ってやればいい。ただし、結局は無駄な手間に過ぎないことになるさ。いま話したとおりだ。会社は先ず、承認しないからな。オマエは一時の当て馬ってことになる」
「なんだか、わけのわからん不思議な話だな」
「そうかい。俺たちの世界では常識だがな」
「弁護士さんの世界か」
「そうだ。七面倒くさい手続きが法律に書いてある。オマエが当て馬になってやれば、結局、売り手は会社側の誰かに売りつけることができる。だから当て馬も人助けって言うこともできるかもしれないな」
「どういうことだ?」
(第2章その2に続く。第1章その1、その2、その3も合わせてお読みください。毎週土曜日11時掲載予定)
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html